旦那様、寝起きの襲撃はご遠慮を
旦那様に頂いたお花は根の付いたままの状態だったのが幸いだった……というべきなのでしょうか。案外生命力は強かったらしく、植木鉢に植えてあげると淡い花びらがふわりとより咲き誇りました。
切り花でなかったのは、逆に良かったかもしれません。旦那様に初めて頂いたものが直ぐに朽ちてしまうなんて、勿体なさ過ぎます。折角頂いたのですから、大切にしていきたい。
翌日、朝起きて窓の縁に置いた小さな植木鉢から伸びた淡い花を眺めては少しだけ頬を緩めて……。
「エルネスタ」
ノックもなしに入ってきた旦那様に、思わず悲鳴を上げそうになりました。
き、着替え途中でなかったのが不幸中の幸いで、いえ寝間着のままの姿を旦那様に見られるとというのは物凄く恥ずかしいのですが……!?
旦那様は旦那様でノックという礼儀を投げ出しましたし……いえ、部屋は壁一枚隔てただけでドアで繋がってるので、本来の用途を考えれば別に……入ってきても、おかしくはないのですが。今回は勿論そんな意味合いでこの直通の扉を使った訳ではなさそうですけど。
「だ、旦那様、出来ればノックを……。それと、その、まだ着替えておりませんので、後にして頂けれると……」
「ああ、すまない。考えを纏めていてそちらが疎かになっていた。……ところで、寝間着で何か問題があるのか? うちの研究所の人間は寝間着で徘徊する人間も居る」
別に見られた所で構わないのではないか? と不思議そうな旦那様。
旦那様としては特に格好を気にするという事はないらしいです。衣服さえ着ていれば良いという事なのでしょう。
……確実に研究所の方のせいで寝間着ですら普通の服装と然して変わらないという認識に至っていますよね。そもそも、旦那様にとって性別の違いなど些細なものな気がします。
そして、間違いなく私もそれが適用されていて、女として意識などしていないという事で。……名ばかりとはいえ妻である私としてはかなり複雑なのですが、こればかりは旦那様の性格上仕方ない気がします。
「わ、私があまり見られたくないので……その、後にして頂けませんか」
「ならそうしよう。試したい事が沢山あるから、出来れば早く身支度を済ませて欲しい」
ただ、旦那様は研究優先で他人にあまり興味を示さない方ではありますが、人の嫌がる事を好んでする訳ではないので、私がシーツで寝間着姿を隠しつつ困ったと眉を下げるとあっさり出て行ってしまいました。因みに私の姿は一切気にしてなかったので、本当に興味なかったみたいです。
……旦那様、女性に身支度を早めろと言われても中々に難しいものがあるのですが……此処は私が頑張るしかありません。
旦那様に興味を示されないとはいえ、私とて女性の端くれです。手入れを疎かにするつもりはありませんので、旦那様をなるべく待たさないように、そして抜かりなく身支度しなければなりません。
旦那様が朝から何やらはりきっていらっしゃるので、今日から研究が始まるのだと実感しつつ……何をされるのか、少しだけ不安にもなってしまいます。痛い事はされない、と言っていたので、苦痛を強いるような実験や観察はないと思うのですが。
どうなるのでしょうか、と怖じ気付いてしまいそうで、そんな事では駄目だと小さく頬を叩いて、意識を切り替えます。
兎に角、旦那様の言い付け通り早く支度を済ませなければ。
何となくですが、今日は長い一日になりそうな気がしました。
「取り敢えず、あの時の出来事を再現出来るかどうか試したい」
なるべく素早く支度をしましたが、それでもやはり旦那様を待たせる事になってしまいました。けれど旦那様は気にした様子もなくて、多分旦那様は寛容で、そした大雑把な方なのだと実感致しました。
研究室の散らかりようを考えるに、集中したら周りが見えなくなるタイプであり、そして踏んづけても怒りもしなかったのであまり細かい事は気にしないタイプなのでしょう。勿論、研究において事細かに調べるでしょうけれど……。
「一つだけ、質問をして良いですか」
「何だ」
「私が割ってしまった荷物は、何なのでしょうか……?」
透明な石の球体というのは分かるのですが、用途だけは考えても出てきません。旦那様の研究に使うもの、くらいの認識なのです。もし貴重なものだったら、と考えると胃がきりきりして仕方ないです。
「ああ、あれは魔力を鑑定する為の石だ。魔力にも波長や純度があり、得意な魔術の傾向がある。魔力の特徴は個人によって千差万別だからな、それを判断する為の石という訳だ」
「……それは貴重なもので……?」
「まあ此処まで高品質な物は中々にないだろうな。この石自体珍しいからな」
「……首を括ってきます……」
私はなんて物を壊してしまったのでしょうか。珍しくてその上高品質というとても貴重なものを壊してしまうなんて、旦那様に顔向けが出来ません。いえ、目の前にいらっしゃるのですけども……。
「何故自害をしようとするのだ馬鹿者、お前が死んだ所で誰も得はしない」
私が青ざめた顔で呟くと、旦那様は冷ややかな声で一蹴。
「私が良いと言っているし、そもそも責任を取るという意味で研究させて貰うのだ」
「ですが……」
「そもそも私にとって、あれは便利な道具でしかない。生きた人間であるお前程の価値はない、あんなものに命を捨てるくらいだったら私に研究させろ」
貴重らしいものをあんなもの呼ばわりした旦那様は、私を見てはあまり面白くなさそうに眉を寄せています。……旦那様を不愉快にさせてしまいました、折角旦那様に協力出来ると思ったのに、その事で旦那様の気分を害させてしまうなんて。
しゅん、と項垂れる私に、旦那様の溜め息が届きます。
「それに、今のお前は父上母上が気にかけているのだ。あの二人も自害など許さないし、たかがこれしきの事でと笑い飛ばすだろう。一々気に病むな、私が良いと言っているのだから」
ぽん、と頭に掌が乗せられてぐしゃりと些か乱雑に頭を撫でられ、目を丸くした私。顔を上げると「不満があるのか」と面白くなさそうな顔。けれど、嫌悪が混ざったものではなく、寧ろ此方を慮るような視線で。
……恐らく、勝手に凹んだ私を慰めてくれている……のでしょう。顔は、相変わらずの冷たい美しさのままですが。それでも、眼差しは刺々しくありません。
頭に乗った感触は、昨日触れられた時とは違って、とても優しい温もりで。
「良いからつべこべ言わずに私の研究に付き合ってくれ。今日は色々と確かめたい事があるのだ」
「……はい」
……細やかではありますが、私に情をかけて下さっているのだと思うと、胸の重みと胃の締め付けは、緩くなります。
「私で良ければ、旦那様のお役に立たせて下さい」
研究対象としてでも旦那様が求めて下さるなら、私としてもそれに応えるべきです。
いつか、少しでも妻として求めてくれたら……なんて淡く小さな期待を胸の奥にそっと仕舞い込みながら、私は静かに微笑んで首肯を返しました。