夜の燐光花と旦那様の進歩
レオナルド王子殿下との突撃訪問から、一週間。
あれから王子殿下とのコンタクトはありませんが、どうやらロルフ様とはやり取りしているらしいです。私に愚痴ったり、王子殿下の功績をちょっぴり自慢したりと何だかんだ仲良しさんな事を私に伝えてくれるので、微笑ましい思いでお話を聞いております。
そうして日々をゆったりと過ごして……お休み前の時間、かねてから計画していた事を実行に移そうと心に決めたのです。
「……あの、ロルフ様」
入浴を済ませてもう寝ようという時間。
当然ロルフ様も寝る準備をしていたのですが、私はそんなロルフ様におずおずと声をかけます。
ロルフ様は私の小さな声も無視する事なく「何だ?」と柔らかく聞き返して下さったので、安心しつつ続けます。
「その、もし今からお時間を頂けるなら、少しお散歩に行きませんか」
「散歩か? しかし、もう夜も遅いが」
「燐光花が今咲き誇ってるんです。夜だから、綺麗に見えるかな……と」
王子殿下に見せた時はまだ全部咲いていなかったのですが、つい今日綺麗に花開いたので、夜を待ってお誘いしたのです。闇色の帳が降りたこの時間こそ、最も燐光花が映える時間帯ですから。
青白く、淡く光る燐光花は儚げで美しく、育てた私としても自慢の美しさです。あの幻想的な光景を、二人で見れたらなって。
「ああ、成る程。それならば行こうか」
「はい」
得心したらしいロルフ様が穏やかな表情で私の頭を撫でるので、目を細めつつ頬を緩め、差し出される手をそっと握り返しました。
最近は暑くなってきたのですが、夜は肌寒さを感じるので化粧着を羽織っての外出です。と、いっても敷地内のお庭なのですが。
ロルフ様の手を引いて「こっちですよ」と手を引く、その時間ですら胸が弾むような感覚がします。
燐光花は、私とロルフ様の思い出の花であり、始まりの花でもあり、そして結んでくれた大切なお花でもあるのです。
ずっとこの光景を見せてあげようと思って、丁寧に育ててきました。漸く理想の光景が出来上がったのだから、ロルフ様に早く見せたくて堪りません。
相好を崩しながら大きな掌を引っ張る私にロルフ様は苦笑。
何というか、微笑ましそうに私を見つめています。
「急がずとも花も私も逃げないぞ。落ち着くと良い」
「それはそうなんですが……あっ」
「だから言っただろう、落ち着け、と」
暗くてあまり足元が見えていなくて、危うく転びかけた所でロルフ様に手を引かれて事なきを得ました。
……ま、またやってしまいました。コルネリウス様にもよく笑われるのですが、私、不注意というか転びやすいらしくて何もない所で躓いたり。
人に見られていない時は転ぼうが治せますし良いのですけど、コルネリウス様やアマーリエ様、ホルスト様に目撃された時の恥ずかしさたるや、穴を掘って埋まりたいくらいです。
「エルは危なっかしいから、抱えて歩いた方が良いと思うのだが……」
「い、いえ、大丈夫ですからね? お気遣いだけで嬉しいです」
ロルフ様の抱えるは多分お姫様抱っこなので、何回かされてはいますけど、気恥ずかしい。丁重に運んでくれるからこそ、こう、擽ったいというかふわふわとぽわぽわが混じったようなもどかしさがあるのです。
なので丁重にお断りして、今度は慎重に歩みを進めて……そして、近付く淡い光に、隣で息を呑んだような、詰まらせたような、言葉を失った時に発せられる音が、聞こえました。
「……どうですか?」
そして燐光花が取り囲む中央の東屋に着いてから、小さく問い掛けてみます。……と、いっても、表情を窺えば、聞かなくたって分かりますが。物語っているとはこの事です。
鳶色の瞳に湛える感情は、私にとって、とても嬉しいもの。
「……私には上手く表現出来ないが、とても美しいと思う」
口の中で暫く吟味した後に吐き出した言葉はとてもシンプルなもので、だからこそ感動も直ぐに伝わってきます。
青白く澄んだ光にぼんやりと照らされたロルフ様は、ただ咲き誇る燐光花に視線を巡らせ、静かに吐息。余計な修飾のない言葉は、本心から来るものだと思っています。
私たちの目の前に広がるのは、東屋を円状に囲む燐光花の数々。
薄く透き通った、硝子にも似た繊細な花弁は淡い光を放っており、光が降り積もっているような光景を作り出しています。
夜の闇をすすぐように青白く柔らかな光を広げる花弁は、それこそ優美な細工にも似た完成された美しさがあります。触れれば、壊れてしまいそうな程に、繊細で儚げな花。
魂の色を写し出す、とレオナルド王子殿下に言われましたが、私の本質はこんなにも綺麗なのでしょうか。あまり自信は持てませんが……ロルフ様にとって清らかな私であったら、良いな。
「良かった。……夜に見ると、とても綺麗でしょう?」
「ああ。……お前を救った花だ、これからも大切に育てていきたいな」
「私を助けてくれたのはロルフ様ですよ」
誘拐事件の事を思い出すと、少しだけ、怖くなりますが……私には、ロルフ様が居ますから。
私だけの、魔法使い様。
「まあ、そうではあるが。私はこの導きがなければ辿り着けなかった」
「……ありがとうございます、助けに来てくれて」
「当然だ。私の大切な妻だからな」
「……はい」
始まりは、決して良いものではありませんでしたが……今ではこうして私の事を愛して下さるから、私はとても幸せです。
胸に広がる暖かい気持ちに応えるように燐光花が揺れて光を増すのを、私はただ穏やかな表情で見守って。
この花が私の魂を写し出すのだとしたら、きっとロルフ様の輝きと慈愛を受けて輝くものなのでしょう。
私にとってロルフ様は太陽だと例えましたが、それなら、きっと私は月のようなもの。ロルフ様の輝きを受けて、私もまた輝く。ロルフ様よりは弱い輝きだけど、寄り添うように優しく光る、と思っております。
そよ風に揺られる髪を払いながら静かに口元を綻ばせる私。
……そんな私を、ロルフ様はそっと抱き締めます。
「エル。キスしても、怒らないか?」
小さな問いかけに目を丸くするものの、直ぐに唇をしならせて今更聞くのですか? と瞳で問います。
聞かずとも、普段ロルフ様はしてくるのに。
「怒りませんよ。怒った事ありますか?」
「恥ずかしそうに嫌がる事はあっただろう」
「そ、それはその……。今では嫌がりませんから」
「本当だな?」
朗らかに笑ったロルフ様は、そっと私の唇に自分のものを重ねます。
もう、数え切れないくらいに口付けを受けてきましたが、唇が触れ合う度にどきどきしてしまって慣れません。
柔らかいけど私のものよりはしっかりした感触が、私の唇に押し付けられ、ゆるりと擦れていく。密着こそしてるけれど強くくっついている訳ではありませんので、擽ったさが目立ちます。
すり、と愛でるように唇の触れ合い。それから、下唇をやんわりとくわえられて軽く唇で食まれます。
瞳を閉じているから、感覚が集中してしまって、何とも言えない感覚が唇と背筋をなぞり。はぁ、と自然と熱くなりつつある呼気を零すと、それごと受け取るかのように唇を開けた状態で、微かに角度を変えて覆うように重ねて来て……。
「……っ」
それから、初めての感覚。
すり、とやんわりとなぞるように、たどたどしい動きで深く口付けてくるロルフ様に、正直どうして良いのか分からなくてされるがまま。
こういう口づけがあるとは知っていましたが、その、……初めてされたので、どう反応を返せば良いのか、分かりません。
逆に、ロルフ様も初めてみたいでとても強張ったような硬さの残る口付け。私の反応を窺いながらゆっくりと内側を溶かそうとするロルフ様は、触れ方だけでも一杯一杯な事は分かります。
暫く、唇で繋がっていましたが、足腰が役に立たなくなってきて、膝から崩れそうになります。
ロルフ様が支えてくださったので膝をつく事はありませんが、凭れて余計に密着してしまい、何故だか気恥ずかしさが強くなってきます。……いつもくっついてるのに、とても、心臓がうるさい。口付けのせいでしょうか。
私を受け止めたロルフ様は、口の端を吊り上げます。月光に照らされ口許に美しく笑みを形作るロルフ様は、誰もが見とれそうな程、艶かしくて。
「やはりお前は甘いな」
「ロルフ、様」
一気に体に熱が回る。頭にも、胸にも、お腹にも、不可思議な熱が灯っては内側をじわりと焦がそうとする。もどかしさすら感じるそれに囚われたくなくて、でもロルフ様の視線に囚われてしまって。
「もっと欲しい。欲張りだな、私は」
その言葉は、宣言だったのでしょうか。
言葉を言い終えた瞬間にはもう一度唇同士が抱擁を交わし合うように重なり、そのままより深く繋がろうとロルフ様が私に侵入してくる。
どうしたのでしょう、とされるがままになりながら、若干酸欠気味のぼんやりとした思考が答えを求めようとします。けど、ロルフ様はそんな余裕すら奪うように、深く、口付けて……。
何か頭の中がピンクになって視界も滲んで、もう限界だとロルフ様に全部任せて寄り掛かると、満足したのか唇を離して、そのまま側のベンチに私を抱えて腰掛けます。
ロルフ様の膝の上に横に抱えられて、私ははぁ、と乱れた息をゆっくり整え。ロルフ様はそんな私を優しく撫でつつ額にも口付けを落としていくから、もう何がなんだか分かりません。
……ど、どうして、こんなキス。いえ、良かったのですけど、あのロルフ様がこういう求め方をするなんて。だって、ピュアというか異性関係にはとことん純粋なロルフ様が……!
「……ど、何処でこんな事覚えたのですか」
「レオナルドに貰った本に書いてあった」
あれか、あれですか、あの本ですか。そう言えばこの間一人で読書をしていると思ったら……!
「……それ検閲しても良いですか」
「……ならぬ」
「何で目を逸らすのですか」
「兎に角駄目だ。エルには刺激が強い」
「待って下さいそれはロルフ様にも刺激が強いものですよね!?」
ロルフ様のその気まずげな顔は何か悪い事を隠してる顔です。基本は悪戯がばれて叱られるのを避けようとする時に使う顔ですけど、今回悪戯とかよりある意味質が悪いです。
つまり、ロルフ様は何かとても凄い本を見ているという事ですよね?
「私は大人だから良いのだ」
「私も大人ですっ」
「兎に角駄目だ。折角私が勉強しているのにエルが覚えてしまっては意味がないだろう。それにエルは女だから女心はもう勉強しなくて良い筈だ」
「……女心を理解する為に読んでたのです?」
「逆にそれ以外何の目的があるのだ」
私はお前以外に興味ないぞ、と熱烈な告白をしてくださるロルフ様。……それは、存じていますけど……!
もしロルフ様が過激な書物を読んでいるのだとすると、それはそれで複雑なのです。レオナルド王子殿下なら嬉々として混ぜ込んで送ってそうですから。
でもロルフ様が私だけしか見ていないと断言して下さっていますし、多分それは本音。だから、私は強く言えません。お、お勉強って何をお勉強してるのか激しく気になりますが、詮索されたくないなら我慢します。
「……じゃあロルフ様を信頼して見ないでおきますけど」
「そうしてくれ」
「……代わりに、ロルフ様が女心を勉強するなら、私も男心を勉強します」
「教科書はどうするのだ」
「生きている教科書を頼りにします」
コルネリウス様やレオナルド王子殿下に聞いたら、多分ロルフ様をどきどきさせる手段の一つ二つ教えてくれると思います。何か二人は女性慣れしてそうです。いえ、レオナルド王子殿下はこう、甘い言葉を囁いて情報を得たりするイメージがあるので、つい。
私ばかりどきどきしてるのですから、ロルフ様も偶には心臓が飛び出そうな程どきっとしちゃえば良いのです。……私にそんな色気があるかは、さておき。
「……む。私にも母上に聞くという手段があったな」
母上からも聞いてみようとあくまで大真面目なロルフ様に、そこは恥ずかしくないんですね……とか思ったり。まあ、ロルフ様は知識に貪欲ですし、求める事に躊躇ったりしない人ですから、それも仕方のない事なのでしょう。
程々にして下さいね、と釘を刺しておくのを忘れない私に、ロルフ様はこれまた大真面目に頷くのです。……色々と不安なのは気のせいでしょうか。
アマーリエ様があまりにも遅々とした夫婦関係に業を煮やしてロルフ様に変な事を吹き込まない、とも限らないのです。勿論アマーリエ様なのでそこまで唆したりはしないでしょうけど……。
「エルをときめかせる研究は大切だからな」
「……いつもときめいてますから」
「そういう物か? どうしたらときめくのだ、エルは」
「こういうキスは、その、どきどきします」
だって、今までロルフ様は何というかピュアというかあまり男の人らしい欲求が薄かったというか……だから、こうした口付けをするとか、思ってなくて。
「つまり、エルはこれでとてもどきどきするのだな?」
ロルフ様は、心なしか肉食獣めいた艶のある、ちょっと悪戯っぽい笑みを浮かべています。
……どうしよう、ロルフ様がこのキスを覚えた事で私の心臓とか足腰が機能不全になりそうな予感がひしひしとして参りました。
「ほ、程々にして下さいね? 私、心臓が持ちません」
「しかし、私はしたい」
「そんなにしたいのです!?」
「ああ。……ああいう顔をするエルは、とても可愛らしいと思う」
ああいう顔ってどんな顔ですか、と突っ込みたかったものの、聞いたら多分羞恥で死にそうになれる事間違いなしなので止めておきました。
もっと見たい、と瞳で訴えてくるロルフ様には「今日はもう駄目です」と唇を手で塞いで首を振ります。途端に残念がるロルフ様は、本当に私をとろとろのぐずぐずに溶かす気満々だったのでしょう。
……それも悪くないかな、と思う時点で大分理性が溶かされてる気がしますけど。
「そ、そろそろ部屋に戻りましょうか。体も冷えてしまいますし」
「そうだな。どれ」
本当は、ロルフ様のせいで熱いくらいですけど……それは言わずに、ただロルフ様の胸に頬を寄せながら告げる私。ロルフ様は、納得したように頷いて……そのまま、私を横抱きにしてから立ち上がります。
「え? あ、あの、ロルフ様?」
「部屋に帰るのだろう?」
「そ、そうですけど……」
「こうしてくっついていた方が温かいだろう? それに、暗いから足元が見えにくいから危ない。お前はどじだからな」
よく転ぶだろう? と失礼な評価を下すロルフ様ですが、否定出来ないので唇を尖らせて……あっ、と思った時には唇に噛みつかれてました。
あくまで啄むような触れ合いだけなのに、一気に頬に熱が集まるのは、毎回ロルフ様が唐突で大胆だからでしょう。唇を尖らせると食べようとしてくるのは、最近学んだ癖です。
もう何も言えなくてただ唇をもにょもにょと蠢かせるしか出来ない私に艶然と微笑んだロルフ様。
そのまま楽しそうに喉を鳴らして燐光花の淡い光で出来た道を歩いていく愛しの旦那様に、私は恥ずかしさを隠すようにロルフ様の首筋に顔を埋めました。




