中編
鳥の中では〝鷹〟が一番好きだとメリアは言った。
勇ましく大空を舞う姿と、高く澄んだ鳴き声が〝綺麗〟だからと。
◆ ◆ ◆
あれから間もなく、ホークはメリアを連れて町を出た。可能ならば、もう少しゆっくりと休ませてやりたかったが、時間がそれを許さなかった。
あのまま診療所に居続ければ、ドクターに迷惑がかかる。それだけは、どうしても避けたかった。彼は、あの町になくてはならない存在だ。
別れ際、彼はメリアに服とブーツを提供してくれた。彼の亡くなった妻の私物。『背丈が似ているからきっと大丈夫』との言葉通り、それらはメリアの体を美しく飾ってくれた。
本当にお世話になりました——こう謝辞を述べたメリアの頭を、彼は愛おしそうに撫でていた。
娘が生きていれば、君と同じくらいの歳だ——そう呟いて。
彼もまた〝ワケあり〟なのだ。
身を刺すほどに凍てついた空気の中。メリアを背負い、ホークは真っ白な夜道を走った。なるべく人目につかないようにと、舗装された道路ではなく林道を選んだ。……が、いくら軽いとはいえ、人ひとり体に乗せての雪路では、やはり思うように足が動かなかった。
やっとのことで隣の都市に辿り着いた頃には、東の空は白み始めていた。
この国でも有数の商業都市。人と物で溢れ返ったここならば、見つかる心配はないだろう。彼女の体力が回復するまでの間、身を潜めるには打って付けだ。
ようやく、ホークは張りつめた緊張の糸を緩めることができた。目立たないようメリアを背中から降ろし、とりあえず、彼女を休ませるための宿を探すことに。
「……大丈夫か?」
自身の左隣を歩く彼女の体調を気遣う。
彼女の右目に対し、自分なりに配慮した結果、ホークは彼女の右隣を歩くことにした。
「あ、私は大丈夫です。でも、ホークさんが……」
これに対し、メリアは申し訳なさそうに口ごもった。彼女もまた、自分を担ぎ、夜通し走ってくれたホークの体調を気にしていたのだ。
何度も自分で歩くことを彼に提案しようと思った。けれど、それではよけい荷物になってしまうと懸念し、口を噤んだ。
彼女の心で膨らむ罪悪感。勢いだったとはいえ、彼に甘えて孤児院を飛び出したことは本当に正しかったのだろうかと自問した。
「俺は平気だ。心配するな」
そんな彼女に彼が返したのは、なんともぶっきらぼうな返事。だけれども、その中にははっきりと優しさが含まれていた。
彼女が罪悪感を覚えているだろうことは、彼女から滲み出る雰囲気を感取することで容易に推察できる。発する言葉一つひとつを、思慮深く選んでいることも。
昔から、体力にはある程度自信があった。今この職業を選んでいる理由の一つだ。
表情を和らげ、それを告げてやると、ほんの少しだけ彼女の表情も和らいだ。
時間の経過とともに、太陽の光が明るさを増す。それに比例し、人出も増してきた。
降誕祭当日は、前日ほどの盛り上がりは見せずとも、〝祭り〟であることに変わりはない。ゆえに、街中の人口密度も、普段と比較するとかなり高くなっている。
もともと活気のある街だけに、その華やかさは格別だ。
休息かつ滞在できる宿を求め、二人は歩いた。行き交う人々の波に呑まれないよう注意しながら、石畳の道を一歩一歩進む。
道中、メリアは落ち着かない様子で、辺りをキョロキョロと見回していた。瞬きをする回数も明らかに多くなっている。
どこもかしこも人と物で溢れ返ったこの街。建物の数も大きさも、彼女のいた町とは比べものにならないほどの規模を誇っている。
彼女の一連の行動は、知らない土地に足を踏み入れた〝不安感〟から生じたものではないかと、ホークは分析した。
だが、彼女の表情をよくよく観察してみると、彼女の心を支配しているのは、そんな〝負〟の感情などではないということが判明した。『なるほど』と得心し、胸を撫でおろす。
そして、彼女が羽織っているコートの袖口を、彼は左手でくいくいっと引っ張った。
「……見惚れるのは大いに構わないが、はぐれるなよ」
「!! す、すみません……!!」
実は、いまだかつて見たことも聞いたこともない場景に、メリアは全力で心を躍らせていたのである。
威勢のいい売り手の口上に感化され、楽しそうに品物を吟味する買い手。
あちらこちらで、同じようなやり取りが積極的に交わされていた。
「すごいですね……」
ほう、と嘆息し、瞳を輝かせる。何も映っていないはずの右目にも、光が宿っているように思えた。
十歳の頃から約七年間。閉鎖され、隔離された空間から、ほとんど外に出ること叶わなかった。出られたとしても、あの小さな町の一角——孤児院からほど近い、見慣れた範囲だけ。
よって、ここに来てからの数時間。メリアの感覚は、経験したことないくらいに研ぎ澄まされていた。
初めて嗅ぐ香り。肌にぶつかる新鮮な空気。
そこにあるすべてを、彼女は全身で吸い込んだ。
長い間、檻の中に閉じ込められていた。ただ閉じ込められていただけではない。血も涙もない非情な仕打ちを受けていたのだ。
来る日も来る日も、一身に。
眼前に広がる光景。たった今、それを左目に焼き付ける彼女の気持ちは、推して知るべしだろう。
「……」
喜ばしいこと……ではあると思う。
他の人にとっては、とりたててどうということはない事柄かもしれない。それでも、彼女にとっては、至極貴重な経験となったはずだ。
しかし、ホークは素直に喜ぶことができなかった。
これからどうするか。どこへ向かうか。今なお、旅路は白紙のままだ。
ホークの中に、メリアとずっと一緒にいるという選択肢はない。あり得ない。
つい先日、大きな仕事を終えたばかりゆえ、金銭的な余裕は十分にある。当面、仕事をする必要はない。
けれど、いつかは金が底をつく。そうなれば、否が応でも働かなければならない時がやってくるのだ。——傭兵として。
男単身でこそ成り立つ業だ。誰かと行動を共にすることなどできはしない。かといって、一所に落ち着くつもりもない。それは自分の性に合わない。そう思っている。
そう、思いたい。
だから、彼女に情は寄せないと決めている。自分にとっても、彼女にとっても、それは無用なものだ。
檻の中には戻りたくないと訴えた彼女の世界を広げてやること。これが、唯一自分にできることだと、これ以上のことは許されないと——そう、ホークは静かに瞑目した。
◆ ◆ ◆
ちょうどいい具合の宿が見つかったので、この街にいる間、二人はそこに滞在することにした。
宿屋の主人に『兄妹かい?』と尋ねられ、事情を説明するのが面倒だったホークは、とりあえず肯定した。が、よく考えてみれば、親と子ほど歳が離れている自分たちをつかまえて、それはあまりに無理があるんじゃないかと、地味に可笑しさが込み上げてきた。
滞在して三日目。
今年ももう、終わりに近づいている。
「風邪引くぞ」
「え? ……あっ、ありがとうございます」
ホークが温かい飲み物を調達して部屋に戻ると、メリアはバルコニーから夜の街を見下ろしていた。ゆっくりと彼女に近づき、その右隣に立つ。
二人が借りたのは二階の角部屋。他の部屋よりも、若干間取りが広いらしい。
「あまりにも夜景が素晴らしくて、つい……」
ぺこりと頭を下げ、ホークからホットミルクを受け取る。カップを介して伝わる熱が、彼女の凍えた手をじんわりと温めてくれた。
体調が回復してから、彼女はずっと外の景色を眺めていた。暇を見つけてはずっと。
白く染まった街の様相だけではなく、悠々と冬空を羽ばたく鳥たちにも、その煌々とした眼差しを向けていた。
——鳥の中では〝鷹〟が一番好きなんです。
そう、微笑みながら。
「素敵な街ですね」
それほど標高は高くないが、山を背負っているこの街は、寒さがよりいっそう厳しい。宿屋の主人曰く、山から吹き下ろす冷たい風が、体感温度を一段と下げるのだそうだ。
眼下に広がる住宅街。商業地区とは別にきちんと区画整備されてはいるものの、かなりの住宅密度だ。
「……あの灯りの数だけ家族があって、それぞれに物語があるんですよね」
不意に、メリアがぽつりとこんなことを漏らした。淡く浮かび上がるライト群が、彼女の瞳の中でゆらゆらと揺らめく。
彼女の言う〝家族の物語〟は、なにも楽しく語れるものばかりを指しているわけではない。
家族特有の悲しみや苦しみ、さらには憎しみなど。
プラスとマイナスすべての感情を包含したうえで、彼女は言葉を滴下したのだ。
それでも、顔色も声色も、とくに沈んでいる様子はなかった。
「両親は? 亡くなっているのか?」
行動をともにするようになって初めて、ホークは、メリアの家族について質問を投げかけた。
「はい。私が小さい時に、二人とも」
「そうか」
「……ホークさん、も……?」
「……ああ。二人とも、すでに他界している」
「……そうですか」
互いに似た境遇だということは、なんとなく気づいていた。だが、それを確認したからといって、べつに傷のなめ合いをしたいわけじゃない。
彼には彼の、彼女には彼女の〝物語〟がある。その〝物語〟を携え、今ここに立っているのだと、改めて胸に刻んだ。
「あの施設には、何歳から?」
「十歳です。それまでは父と二人で暮らしていたんですけど、事故で亡くなって……」
「……母君は?」
「……私を産んですぐに亡くなりました。母は、自分の命と引き換えに、私を産んでくれたんです」
「……」
もともと体の弱かったメリアの母は、周囲から否定的な意見を浴びながらも、子供を授かることを望んだ。
だが、皆が危惧したとおり、無残にも難産を強いられることとなってしまった。
自分の命をとるか、子供の命をとるか——一夜のうちに迫られた、究極の選択。
母は、迷わず子供の命をとった。
母の死後、彼女の父は、一人で彼女を育んだ。けっして笑みを絶やすことなく、深い愛情をもって。
「右目の見えない私を育てるのは、いろいろと苦労があったと思います。それでも、父は亡くなるまで、男手一つで懸命に育ててくれました」
ハンデをハンデと憎むことなく成長できたのは父のおかげだ。感謝など、いくらしたところで足りはしない。
だからメリアは、心に固く誓った。
「二人のためにも、私は生きたい」
命と引き換えに自分を産んでくれた母のために。男手一つで懸命に自分を育ててくれた父のために。
若くしてこの世を去ってしまった、両親のために。
「どんなことがあっても……生きたいんです」
言葉で想いを伝えることはできない。そんな自分にできるせめてもの恩返しが〝生きる〟こと。
だからこそ、頑張れる。
メリアとずっと一緒にはいられない——ホークはそう思っているが、それはメリアも同じだった。
彼の仕事のことは、メリアとてちゃんと理解している。なにより、彼の邪魔にはなりたくなかった。
何も持たず、身一つで孤児院から逃げてきたけれど、これからは自分一人で生きていかなければならない。その覚悟は、彼女自身しっかりとできている。
ホークの琥珀を真っ直ぐに見据えるメリアの紫水晶。そこには、いっぺんの曇りもない。
翳りも、迷いも。
いっさい、存在しなかった。
「……お前は強いな」
彼女の小さな頭に、自身の左手をそっと乗せる。いつのまにか、彼女の右隣が、自身の居場所となっていた。
彼の言葉がいまいち飲み込めていない彼女。大きくてつぶらな瞳が、さらに大きくなった。今にも彼を吸い込んでしまいそうだ。
この時、ホークは確信した。あの夜、自身の頭に響いた叫び声は、間違いなく彼女のものだったと。
「……俺も、目を逸らさずに向き合わなければ」
メリアの〝想い〟を知ったホークが、思わず零した言葉。案の定、彼女は頭上に疑問符を浮かべ、キョトンとしていた。
十代の頃からずっと、一国の騎士として戦いに身を投じてきた。奪った命は数知れず。初めて自分の手が赤く染まった日のことは、生涯忘れることなどできはしない。
自分が剣を振るうのは〝護る〟ため。そう信じていた。そう信じることで、自分の行為を無意識のうちに正当化していたのだ。
相手を討ち、力で制圧し、領土を広げる。
自分たちは正しいことをしている。自分たちの主は間違ってなどいない。そう、信じていたのに——
自分たちの行っていることが、なんの正当性も持たないただの侵略行為だと気づいた時には、国内各地に戦火が及んでいた。
主は、民を捨て、みずから命を絶った。
主を、家族を……信じていたものすべてを喪ったホークは、何もかも捨てて祖国を飛び出した。
今から、十三年ほど前のことだ。
「明日、この街を発とうと思う。……身体は大丈夫か?」
「あ、大丈夫です。……どこへ向かうんですか?」
「……ここから東に数十キロ進むと、海がある。その海を渡った先の大陸は、俺の生まれ故郷だ。といっても、国はもうないがな。……だが、古い知人が何人かいる。彼らなら、お前が自立できるための手助けをしてくれるだろう」
一度捨てた過去など必要ないと、自分自身を無理矢理説き伏せ、振り返ることを避けていた。……逃げていたのだ。
けれど、過去を受け止め、今を必死に生きようとする幼い彼女の姿に、彼は強く心を打たれた。
逃げているだけでは、どれだけ時間を重ねても、あの忌まわしい過去の呪縛から解き放たれることはない。
向き合って、もがいて、抗って。
辿ってきた道を、その軌跡を、自分自身認めてやらなければ、本当の意味での前進などできはしないのだ。
「海……」
「……どうかしたか?」
「あっ、いえ! 私、海って本や絵画でしか見たことなくて。いつか本物を見てみたいなって、そう、思ってたから……楽しみです」
「……そうか」
自分のために。彼女のために。
かつての土地に降り立つ決意を固めたホークは、この大陸の最東端に位置する港町を目指すことにした。