旦那様の忘れ物
「エルちゃん、ロルフが忘れ物しちゃったんだけど、届けてくれないかしら」
家族で朝食を取り、ロルフ様の出勤を見送ってから庭の世話をしていたのですが……水やりと雑草取りを終えて屋敷に戻った私に、アマーリエ様はにこやかな顔でそう告げるのです。
「ロルフ様が忘れものですか? 珍しいですね」
ロルフ様の忘れ物、という言葉が意外で目をしばたかせる私。
ロルフ様は冷静で几帳面(お片付け除く)な方なので、基本的に注意深く滅多に忘れ物はしない方です。というかこれが私が見た限り初めてです。
「ふふ、忙しかったみたいよ。手懸かりが掴めたみたいだし」
「古代魔術の、ですか?」
「ええ。お陰で研究室ではそれ以外見向きもしないってヴェル君が言ってたわよ」
「あはは……ロルフ様らしいです」
古代魔術大好きな私の旦那様は、本当に研究に関しては古代魔術で頭が染められている気がします。お仕事大好き人間ですからね。
最近は家ではゆったり私と過ごしてくれるから忘れがちですけど、ロルフ様仕事人間ですからね。帰ってくるのも遅いですし、その間ずっと研究に没頭してるんでしょう。
「ほんとねえ。一度集中しだしたら止まらないし。そんなだから資料を忘れていっちゃうのよ」
「忘れ物って資料ですか?」
「そうそう。ファイリングしてるのは良いんだけど、そのままリビングに置いていったみたいで……」
偶にうっかりさんなのよね、と二十数年息子さんの成長を見守ってきたアマーリエ様は楽しそうに笑っていますが、割と大切なもの忘れていっている気がするのですよ、ロルフ様。
ロルフ様にとって研究は重要ですし、それに必要な資料を纏めていたのに忘れていってしまうなんて。研究する時に困ってしまわないでしょうか。
……あ、だから私が届けに行って、という事なのでしょう。
「まあ頭には入ってる気がするのだけど、一応持っていってあげて。きっとエルちゃんが訪ねたら喜ぶわよ」
「そうでしょうか……?」
「勿論。ふふ、今に分かるわよ」
ロルフってばエルちゃん大好きだもの、とかなり都合よく解釈してそうな事を仰るアマーリエ様。
……そ、そうだと嬉しいのですけど、ロルフ様何にも言わないし……好きだって決め付ける訳には、いきません。私から「好きになってくれましたか?」と問えば良いのでしょうけど、そんな事恥ずかしいし自信過剰過ぎて聞けませんし……。
色々な意味で頬を染めた私に、アマーリエ様はただ楽しそうにふふと相好を崩すのでした。
そんな訳でやけに上機嫌のアマーリエ様に背中を(物理的に)押されて、私は馬車に乗って研究所の方にやって来ました。
ちゃんと門番さんに許可を取ってから入りましたし、先日会った方でしたので私の事をよく覚えていて下さったらしく普通に通してくれました。
受付に行って、笑顔で出迎えてくれたお姉さんに用件を伝え、直接渡したいからとロルフ様を呼び出して貰う事に。
……それは良いのですけど、何故魔導師の皆さんがぞろぞろ現れるのでしょうか。呼び出して貰ったのはロルフ様だけなんですけど……。
遠巻きにされて「あれか」とか「クラウスナーの嫁」とか「前ロルフがべったりしてるの見たぜ」とか言われてるので、確実に前回訪問より酷い事になってる気がします。
視線が突き刺さってかなり居た堪れないのですが、ふと更にざわめきが大きくなります。
ロルフ様が来たのかな、と気まずさに俯いていた私も漸く安堵出来ると顔を上げて……想定外の方が顔を見せて、ぽかんと目を丸くしてしまいました。
「何の騒ぎかと思えば……クラウスナー夫人か」
夜空を思わせる紺碧の髪に紫の瞳、端整な顔立ちを僅かに不快そうに歪めているのは……そう、イザークさん。ただその不快そうな表情は私に向けられたものではなく、周りでひそひそしている職場の仲間さんに向けているようで。
「お前達、仕事に戻れ」
「えー。今昼休憩ですよー」
「……はあ。だそうだ、少しの間我慢してくれ」
……え、私の事を気遣ってくれた、のでしょうか。素っ気ないというかすげない表情ではありますが、眼差しは温かみが仄かにあるのです。
ただ、周囲の魔導師さんが「主任が人妻に擦り寄ってる」とか口を滑らせたものだから物凄い勢いで睨んで退散させてますけど。視線はかなり怖くなりましたが、まあ、私はちょっと他の人の視線が減ったので楽かもしれません。
何だかんだ助け船を出してくれているらしいイザークさん。
ロルフ様が思う程私はイザークさんが悪い人だとは思ってませんし、寧ろどちらかと言えば優しい方なのではないかなと思ったり。ロルフ様が現れるとどうしてもお互いに嫌みを飛ばし合っていますけど。
「あ、ええとイザークさん……先日は、申し訳ありません」
「……別にあれは気にしなくても良い。咎めるつもりはないと言ったが」
「は、はい」
きっぱりと言われて、それ以上何も言えなくて口を噤むしかありません。
……イザークさんって、中身はそこまで怖くないんですが見掛けがとりつく島のない感じな冷たさがあるから、無表情になるとちょっぴり話し掛けるのに躊躇してしまいます。
そもそも顔見知り程度で互いの事なんて何も知らないので、話せる共通の話題なんてロルフ様についてくらいでしょう。……イザークさんの機嫌が悪くなりそうですけどね。
「……クラウスナー夫人」
「は、はい」
この気まずい空気をどうしよう、と悩んでいたら、イザークさんの方から声をかけてくれました。
「一つ聞きたいのだが、貴女は……あれと仲が良いのか」
「あれ……ええと、ロルフ様ですか?」
「ああ」
……あれ呼ばわりですか。そんなに名前を呼びたくないのでしょうか。でもそれにしては、瞳に含んでいるのは嫌悪感ではなくて……どちらかと言えば、寂寥に、近い?
でも、何でそんな眼差しで私を見つめるのか、そんな事を聞いてくるのか、私には心当たりなんてある筈もありません。
だって、会ったのは二度目で、私はイザーク様の事なんて、殆ど知らない。ロルフ様とどういう関係なのかも、いまいち把握していないのです。知っているのは、ロルフ様と仲が良くない事だけ。
「あれは、女を寄せ付けない。……だから、貴女がロルフと上手くやっているのか、不思議でならない」
「……その、ロルフ様は優しくしてくれますよ。私の事、大切にしてくれますし……」
どうやらイザークさんの口振りから、イザークさんから見たロルフ様の人柄と私から見た人柄はかなり乖離しているみたいです。
私にとっては、とても優しくて、大胆な所もあって、基本的に柔軟性があるというかおおらか……いえ嫉妬(?)したりしますし子供みたいに拗ねちゃう所もある可愛い人なのですが、イザーク様にとってはそうでないらしく。
私が精一杯優しくて素敵な旦那様です、と主張すると、イザーク様は怪訝そうな顔をしつつも静かに瞳を伏せました。ふう、と溜め息をついたのが、はっきりと聞こえます。
「……やはり、理解出来ない」
「え?」
「あれの本質を知っている人間として、貴女の存在は、」
「エルネスタ!」
イザークさんが何かを言いかけたとき、私の名前を呼ぶ声。
あ、と釣られてそちらを見遣れば、走ってきたらしいロルフ様。
……ロルフ様、イザークさんに走ったら駄目って怒られちゃいますよ。私は逃げないのに、何で急いで来たのでしょうか。資料が必要だったから? それとも……私に会いたかったから、なんて自信過剰でしょうか。
ロルフ様だ、とつい顔が綻んでしまった私、ロルフ様も私の姿を鳶色の瞳に写しては柔らかい表情を浮かべるのですが……側に居たイザーク様の姿を認めて、一気に顔の温度が氷点下に下がります。
「……またお前かイザーク」
「勝手に人を疑わないでくれ。言っておくが、何もしていない」
「お前が言えた義理ではなかろう。……エルネスタ、何もされていないか?」
「だ、大丈夫です、本当に世間話してただけですから」
「そうか?」
然り気無く私の手を引いてイザーク様から距離を取らせつつ心配そうに此方を覗き込むロルフ様。……イザークさんがとても呆れたというか微妙に複雑そうな顔をしているの、気付いていないのでしょうか。
ただ突っ掛かったりしないのは、私が居るからかもしれません。
「あ、ロルフ様、御届け物を……」
「ああ、わざわざ届けに来てくれたのか。助かる」
抱えていた、きっちり纏められた資料を手渡すと、ロルフ様の顔は穏やかになり、ふわりと春風が吹いたように心地良さそうに相好を崩すのです。
ざわり、とさざめく周囲。
……ロルフ様、ほんと職場では堅物で知られているみたいです。ひそひそ話の中でロルフ様かどうか疑う声すら聞こえますから。
「……ロルフ」
「……まだ居たのかイザーク」
ロルフ様、それは流石に酷いです。
「ろ、ロルフ様、そんな突っ慳貪に言わなくても」
「良いのだ。散々突っ掛かってきたのだ、邪険にして当然だろう」
「もー、駄目ですっ」
仲良くしろとは言いませんけど、別にこの状態で一々喧嘩の火種を作らなくても良いじゃないですか。今回はイザークさん、何にも悪い態度は取ってませんし。
何でそんな警戒心を露にしてるのかさっぱりです。
駄目ですよ、と咎めると怒られたと思ったらしいロルフ様がしゅん、と眉を下げているのに更にざわめきが走ります。……ロルフ様、本当に職場では真面目で無愛想な方なのですね。
何だかちょっぴり小さくなったロルフ様にイザークさんも目を剥いていましたが、私と視線が合うとこほんと咳払い。
「言われずとも去るつもりだ。……ロルフ」
「何だ」
「……俺には、やはりお前が理解出来ない」
真正面からの否定に、ロルフ様はすぅっと瞳を細めたものの、喧嘩しようとかそういう感情は見られません。ただ、何が言いたいのか分からない、という感情は前面に押し出されていますが。
「何が言いたいかよく分からないが、お前に理解を求めたつもりはない」
「だろうな」
うっすらと自嘲の笑みを浮かべるイザークさん。それから、何故か私をちらりと横目で見て。
「……やはり、分からないのだ」
それは、誰に向けたものだったのでしょうか。
ただ、その言葉が何故か私の胸に突き刺さって、ちくんと小さくも鋭い痛みを胸に植え付けていくのです。
思わず息を飲んだ私に、イザークさんは意味深な視線を投げたものの直ぐに逸らし、宣言通りに立ち去っていきました。
「……イザークに何も変な事は言われていないか?」
イザークさんと私の様子を怪訝に思ったらしいロルフ様が心配そうに声をかけてくるので、私は慌てて笑みを浮かべます。
私の気のせい、だったのでしょう。
「言われてませんよ、心配性ですね」
「心配する。お前は、私の大切な妻だぞ」
「……は、はい」
……そ、そういう事しれっと言うから、ロルフ様は本当に油断なりません。不意打ちで来るから、心臓がきゅっと引き絞られてどくどくと強く激しく全身に血を巡らせていくのです。
お陰で、顔も赤くなるし、指先まで熱い。
「おーいクラウスナー、見せ付けんなよ」
「いちゃつくなら家でやれー」
「……これがいちゃついているのか? 私は当然の心配をしただけなのだが」
飛んで来る野次には不思議そうな顔。……自覚がないと色々パートナーは辛いって、よく分かります。ロルフ様のせいで心臓の訓練はずっと続いているのですから。
うう、と小さく呻いた私にロルフ様はそっと頬を撫でて「顔が赤いぞ」と誰が原因かなんてちっとも分かってなさそうに指摘するのです。
誰のせいですか……自覚して言ってるならとんでもない意地悪ですけど、ロルフ様に限ってそれもないでしょう。つまり、本当にロルフ様はご自身の声や笑顔の破壊力を知らないのですね……。
そろそろ慣れるべきだとは思いつつも、私はロルフ様に弱いのは治りそうにありません。
「……エルネスタ、私はまだ帰れないから先に帰っておくと良い。待たせるのも悪いからな」
「はい。じゃあ、家でお待ちしていますね」
いつまでも意識している訳にもいかないので気を取り直し、役目も果たせたので安心して笑みを浮かべると、ロルフ様も嬉しそうに笑って私の頭を撫でます。
撫でられるのは、心地好くて好き。だけど、衆目の中されるのは恥ずかしいので、早めに切り上げて貰います。……ロルフ様がちょっと残念そうにしていたので、多分ロルフ様が帰ったら沢山撫でられる気がするのは気のせいではないでしょう。
お仕事頑張って下さい、と応援して、私は名残惜しそうなロルフ様を研究室に送り出して、それから私も周囲の方にぺこっと頭を下げて、玄関に向かいます。
魔導師さんは私の事を何か言ってるみたいですけど、大抵ロルフ様が何とかという話題なので、まあこればかりはロルフ様が普段と違うのが原因ですよねとか苦笑してしまいました。
そんな中、周りの魔導師達の中に、ふと赤毛が見えて。
鮮烈な赤。燃え立つ炎にも、鮮血にも似た、目を引く鮮やかな深紅。長い髪をゆらりと揺らめかせたその人は、同じような瞳を私に向けています。
……彼女が、アンネさん、でしょうか。
噂に違わぬ、美人さん。はっきりした端整な顔立ちに、すらりとした肢体。ローブの隙間から除く体つきは、凹凸に富んでいて均整の取れた体。同性でも思わず見惚れてしまいそうな程に、女性らしい外見です。
そんな彼女は、此方をじっと見据えています。やはり、視線は鋭い。
その視線の意味が分からない程愚かでもなく、棘が存分に含まれた視線はとても痛いし、理解しているからこそ罪悪感は湧きます。私が直接何かした訳でもないし、私の関与しない所での出来事で、そもそもどうにかなる問題でもない。
……だからこそ、向こうが歯噛みする理由も、恨む理由も、分かるのですが。
こんな人目に付く所で仲良く話してたのを目撃してしまったら腹立たしいですよね、と申し訳なさを感じつつ、早めに退散しようと早歩きで研究所を後にしていきます。
「理解出来ないわ」
彼女に背を向けた私に、そんな怨嗟の声が、ざわめく周囲の声に紛れて聞こえてきた気がしました。




