前編
声が聞こえた。
降り積もる雪。色も音も、何もかも無情に呑み込む真白い雪。そこに埋もれまいと必死に訴える叫び声が。
生きたいと、必死にもがく、彼女の〝心〟の叫び声が——。
◆ ◆ ◆
狭い店内がひしめき合う。
木質の床と、石を使用した組積造の壁は、この地方の伝統的な建築工法である。
天井からぶら下がったシャンデリア。そこに灯された橙色のキャンドルライトが、この空間をより暖かく演出していた。
客の大半は成人男性で、そこかしこから「ガハハッ!」と、豪快な笑い声が聞こえてくる。賑やか……というより、騒がしい。
強烈なアルコールの匂いが充満するここは、町で唯一の酒場だ。
この日は、年に一度の〝降誕祭〟。ゆえに、店内はもとより町中、否、国中……世界中が、祝賀ムード一色であった。
ホーク・クラディアスもまた、カウンター席に着き、一人静かに酒を嗜んでいた。
とはいえ、彼にはこの祭りを祝うつもりなど微塵もなかった。長旅で冷えた身体を酒で温める。ただそれだけ。
冬の闇のような漆黒の長髪に、鋭く光り輝く琥珀色の瞳。喉元をすっぽりと覆い、その長い身の丈をも隠す黒紅のマント。
周囲からは少々浮いた外見——これは、彼が異国人であるということの表徴だ。
「お兄さん、見かけない顔だね。旅の人?」
不意に、隣で飲んでいた男性から声を掛けられた。
歳は三十代後半だろうか。自身とさほど変わらないように見えた。
元々の性格がそうなのか、酒がそうさせているのか。ふわふわとした陽気な声で、人懐こくホークに問いかける。
「……そんなところだ」
ちらりと男性を一瞥すると、とくに目を合わせることなく、ホークは首肯した。口元に近づけたグラスを傾け、こくんと喉を鳴らす。
馴れ馴れしい彼に嫌悪感を抱いたわけではない。単に馴れ合う気がないだけだ。
〝旅をしている〟こと自体、否定はしないが、とりたてて目的があるというわけではなかった。
男単身、傭兵として各地を転々とし、その時々でまとまった金を稼ぐ。そんな風来者たる生活を始めて、かれこれ十年以上が経過した。
目の前の一過性の関係に、自分を語ることなど不要だ。それに、自分を語ることで、否が応でも浮かんでしまう忌まわしい過去と向き合いたくなかった。
「ワケあり……なのかな?」
ホークの態度から的確に何かを悟った男性。笑みこそ封じ込めたが、柔らかいその表情を崩すことなく、ホークに訊ねた。が、彼に返球を求める意図はない。
誰しも、人に知られたくない過去の一つや二つ、あって然るべきなのだから。
「まあ、なんにせよ、こんな小さな町に君が立ち寄ってくれたのも何かの縁だからね。できるかぎりゆっくりしてってよ」
ライトブラウンの双眸を細め、再度笑みを投げかける。同じくライトブラウンの癖毛が、ふよふよと空気に舞った。
けっして明るいとは言えない照明の中でもわかるほどに、彼の透き通る肌は赤らんでいた。彼の前に並んでいる空き瓶から推測しても、相当量の酒が入っていることは間違いないだろう。
しかし、不思議と嫌な感じはしなかった。
いくつもの修羅場をくぐり抜けてきた身だ。人を見る目はそれなりにあるほうだと自負している。
彼の言葉に、他意はない。
「……ああ」
一過性の関係ではあるけれど。
彼のその好意に、ホークは一度だけ頷いた。
夜も更けてきたというのに、客足が衰える気配はいっこうにない。むしろ増加している。
降誕祭は、その前夜に盛り上がりを見せるのが常だ。
祝い酒片手に夜を徹して飲み明かし、聖なる日を迎える——これが、昔からの風習なのだ。
だが、度を越して羽目を外した者は、店に雇われた用心棒により、寒空の下へと容赦なくつまみ出される。これも、ある意味お馴染みの光景であった。
ここだけを切り取ってみれば、今現在、町で一番賑わっているのはこの酒場……だと言えるかもしれない。実際、この二日間の景気の良さは、一年の中でも群を抜いている。
けれども、もう一か所、人の流れが盛んな場所が存在する。——教会だ。
「この町の教会を見たかい?」
「ああ。ずいぶんと立派な教会だな」
「あはは。こんな小さな町には似つかわしくないくらい大きいでしょ? 縦も横も、この町で一番大きな建物だよ」
町に入ってすぐ、ホークはその荘厳な建物を目にした。町の中心からは少し距離があるが、多くの人々が祈りを捧げるためにそこを訪れていた。
主に感謝し、歌を歌い、親睦を図り、平和を祈る。
一年で最も崇高な典礼が行われる場所。
「隣の孤児院は? 見た?」
しかし、そのように幸せ満ち溢れる場所にもかかわらず、そこにまつわる〝不穏な〟噂が、住民の間で頻繁に囁かれていた。
「いや。あまりよくは見ていないが」
男性の問いにホークはかぶりを振った。見ていない……というよりも、奥まっていて視界に入らなかったというほうが正しい。
彼の言う『縦も横も』の『横』は、その孤児院のことを指しているのだろう。
教会に孤児院が併設されていることは珍しくない。自分のような傭兵が食べていくのに困らないご時世だ。過酷な境遇に追いやられてしまった子供たちも少なからず存在する。
ホークは、なんともやるせない気持ちに苛まれた。
そんなホークに、ますます饒舌度の増した男性が話を続ける。
「実は……」
例の〝不穏な〟噂話を。
「そこの孤児院では、子供たちに対して、日常的に虐待が行われているらしいんだ」
声のトーンを落とした男性。
グラスの中の氷が音を立ててはぜた。
「あくまで噂……だけどね。それが本当だとしたら大問題だけど、孤児院のほうは外部からの出入りがほとんどないから、確かめようにもなかなか難しいんだ」
そこまで言うと、彼はふにゃりとカウンターに突っ伏してしまった。いい感じにアルコールが体内を蝕んでいるのだろうか。どことなく怠そうだ。
「……」
彼の話を、ホークは一情報として受け止めるにとどめた。
仮にこれが真実だったとして、よそ者である自分にいったい何ができるというのか。一時の関係や感情で軽く首を突っ込んで良い事案などでは到底ないし、そんなつもりも毛頭ない。
グラスの底に残った少量の酒をあおる。直前の気分を刷新するように。
だが、この噂話は、なぜかホークの胸にちりちりと焼き付いたまま、剥がれることはなかった。
◆
酒場を出たところで、ホークは男性と別れた。
足首まですっぽりとはまる白雪の中、酔っ払った彼を一人家に帰して大丈夫かとの懸念もあった。けれど、意外にも足取りはしっかりしていたので、しばらく背中を見届けた後その場を離れた。
彼とは思いのほか会話が弾んだが、別れ際告げられた彼の職業に、無礼を承知で驚嘆してしまった。
——僕、この町で診療所やってるんだ。もし滞在期間中に何か困ったことがあったら、いつでも寄ってね。
なんと、ドクターだった。
生まれて三十五年。人は見掛けによらないと、これまでの経験で身に染みているはずなのに。
こういった事象に遭遇するたび、新鮮な情感に胸を刺激された。得も言われぬ心地好さを覚えながら、今夜泊まる宿屋へと足先を向ける。
深夜にもかかわらず、町は人で賑わっていた。皆、大切な者たちと特別な夜を過ごしているのだ。
町の良し悪しは、酒場を見ればたいていわかる。この町は良い町だ。清々しくて気持ちが良い。
そう思えば思うほど、先ほどの噂話がやけに引っ掛かった。
確かに、教会は世俗と一線を画している。かといって、彼の言っているのようなことが、この町で実際に行われているのだろうか。
「……?」
そのとき、ホークの耳に、微かな音の粒が飛び込んできた。
一瞬のことだった。ゆえに、何の音なのか見当もつかなかったし、そもそも本当に聞こえたのかどうかすら疑わしい。
「……空耳、か?」
だが、なぜか気になった。無性に。
その音は、鼓膜を揺らしたわけではなかった。ホークの脳内に直接響いてきたのだ。
それも単なる音ではない。
これは——
「……声?」
紛れもなく、人の声だ。
「いったいどこから……」
体の外ではなく、内側で感じているため、声のする方角がわからない。
辺りを見渡してみるも、それらしい人物は見当たらなかった。
——……い。
ノイズ混じりの途切れた声。
か細く小さなそれは、少女のもののようだった。
——……くない。
もっとよく聞きたいと、あえて人混みを避け、町はずれへと繋がる道に出た。
すると、ザリザリというノイズは、とたんに消えてなくなった。
——……にたくない。
ホークが一歩、また一歩と踏み出すにつれ、彼女の声は鮮明になってゆく。
最初は歩いていた彼だったが、しだいにその速度を速め、気づけば息を切らして走っていた。
——死にたくない。
彼女の〝想い〟が伝わった瞬間、居ても立っても居られなくなった。
泥混じりの雪を無我夢中で蹴り上げ、わずかな街灯の光だけを頼りに、暗闇を掻き分け直走る。
そして——
——生きたい……!!
ホークが辿り着いたのは、町はずれの教会——そこに併設している、くだんの孤児院だった。
外部からの不用意な立ち入りを防ぐため、四囲はぐるりと柵が施されていた。
時刻はまもなく午前零時。
当然のことながら、幼い子供たちが就寝しているであろう建物からは明かりが消え、辺りはひっそりと静まり返っている。
周囲を見回してみても、少女の姿などどこにもない。
「……」
やはり気のせいだったのか。久々の酒に酔い、幻聴でも聞こえてしまったのだろうか。
息を整え、再度周囲を確認しながら溜息を一つ。釈然としないものが胸に立ち込めたが、今度こそ宿に向かおうと、踵を返した。
そのとき。
「……!」
彼の視界の端。施設の敷地内で、ぴくりと何かが動いた。
地面にうつ伏せに横たわった〝それ〟は、前半分が、分厚い雪の層に埋もれていた。
ガス灯の下。真白な雪に冴え返る真白い服。雪で濡れてしまった長い髪。
その体格から推察するに、おそらくあれは十代の少女だ。
「おい、大丈夫か……っ」
自身の背丈の倍はあろうかという柵を軽々と飛び越え、ホークは少女のもとへと駆け寄った。反射的に声を抑え、冷え切った彼女の体を慌てて雪から引き離す。幸いにも呼吸はしていた。弱々しくも、規則的に。
施設の関係者を呼ぼうとは思わなかった。……思えなかった。
この極寒の中、彼女は裸足だったのだ。纏っている服も、冬物とは言いがたいほどに薄手だった。
彼女の傍らには、パキパキに凍ったシーツ。すぐそこには水場があった。
まさか、このシーツを洗っていたのか? こんな夜中に? こんな薄着で?
みずから進んで洗うはずなどない。……強いられたのだ。
ガス灯の明かりに浮かび上がった彼女の白い肌には、ところどころに痣のようなものが確認できた。
——そこの孤児院では、子供たちに対して、日常的に虐待が行われているらしいんだ。
ドクターから聞いた噂話が脳裏をよぎる。
もはや疑う余地などありはしなかった。彼女が虐待を受けていることは、火を見るよりも明らかだ。
腕の中の少女をじっと見つめる。
一刻も早く治療を受けさせなければ——その一心で、ホークはこの場をあとにした。
◆
「まさか、こんなにすぐ再会することになるとはね」
ホークが少女を連れてきたのは、酒場で一緒になった彼が営む診療所だった。
ベロンベロン……とはいかないまでも、十分酔いが回っていた彼に診察してもらうことを躊躇わなかったわけではない。そもそも、起きているとは思わなかった。が、今のホークには、ここ以外頼れる場所が思い当たらなかったのだ。
彼曰く『今日みたいに皆が浮かれる日は、体調を崩したり怪我したりする人がどうしても出ちゃうから、夜中もやってるんだ』とのこと。
彼の人柄と、その職業意識の高さに救われた。
現在、少女の治療が終わるのを、診察室の外で待っているところだ。
「……」
〝生きたい〟という必死の叫び声。結果として少女を見つけることに繋がったが、あの声がはたして彼女のものだったのか否かは定かでない。
本当にただの空耳だったのかもしれない。ドクターから聞いた噂話が頭から離れなかったがゆえ、自分の意識が勝手に作り出してしまった幻聴——。
いまだかつて経験したことのない事象に驚きを隠せないホークだったが、一番驚いているのは、こんなことをしてしまった自分自身に対してだった。
必要以上に他人と関わることはやめた。国を出たあのときから。
三十五年前、貴族の嫡男として生を受けたホーク。かつては国に忠誠を誓う騎士だった。
国のために命を懸けた。なんの疑問も抱かずに。
誇りを持って、戦った。
だが、自分が命を懸けて守ったものは、自分のことを守ってはくれなかった。
——裏切られた。
自分が国を捨てて間もなく、祖国は滅んだ。死んだ家族の墓も、おそらくもうない。
「……っ」
壁に凭れ、項垂れる。
声にならない声が、静寂を揺らして消えた。
「あの子、目を覚ましたよ」
診察室からドクターが出てきた。白衣を羽織っている姿は、まさしく医者だ。
「容体は?」
「あまり良いとは言えないけどね。受け答えは、ちゃんとしてくれた」
名前や歳を尋ねると、それに対し、彼女は丁寧に答えたのだという。自分の置かれた現状も、きちんと把握できているそうだ。
彼女の名は、メリア・エスコルティア。先月十七歳になったばかりらしい。
「……あの噂、やっぱり本当だったんだ」
ドクターは、切なそうにぽつりとこう漏らした。
相変わらず表情は和らげたままだったが、そこにははっきりと怒りが浮かんでいた。
「栄養状態が良くないんだ。十分な食事がとれていなかったんだろうね。……それから、全身に痣があった。あれはおそらく殴られた痕だ」
「……」
ホークは、メリアを抱え上げた瞬間のことを思い返していた。
あまりにも軽過ぎる彼女の体重にぎょっとした。少女といえど、成人に近い女性の体重だとは到底思えなかったのだ。
親を失った子に、よくもこんな酷い仕打ちができたものだと慨嘆した。
だが、彼女の持っている苦難は、これだけに留まらなかった。
「回復はするんだろう?」
「まあ、栄養は取れば改善するし、痣も時間が経てば治るけど……」
「……他にも何か問題が?」
歯切れの悪いドクターに、ホークが怪訝そうな面持ちで問いかける。
伝えていいものかどうか——彼はそう逡巡しているようだった。それは、彼女に配慮してというより、むしろホークに配慮してのことだった。
琥珀色の瞳から、自身のライトブラウンのそれを逸らす。今この状況で〝伝えない〟という選択肢を採ることはできない。そんなことは百も承知だ。
気持ちを整えるため一呼吸置くと、彼は鉛のように重たい口をゆっくりとこじ開けた。
「……あの子、右目が失明してるんだ。今はまだ左目が見えているけど、そう遠くない将来、あの子は完全に光を失うことになる」
「!?」
ドクターの口から告げられた事実に、ホークは目を見開き絶句した。
「君のおかげで、あの子は一命をとりとめた。あのまま放っておけば、間違いなく命を落としていただろう。……あの子の意思はともかく、医者として、また同じ場所にあの子を帰すことはできない。でも……」
できることなら、メリアをここで保護したいとドクターも考えている。
しかし、教会がそれを許すはずがない。
「……彼女を取り戻すためなら、権力を笠にきて横暴に打って出るだろうな」
知られてはならないことが露呈してしまった。今頃血眼になって彼女を探しているに違いない。このまま町にいれば、見つかるのも時間の問題だ。
ホークが彼女を連れてこの町から出たとして、根本的な解決になどなりはしない。居所を持たないホークにとって、彼女は枷だ。そのことはドクターも理解している。
だから彼は躊躇ったのだ。いずれ彼女が光を失うと、ホークに伝えることを。
「……あの子に会ってもらえる?」
「え……?」
「お礼が言いたいんだって。君に」
今後どうするか——急迫した課題ではあるが、ドクターはとりあえずこちらを優先することにした。彼女の健気な望みをホークに伝える。
「……わかった」
「よかった。……じゃあ、入って」
断られるかもしれないと心配したが、気乗りしないながらも首を縦に振ってくれたことに、ひとまず安堵する。
木製の扉をカチャリと開け、二人は診察室の中へ。
部屋の角。そこに設置されたベッドの上に、メリアは横たわっていた。暗い屋外では判別できなかったが、彼女の髪は、絹糸のように艶やかなコーラルピンクだった。
彼女のもとまでゆっくりと歩みを進めるホーク。ベッドの傍らで立ち止まると、首をもたげた彼女と目が合った。
吸い込まれそうなほど深い紫色。その輝きは、光を浴びた紫水晶だ。
メリアはふわりと微笑むと、ホークに謝意を述べた。まるで天使のように無垢な笑顔。胸がずきりと痛んだ。
硝子玉を弾いた程度の小さな声だったゆえ、あの叫び声とこの声が一致するか否かは判断できなかった。
——生きたい……!!
けれど、あの叫び声が——〝想い〟が脳内で再生されたその瞬間、
「……戻りたいか?」
ホークは、無意識に言葉を発していた。
「っ……!!」
これにはメリアの顔色が急変した。眉を顰め、必死にかぶりを振る。
戻りたくない——これが彼女の意思だった。
そして——
「俺と一緒に来るか?」
彼女は〝生きる〟ことを選んだ。
自身に差し出された、逞しい腕。その腕に、メリアは自身の腕を伸ばした。
白くてか細い、痣だらけの自身の腕を。