奥様の癒えた心の傷
「思ったのだが、何故エルは今も傷を隠すのだ」
いつものようにお風呂に入って寝間着に着替えてから寝室に戻ると、先にお風呂に入っていたロルフ様が私の事を出迎えました。
それから、しげしげと格好を眺めてから、一言。
今身に付けているのは半袖に膝丈の寝間着。これでも私としては大分露出していると思いますし、脚が見えるのは恥ずかしいのです。でも、ロルフ様的にはまだまだ足りない……というか私が傷の見えない寝間着をずっと着続けているのが、気になるようで。
「何故って、それはその……見て楽しいものじゃないと思います」
幾らロルフ様に受け入れて貰ったとはいえ、大きな傷を見せるというのには抵抗があります。……というか、傷が見える程露出する寝間着となると最早それは寝間着というか下着のようなものになるので、恥ずかしいというのが大きいのですが。
「私は気にしないと言っただろう。別に寝る時まで隠さなくても良い。見るのは私だけだろう」
「ですが……」
「お前の一部なのだから、嫌う訳がない。そこは信用して欲しいのだが」
「……はいっ」
どんなエルでも受け入れよう、と極自然に言ってのけたロルフ様には口許が綻ぶばかりです。
ロルフ様が私を拒む事はない、というのは分かっているのですが……やっぱり、改めて言われると、嬉しいですね。傷を見られる事に怯えて震えていた頃から比べると、私はとても変わったのだと思います。
照れ隠しに笑ってロルフ様の待つベッドに小走りで近寄ると、ロルフ様はそのまま手を伸ばして私の手を引いて、そのまま私の事を向かい合うように膝に座らせるのです。
……あ、あの、ロルフ様、この体勢凄く恥ずかしいのですが……。首筋に顔を埋めてもぞもぞしてるから、擽ったいし。
ぎゅっと抱き締めては体温を重ねるように、求めるように、私に触れるロルフ様。
……心臓が鼓動を早めるのも、仕方ありません。ロルフ様に触れられると、すごく、どきどきして……全部身を委ねたくなってしまいます。
恍惚とも陶酔とも違う、何とも言えない幸福感が羞恥に勝って、つい頬をとろけさせると、ロルフ様はふと顔を上げて。
「傷は隠さなくても良いからな。もっと寝間着も薄くても良い。触れた感覚がもっと分かるのが良い、お前の体に触れるのは好きだ。柔らかくて、ほっそりとしていて、とても良い匂いがする」
「……ロルフ様って無意識にいやらしい気がします……」
……本当に他意はないのでしょうけど、危うい発言ですからね、ロルフ様。
つまり、もっと薄着をしろっていう事でしょう? ……妻に対してそういう事言うのはセーフなのでしょうけど、他人に言ったらただのいやらしい人ですからね。
「何故そういう評価になったのだ」
「発言を傍から聞いていたらそうなります」
「そうなのか?」
不思議そうに首を傾げるロルフ様ですが、普通駄目ですからね。私は大分ロルフ様の天然さというか男女間の常識があまりない事にも慣れてるから、そんなに狼狽はしませんけど。
……それでも恥ずかしいものは恥ずかしいのですよ。
「……他意はないと分かっていても、どきどきします」
「本当か?」
あっさりと、ロルフ様は目の前にあった私の胸元に、顔を寄せて。
背中に手を回しているからか思ったよりも抱擁が強く、そのまま顔を埋める形で心臓の辺りに耳を当てるロルフ様。
「確かに鼓動は早いな。……どうした」
「……ロルフ様。ロルフ様でなかったら、私怒っていますからね?」
……しれっと胸に顔を埋めてくれたロルフ様ですが、ロルフ様以外がやったら全力で突き飛ばしていた所ですよ。悲しい事に、ロルフ様は結構頻繁に胸に顔を埋めて頬擦りとかしてくるので(大半が寝起きで寝惚けていますが)、何だか慣れてきてしまった感がありますけど。
湧き上がる羞恥で頬を染めつつもロルフ様をじーっと見ると、私がちょっと不機嫌になったのを察したロルフ様はあわあわ。……後で狼狽えるくらいならしないで下さい、もうっ。
「す、すまない、つい……その、柔らかくてとても良いぞ?」
「そうですね、良き枕になったなら良かったです」
「……枕では勿体ない」
「じゃあ抱き枕ですね」
「……枕から離れないか?」
「ロルフ様が枕と言ったのでしょう?」
私はロルフ様に枕や抱き枕と言われたの、覚えてますからね。まあ枕でも抱き枕でもお側に居られたらそれで良いですけど。
にっこりと笑うと、ロルフ様は更に焦り出してしまって。……別に怒ってはいないですよ、ちょっと思う所はありますが。意趣返し、という訳ではありませんが、少しくらいロルフ様も慌てたら良いのです。
胸元でおろおろするロルフ様に、つい面白くて隠しきれない笑みが浮かんでしまい、これ以上は流石に可哀想かなと「冗談ですよ」と追加で口にした私に……ロルフ様は、そのまま言葉を受け止めて、困ったように此方を見上げるのです。
「……その、確かに言ったが、ただの枕なら私はこんなにも……胸の疼きを覚える事は、ない。……お前に触れると、とても、何と言うのだろうな、幸福感がある」
「……え」
「もっと触りたくなるのだ。……もっと、触れたい。もっと、知りたい。……もどかしいな、とても。自分でも上手く表現が出来ない」
胸から顔を上げて、包み込むようにして私を抱き締めるロルフ様。
今度は私がロルフ様の胸元に顔を埋める事になるのですが……とくとくと伝わってくる心音は、いつもより遥かに早いのです。それは、私がいつもロルフ様に翻弄されている時と、同じようで……。
どきどき、してくれているのでしょうか。この心臓の高鳴りは、どういう意味を持っているのでしょうか。
ロルフ様をおずおずと見上げると、ロルフ様は眉を寄せて、けれど不快とかそういう感情ではなく、もっと……乞うような、切なげな眼差しで、私を見下ろしています。
鳶色の瞳と視線が合うと、一層物欲しそうに、私を写す。……離さないと、言葉ではなく態度で、手付きで、表情で語ってくるロルフ様に、私も胸の鼓動が不規則に刻みだしました。
「ロルフ、様」
「……全て知りたいと思うのは、駄目なのだろうか」
そっと、私の傷痕が走る場所を指先で撫でるロルフ様。
「エル、傷を見ても良いか?」
「……さ、流石にこの状態からではとても不味いと思うのですが」
「何もしないぞ?」
「……それでも、恥ずかしいし、その、また今度……」
ロルフ様の何もしないというのは信用して良いものだと分かりますが、それでも抵抗はあります。
膝に乗って向かい合った状態で服をはだけるなんて、色々と恥ずかしい。ロルフ様の膝の上でもロルフ様の方が頭の位置は高いですし、至近距離で肌を見られるのは、困ります。
「今見たい」
「我慢を覚えて下さいロルフ様」
「嫌だ」
「嫌だって」
「……今触れろ、と心が言っているのだ」
ただの我が儘、という訳ではありません。何故だかロルフ様はとても真剣な眼差しで、私を見詰めてくるのです。
その瞳から、目を逸らせない。
「……肩の部分、だけでしたら」
……流石に前みたいに上半身殆ど晒すのは勘弁して頂きたいのです。肩口から走る傷痕、傷の一部だけなら、そこまで恥ずかしさもなく、見せられる、つもりです。いえ、恥ずかしいですけど、前全部開くよりずっと良いです。
前をボタンで止めている寝間着なので、三つ程ボタンを外して、それから左肩が見えるように生地をずらします。少し胸元も見えてしまいますが、顔を真っ赤にして悶える程でもありません。
布地が肩から落ちて、昔の惨劇の爪痕がロルフ様の視界に無防備な形で晒されますが……怖くは、ない。ロルフ様が受け入れてくれているって、知ってるから。
ただ、急にどうして見たがったのか、それだけが疑問です。
ロルフ様は私の傷痕を静かに見詰めていて、そっと指先で今は癒えた傷をなぞっていく。
最初に触れた時はたどたどしい仕草だと思っていたのに、今回は、そっと……確認するように、硝子細工を扱うように、丁寧で優しく、そして愛でるような触れ方、で。
「……痛かったか?」
「当時は」
「……そうか。頑張ったな。よく、生きていてくれた」
素肌になった肩口を撫でては静かに、そして感謝を滲ませた声で、ロルフ様は呟きます。
「……この傷ごと、エルを好ましいと思っている。お前は良い迷惑だったのかもしれないが……この傷がなければ、お前と出会う事もなかったのだから。……すまない」
「え?」
「……この傷に感謝してしまったのだ、最低な事を思ってしまった。……これのお陰で、出会えたんだ」
ロルフ様はとても申し訳なさそうに、とつとつと謝罪の言葉を吐き出すのですが、私には何故謝られたのか、分かりません。寧ろ、嬉しいくらいですし。
……これごと受け入れてくれたのだから。
「……怒ったりしませんよ」
「本当か? なら良かった」
私の事を大切に思うようになってくれたのですから、それを責めたりなんてしませんよ。
そう微笑んだ私に、ロルフ様は何処か安堵したように表情を和らげて、それから、私を抱き締める力を強めて、ほんのり見えている傷痕の部分に、口付けるのです。
びくり、と肩を揺らす私に、ロルフ様は別の場所でまた口付けて。まるで傷ごと愛してくれているように錯覚してしまって、調子に乗ってはいけないと思うのに、口付けられる度に熱が触れた所から弾けて。
「ろ、ロルフ様、駄目です、それ以上は駄目っ」
何だかとても危ない雰囲気になりそう気がしたので、慌ててぺちぺちとロルフ様の胸を叩いてストップをかけると、ロルフ様は素直に顔を上げてこてんと首を傾げるのです。
そ、その無邪気とも言えそうな動作にちょっとたじろいでしまうのですが、此処を許すと色々取り返しがつかなくなりそうなので、駄目だと体を離しておきました。……微妙に残念そうなロルフ様ですが、駄目ですからね色々。
素早く衣服を整えて改めてロルフ様に視線を合わせると、ロルフ様はもう大丈夫かと思ったのかまた私を引き寄せて。
……こ、このままじゃいつまで経ってもくっついたままな気がします。嬉しいですし、私が傷の事を気にしていると思っているらしいロルフ様の優しさは充分に伝わりますけども。
傷はもう大丈夫だと腕の中から主張しつつ、顔を覗き込んで来るロルフ様に、微笑んで。
「……ロルフ様、そろそろ寝ましょう。……ロルフ様がこれを好ましく思ってくださるだけで、幸せです」
ロルフ様がこの傷に感謝して、この傷を好ましいと思ってくれている。
……私はこの傷が嫌で嫌で仕方なくて、こんなものなければ良かった、家族に疎まれる原因であるこれを恨みさえしていました。それは、今でも変わらないけれど……少しだけ、私もこの傷に感謝を覚えるのです。
これがなければ平凡でそこそこに幸せな人生があったのかもしれません。人並みに知らない誰かと恋愛をして、結婚をして、子供を授かったのでしょう。何て事のない、普通の女性としての幸せを掴めたのかもしれません。
……それが欲しくなかったとは言わないけれど……この傷があったからこそ、ロルフ様に出会えて、ロルフ様に必要とされた。この傷ごと受け入れてくれる人が居るのだと、気付かせてくれた。
この傷は、嫌いです。
でも、この傷のお陰で、ロルフ様という、私という個を見てくれる人に、出会えたのです。この傷の『せい』が、この傷の『お陰』に少しずつ変わっている事は、何となくですが、感じて。
……この醜い傷は嫌いだけど、少しだけ……感謝の気持ちを、持てたのです。
もう、これを理由に、自分を卑下する事も、多分……ないと、思います。この傷ごと、ロルフ様は私という存在を受け入れてくれたのですから。
「……そうか」
自然と綻んだ顔に、ロルフ様も何処か晴れ晴れとした表情で頷いて。
膝に乗った私を下ろしてそのまま押し倒すように転がったロルフ様、そのまま若干固まった私を、抱き締めるのです。……びっくりしてちょっと戸惑ったのですが、体勢はいつも通りで一安心。
そのまま私を包み込むように抱き締め、脚を絡めてしっかりホールドしてくるロルフ様。……こうしてると、ロルフ様にとても大切にして頂いている気がして、幸せです。
この体勢のまま、髪を梳いてきて……さらさらと指が髪を撫でやんわりと頭皮に触れていく感覚が心地好くて、私は緩やかに重たくなってきた瞼に、抵抗する事を止めました。
おやすみなさい、と小さく呟くと「おやすみ、エル」と耳に溶け込んでくるとろけたような甘い声。ひたすらに優しくて温もりがこもった声に、私は自然と緩む頬をそのままに、意識を白い海に浸しました。




