旦那様、私は枕ではございません
起きたら旦那様が隣で寝ていてびっくりした私です。びっくりどころではなくて大混乱です、頭の中で私は何をしていたのかと全力で絡まった記憶の紐を解きほぐしていかなくては。
まず、私は何故ベッドで寝ているのでしょうか。あと、何故隣に旦那様が寝ているのでしょうか。
いえ、結婚しているので旦那様が隣で寝る事は世間一般では取り立てておかしいという事ではないのですが、今まで見向きもされなかったのに、今になって何故旦那様が隣に。
旦那様は、静かに寝ていらっしゃいます。お綺麗な顔は穏やかな寝顔を浮かべており、絵画にでもなりそうな程に美しい寝姿です。だからこそ、私の横で寝ている事に驚きを隠せないのですが。
……ええと、何があったのでしょうか。確か、私は荷物を運んで旦那様を踏んで転んで潰して(自分でも酷いとは思いますが)それから……。
ああ、そうでした、私は旦那様の研究対象になって、それから急接近に一杯一杯になって、意識を飛ばしたのですね。生娘のような反応……といっても生娘には違いないので、接近に恥じらうのもおかしい事ではない筈です。
今は落ち着いていますし、あまりに綺麗な寝顔に、胸の高鳴りはそこそこで、異性として意識というよりは芸術品を鑑賞して高揚しているような気分です。
こんなにも整った美貌を持っているのに、旦那様は妻を妾ろうとはしなかったなんて、不思議です。よく私で納得して頂けましたね、アマーリエ様達の顔を立てたのでしょうか。
「あら、起きたのね。良かったわ」
あまりに想定外過ぎてまじまじと旦那様のお顔を拝見していた私ですが、意識の外からかけられた声に体を大袈裟に揺らしてしまいます。……誰かは声を聞けば分かるのですが、隣に旦那様で部屋にお義母様が居るというのは私にとって結構な異常事態です。
「アマーリエ様、私はどのくらい寝ていたのでしょうか……?」
「そんなに経っていないわ、精々五時間よ」
微笑みながら指を真っ直ぐに伸ばし掌を広げて時間を示すアマーリエ様に、何もせず夕方になってしまっている事を後悔しつつ、私はゆっくりとベッドから体を起こします。
アマーリエ様には無理しなくても良いと言われましたが、熱は精神的なものだったので既に引いています。動悸と疑わんばかりの胸の高鳴りも、今は比較的落ち着いている方ですから。
……隣で寝ていると考えると、気恥ずかしさはありますけど……。
「びっくりしちゃったわ。いきなりロルフがエルちゃん抱えて『気を失ったんだがどう対処すれば良いんだ』と来たものだから……でも、その様子だと案外コンタクトは上手くいったのね」
「……上手くいったというか、偶々旦那様の興味を引けただけなのです」
上手く接触して仲良くなれたか、と問われると否と返すしかありません。
会話は、出来ました。思ったよりも旦那様はお話自体はしてくれる人でした。基本的に無愛想というか、あまり顔を動かさない方ではありましたが、アマーリエ様の言う通り悪いお方ではありません。
ただ、研究第一というのも間違ってはおらず、知的好奇心の赴くままに行動なさっているのと、魔術に関わらなかった私には少々理解の範囲を超える事を言われたりは、しましたけど。
話した事だって、全部研究に繋がる事でしたから。
「あら、それでも良いじゃない。この子が興味を示すなんて滅多にない事よ?」
まずは興味を引く事からよ、と笑ったアマーリエ様。隣の旦那様を見ては「少なくとも悪く思われてないわよ」と朗らかな笑み。
何事もまずは話す所から、というのには同意なのですが、私が旦那様のお話についていけるかが心配です……。
「……あの、旦那様は何故隣に?」
「ああ、ロルフってばいつも研究室のソファで仮眠したり、果てにはいつの間にか床に転がったりするから……エルちゃんの様子見るついでにちゃんとベッドで寝ておきなさいと言ったのよ」
そしたら文句も言わず隣でエルちゃん観察した後寝ちゃったわ、とやれやれと肩を竦めつつも何だか嬉しそうなアマーリエ様。私はというと、隣の美丈夫の存在はマーリエ様のせいだったのですね、と困り顔。
……床に転がっていたのは仮眠中だったのですね。力尽きたように倒れていたから何事かと……いえ、止めを刺したのも私なのでそこは申し訳ない限りなのですが。
「寝ている時はとっても可愛らしい顔をしているでしょう?」
「可愛らしい……と、言いますか、とても綺麗だと思います」
アマーリエ様からすれば自分の息子である旦那様は可愛いという分類に入るのでしょうが、私からすれば、やはり……とても、美しいと思います。
惜しむらくは、少し目元に隈があるくらいでしょう。薄暗い部屋では気にならなかったのですが、こうして明るいところで見ると、暗色の化粧を施されたようになってしまって、ちょっと美貌に影を落としているのが勿体ない。
「……旦那様は、睡眠を疎かにしているのですね。出来れば、体は休めて欲しいのですが……」
「ならエルちゃんが寝かし付けてあげれば良いじゃない」
「私が旦那様に進言しても聞き入れて貰えないと思うのですが……」
優先順位は誰が見ても研究が一番です。私という研究対象が何を言っても無駄だと思うのですよ。原因の究明を心に誓っているであろう旦那様を眠りに導くなんて、至難の技だと思われます。
「なら条件付ければ良いと思うわよ、自分を調べさせる代わりに睡眠はちゃんととって下さい、って」
「そ、そんな……私が事件を引き起こしてしまって旦那様の物を壊してしまったのに、その上で条件なんて……」
恐れ多いです、と肩を狭めた私に、アマーリエ様も強くいうつもりはないみたいで「あなたがゆっくり慣れていけばそれくらい聞き入れて貰えるわ、頑張って」と優しげに言われたのですが、責任重大な気が……! 旦那様の睡眠を預かるなんて、とてもじゃないけど出来ません。……旦那様、研究が一番ですもの。
無理です、と首を振った私に、アマーリエ様は優しく笑うだけ。失望したりもなくて、本当にありがたい限りなのですが……。
「兎に角、息子の事、頼んだわ」
「えっ、アマーリエ様……!?」
アマーリエ様、笑顔で然り気無く重責を課してお部屋を出て行ってしまわれました。……ど、どうしましょう、旦那様を頼むと言われても、私は旦那様の知的好奇心を満たす以外にどう動けば良いのでしょうか。
隣で眠る旦那様は、一連のやり取りすら聞こえず寝ているみたいで、静かに寝息を立てています。
寝顔だと疲労の色が濃い。やはり、休んで貰いたくはあるのですが……名ばかりの妻に言われても、嬉しくないですよね……。
「……ん」
じっと見つめる私に、旦那様は少し身じろぎをして……それから、ゆるりと繊細な睫毛に縁取られた瞼がゆっくりと持ち上がり、此方を見て……。
それから、手が此方に伸びたと思ったら、私の腰に回っ……回って!?
は、と固まった私に、旦那様はしがみつく、というか、腰にしっかりと腕を巻き付けて、顔を上体を起こした私の太腿の上に、乗せてくるのです。丁度良い枕を見付けた、といった感じで。
か、確実に寝ぼけていらっしゃる、と、いうか、ど、どうしましょう、旦那様案外逞しい腕をなさって、ああいえ感想は今どうでも良くて、こ、この状況をどうしたら良いのでしょうか!?
「だ、だだ旦那様、なりません、そのまま寝ないで下さい……!」
しかもそのまま寝息を立て始めるので、もうどうして良いのか分からなくて私はおろおろとその場で腰を捻ったり旦那様を揺すったりという細やかな抵抗しか出来ませんでした。