相容れぬ人
気が付くと、私は見知らぬ天井を瞳に映していました。
煌めくシャンデリア、意匠の施された上品な模様の天井。ちらりと視線を動かせば品の良い調度品が視界に入るのです。趣味的に少なくともクラウスナーの屋敷ではない事は確かでしょう。
まだ衝撃から立ち直っていないのか頭が痛むし衝撃を受けた首筋も痛みます。よろよろと体を起こせばやっぱり知らない部屋。ただ、しつらえられた内装から、何処か屋敷にでも連れてこられたのでしょう。何故かは、分かりませんが。
うなじの辺りに手を触れれば僅かにひりひりとしていて、触れるとややかさついたような、皺の寄ったような感覚。
……焼けたような感じがしたのですが、もしかしたら電撃を流された……?
起き掛けで頭が上手く働きませんが恐らくそうなのだろうと結論付けて、うなじを押さえながらも小さく治癒術を使います。こういう時に覚えていて良かったと思いますね、自身の治癒が出来るので多少の無茶も出来ますから。
手触りからは無事に治った、と思います。自分では上手く見れない範囲なので多分ですけど。
それから漸く周囲の状況を正確に把握する為に改めて周りを見ると、やはり見覚えのない景色。自宅ではない何処か、です。
……気を失う前に見た、あの赤色。あれは……。
確信はないものの私が今どういう状況に置かれているのかは薄々察し始めて、どうしたものかと途方に暮れそうになった時、扉が開かれるのです。
思わず体を揺らして、体を起こした状態のまま固まってしまった私。そして扉の向こうからやって来たのは、私の想像とは違った人でした。
「ああ、起きたか」
「……ええと、イザーク様……?」
……そう、現れたのは、あの赤い髪ではなく、紺碧の髪の、男性。
私が起きている事に何処か安堵したようでしたが、私としてはちっとも安心出来ません。何故、イザークさんが。……此処にイザークさんが居るという事は、イザークさんの邸宅なのでしょうか。
何とも言えない表情でイザークさんに聞き返してしまった為、イザークさんは私の表情を見て苦笑。私の思いをどう受け取ったのか、ただ困ったように、寂しそうに笑うのです。
だからこそ、余計に分かりません。
何故、私は此処に居るのか。
「……ええと、私は……誘拐されたのでしょうか」
「随分とご理解が早いものだ。結果的にそうなってしまった事は詫びよう」
あっさりとした肯定に、私もどうして良いのか分からなくてただイザークさんの紫紺の瞳を見つめ返すのです。
「理解というか、痛みを感じて気を失って知らない部屋に居たならそう疑うしか」
「それもそうだな。……では、誘拐された理由は分かるか?」
「……ロルフ様を脅すのですか?」
……私を連れ去る理由なんて、それくらいしかないと思うのですけど。増幅能力は外には出してないから知られていないと、思いますし……。
個人的にはイザークさんはどちらかと言えば正々堂々と競い合うようなタイプだと思ってるので、誘拐という姑息な手段は使わない気が、するのですけど。
でも拉致監禁……まではいきませんが誘拐は事実で、私は気を失って此処に連れてこられたのです。
実行犯は多分、イザークさんではないでしょうけど、それでも誘拐されたのだから何らかの目的はあるでしょう。
「……やはり俺はそういう目で見られていたのだろうか。確かに、俺はロルフとは仲は良くないが……」
「それ以外に理由が思い付かない、です」
「結論から言うと、違う。それと、俺としては貴女に危害を加えるつもりはない」
「誘拐した時点で危害を加えていると、思うのですが」
「そう言われればそうだな。……それは本当に申し訳ないと思っている」
責めたつもりはなかったのですが、イザークさんはまた困った顔……というよりは、自らを嘲るように、苦いものを含ませた笑みにも満たない唇の歪め方をしています。
……何となくですけど、もしかして、イザークさんは私をこんな方法で連れてくるつもりなんかなかったんじゃないかって。連れてこられたのは、確かですけど……。
あくまで憶測に過ぎませんし、誘拐犯の事情まで汲み取る事なんて出来ませんけど。犯罪は犯罪ですし、誘拐の事実は変わらないのですから。
反応に困った私に、イザークさんは静かに私に紫紺の瞳を向けてきて。
「……俺は、貴女の事を知りたかった」
「私、を」
「貴女には何らかの特別な力が隠されているのかと、思ってな」
衝撃を表に出さなかったのは、奇跡に近いです。
ある意味で、予想出来た理由。まだイザークさんは確信に至っていませんが、私に何らかの力があると踏んで、私を誘拐したのなら、理由も何となくですが納得出来ます。
『もし、その条件が人為的に満たせるのであれば、お前は魔力持ちにとって喉から手が出る程欲しい存在となるだろう。触れるだけで魔力が増えるのだから。多少強引にでもお前を確保しようとする人間も現れる筈だ』
『分かりやすく言えば、拉致監禁される恐れがあるという事だ。その後のお前の身の安全はある程度保証されるだろうが、どう扱われるかなど犯人次第だ。お前を使って金を取ろうとする者も居るかもしれないし、人体実験をする者やお前の尊厳を踏みにじる者も居るかもしれない』
昔、ロルフ様に言われた言葉。結局の所ロルフ様にしか魔力増幅しか効かなかったのですが、ただ魔力増幅能力という言葉だけ聞いたならば、イザークさんが誘拐する理由にもなるでしょう。
ただ、それにしては確信はなさそうですし、何処か疑うような視線ではありますが。私の能力を求めている、にしては視線の毛色が違い過ぎます。確かめるように、試すように、じっと私を見ている。
「これから言う事は、貴女を蔑むつもりでも貶すつもりでもない、ただ純然たる疑問だと思ってくれ。無礼は承知の上で、言わせて頂く。……貴女は、あまりにも普通過ぎるんだ」
「……どういう事ですか……?」
「普通過ぎて、俺にはロルフが貴女を溺愛する意味が分からないんだ。何か能力がある、でなければ、あのロルフが貴女のような無力な小娘を娶る訳がない、俺はそう思った。だからこそ、こうして問う機会を作って貰ったのだが……」
無力な小娘、という言葉が突き刺さりますが、実際私単体では無力に等しいので否定出来ません。
「あれは、研究に貪欲だ。研究以外何も要らない男だ、それ以外眼中にもなかった。ずっと研究一筋でいた。……それなのに、妻を迎え、そしてわざわざ『調査』という目的であなたを研究所に連れ込んだのだから、何か理由がある筈だろう」
「……そんなの知りません、私は……」
「……失礼だが、貴女は俺から見てそれ程魅力的には思えない。ただ、あれの後ろに引っ付いて此方の顔色を窺うだけの、取り立てて美しいという訳でもない極普通の女性だ。ならば利用価値があって側に置いているというのが普通だろう」
申し訳なさそうに、しかしきっぱりと主張するイザークさんに、すとんと疑問が胸に収まるように落ちました。
……この人は、私を利用するとかそういう考えで連れ去って来たんじゃない。この人は、分からなかったからこそ、私に直接聞こうとしたんですね。
イザークさんが認めているロルフ様が、何故私のような女と結婚して、気にかけているか。大切にしているか。
最初は政略結婚に近かった事を、知らないのでしょう。そして、能力も知らないから距離も近付いた理由も知らない。だからこそ、疑った。何も持ってなさそうなひ弱な小娘が、隣に居る事を許されるのは、何故か。
「別に貴女を貶したい訳ではないのだが、特段優れた点もなさそうな平凡な女性が、何故、ロルフの妻の座に収まっているのか。そこを考えた結果、貴女には何らかの力がある、という事になったのだ」
「……それを確める為に、わざわざ、誘拐したのですか? 誘拐は犯罪だと分かるでしょうに。普通に聞くとか、考えなかったのですか」
「こんな強引な手段を取った事は、詫びよう。ただ、貴女に近付くとロルフが嗅ぎ付けてくるし、貴女は素直には喋らないだろう」
どうしても確かめたかったのだ、と苦渋に満ちながらも確たる意思を以てして断言するイザークさん。
「それと、誘拐を決めたのは俺ではない、と言おうか。言い訳のように、聞こえてしまうかもしれないが。確かに連れてきて欲しいとは言ったが……もっと穏便な手段を取って欲しかったのだがな、俺としては」
「……実行犯は、アンネさん、ですか」
「そこまで分かっているのなら話は早いな。そうだ。俺も共犯ではあるが、な」
イザークさんは、私を誘拐してしまった事をやや悔いてはいるし謝罪こそしていますが、それでも強い瞳で私を見詰めるのです。
知りたい、ただそれだけの為に、そんな疑問の為に、法を犯してまで連れ去るなんて。
……馬鹿げてる、何て決して言えません。だって、それだけイザークさん達にとっては、私の存在は衝撃的だったのでしょうから。
「……貴女の魔力を調べさせて貰ったが、取り立てて特別なものだとは思えなかった。確かに波動は珍しいが、それだけであれが拘るとも思えない」
「……知りません。それに、ロルフ様と結婚したのは、家の都合で……」
「なるほど。……だが、それだけではあれが貴女に執着する筈がない」
政略結婚如きであれが縛れる筈がない、と言い切るイザークさんに、危うく肯定する所でした。
確かに、ロルフ様は最初私の事なんて眼中になかったですし、結婚したからといって何かあった訳でもわざわざ話す事もなかった。デフォルトがそういう態度だとイザークさんも察しているからこそ、余計に疑問なのでしょう。
「知っているか、ロルフはどんな美女に迫られ子種を求められようと、頑として首を縦に振らなかった。高名な魔導師の家系の子女であろうと、傾城の美女であろうと、それこそ他国の姫君に淡い想いを抱かれ乞われようとも、あれは興味すら持たなかった。なのに、家の都合で結婚したただの女性である貴女に想いを寄せるとは思えない」
「……っそんな事、何故あなたに言われなければならないのですか……!」
「無礼なのは承知だ。……その上で、その容姿や器量以外で釣り合わせる要素を貴女が持っているのでは、と聞いている」
他人に此処までずけずけと言われるのは、慣れません。不愉快というよりは、ただ悲しい。やはり他人にはそんな風に見られていたんだと思うと、自分のちっぽけさを思い知らされるのです。
確かに、私はイザークさんの言う通り、大して美人でもありませんし、スタイルが良い訳でも、家柄が良い訳でもないし、魔力だってそんなに多くない。他人からすればロルフ様には釣り合わないのかもしれないのでしょう。
……けど、そんな私でもロルフ様は受け入れてくれたし、私が良いって言ってくれた。増幅能力なんかなくたって良いって言ってくれた。
ロルフ様のその気持ちまで否定されるのは、腹立たしい。
「……知りません」
「それは言いたくない、という事か」
「言いたくない、ではなくて、知らないです。私は無力かもしれませんが、お側に居る事を本人から許して貰っています」
ロルフ様やコルネリウス様には能力の事を言うなと厳命されていますし、人を見掛けや魔力だけで測って不釣り合いだと決めつけられる人にお話する事は、ありません。
……どうして、能力だけで決め付けるのでしょうか、見掛けだけで決め付けるのでしょうか、身分だけで決め付けるのでしょうか。それが名家では当たり前だからでしょうか。
私がロルフ様の側に居たいという思いで側に居ては、ロルフ様が一緒に居たいと言ったから共に過ごしては、ならないものなのですか。それは他人が決める事なのでしょうか。
ぎゅ、と唇を噛み締めて、私を見据えるイザークさんを窺うと、イザークさんは視線を受けて少しだけたじろいだようで。けれど、自身の意見を覆すつもりはないようです。
……イザークさんだからこそ、分からないのかも知れません。釣り合いが取れる取れないで考えて、ロルフ様の気持ちなんて考慮してないのでしょうから。
ひたすらに研究に真っ直ぐだったロルフ様が私に心を割くなんて、イザークさんには思いもよらなかったのでしょう。
お話する事はない、と押し黙った私。
「イザーク」
……そして、扉が開け放たれ、一人の女性が入ってくるのです。
鮮やかな深紅の髪を揺らし、燃えるような瞳に激情を宿して此方を睨む、その人の名前は、アンネさん。今まで話を聞いていたのか、唇を噛み締めては私を煮えたぎる嫉妬の炎を燃やしたままに睥睨して。
「その女を貸して。もう、用済みでしょう。つまり、何ら役に立たないのにロルフの妻の座に収まっていた、そうよね?」
「アンネ、落ち着け。まだそうと決まった訳では」
「どちらにせよ、私にとっては屈辱的よ。……こんな小娘に、どうして、私が負けるのかしら。何で、小さい頃から知っている私が、選ばれなかったのかしら」
今にも艶やかな唇から血を流しそうな程に強く噛み締めて、悔しそうに怨嗟の声を吐くアンネさん。美しい顔を歪める様は怖いけれど、それだけ想いが強かったのだとも思い知らされます。
もし、私が居なければ、ロルフ様はこの人と結ばれていたのでしょうか。……いや、違う筈です。アマーリエ様とロルフ様が断ったと言っていたから、私が居ても居なくても結果は同じだったでしょう。
それは多分、アンネさんも分かっているのでしょうが……やり場のない憤りの処理を、私に向けている。
「小さい頃から、あの人の事を想っていたのに。……ねえ、どうしてかしら、何故、あなたが選ばれたのかしら」
悲痛な声。
けれど、それに何か返せる程、私はアンネさんの事を知りません。それに、下手な同情は油を注ぐだけでしょう。アンネさんは憎悪と嫌悪を私に向ける事を選んで、和解なんか望んでいなさそうです。
いきなり恨まれて、私はどうして良いのか、分からない。向こうが恨むのは筋違いだとは思っても、罪悪感はある。ロルフ様をこの人の手の届かない所にやってしまったのは、私でしょうから。
だからこそ沈黙を選ぶ私に、アンネさんはごうごうと燃え盛っているのではないかと思わせる深紅の瞳を強く私に向けては、激情の燃えたぎるような笑みを浮かべます。
「……帰してあげるわ、ロルフの元に」
「……え?」
……帰す、のですか? でも、急に、何で。
「但し……あなたに、ロルフにとって価値がある存在なのか、見定めさせて貰うわ」
「おい! いい加減にしろ、彼女に危害を加えるつもりはない! 連れてくる時も独断で乱暴に連れてきて……!」
「イザークは黙ってて」
凄みを効かせイザークさんを黙らせるアンネさんは、私をちらりと見ては酷く不愉快そうに顔を歪めました。
「あなただって気になるでしょう、何故こんな、ただの娘がロルフの隣に立てるのか。あのロルフが、何故彼女を拒まず側に置くのか。冷酷で残酷なまでに他者に無関心で気高かった、魔導師の理想像であるロルフを、どうやって懐柔したのか」
「……ロルフ様は、確かに無愛想で、不器用ですけど……決して、冷たい人ではありません。か、勝手なイメージを、押し付けないで……っ」
「知った風な口を利かないで」
アンネさんの言い分に納得出来ないで反論をしますが、ぴしゃりと切って捨てるように冷たくあしらわれます。
アンネさんにとって、私は突然現れてロルフ様の隣を奪った人なのでしょう。幼馴染みで、ずっと側に居たから、私の言葉に重みはないものとして切り捨てられる。自分の方が側に居て理解していると、自負があるから。
でも、今側に居るのは私ですし、側に居た月日は少ないけど、時間を共有した時の濃密さなら負けません、もん。知った風な口を利いている訳じゃないです。ちゃんと側に居て、本音で話して、触れ合う事も側に居る事も許して貰ったのですから。
躊躇いがちながらも反論した私に、アンネさんは面白くなさそうに眉を吊り上げて、それから静かに瞳を眇め、私を鋭く睨みます。
「……それだけ言うのなら、あなたとロルフには、絆というものがあるのでしょう? どんな逆境にも、助けに来てくれるくらいの強い絆が」
一歩、私に近付いて。
「……助けに来てくれなかったら、あなたの負け。助けに来たなら、私達の事を言うと良いわ。イザークも私も、連れ去った時点で手は染めているし、露呈する事前提だから」
「どうして、そこまでして……」
「……あなたには分からないでしょうね。ただ居場所と餌を与えられたあなたには。分からないわよね、ロルフの変化に落胆した私達の気持ちが」
その言葉は、今までの私とロルフ様が共有した時間を否定された気がして。
悔しさと言って良いのか、憤りとも何とも言えない感情がぐるりと胸に渦巻く。
けれど、靄にも似た、その感情を外に吐き出す前に、そっと白い指先が首元に添えられて。
「何故ああ変わったのか、確かめたかった、それだけよ」
小さな囁きが耳に届いた時には、再びバチリと弾ける音がして、意識を刈り取られました。




