旦那様と一つの約束
コルネリウス様に魔術を教わるようになって、一月が経ちました。
当初は右も左も分からない状態で教えるコルネリウス様を困らせていましたが、今では大体ちゃんと聞いて繰り返し理解を深めようとすればなんとか分かる程度までには魔術の知識も身に付いてきました。まあ分からないものは分からないので、その時はコルネリウス様に聞くのですけど。
幾度も頭の中で同じ事を巡らせていると否応がなしに頭に刻み込まれるので、それを狙っていた私としてはしっかりとした復習によって魔術の知識も刻み込まれて忘れられないものとなって助かっています。
もう、コルネリウス様から教えられた基礎の術式なら見本を見ずに書けますし、正確に頭の中に思い浮かべる事が出来ます。まあ各属性の基礎術式を覚えて理解した程度なので、これで漸くスタートラインに立てた程度なのですが。
「そろそろ実践に移っても良いんじゃないかな」
コルネリウス様からもあくまで初級のものですが理解度は問題ないとの事を受けて、私も一ヶ月継続して努力した甲斐があったと安堵の溜め息を漏らしてしまいます。
使えるかどうかは別問題だから安心するのはまだ早い、そう分かっていても、やはり次のステップに移れると聞いて一安心してしまうのです。
「本当ですか?」
「ほんとほんと。というか一ヶ月丸々頑張ったんだからそりゃあね」
「うっ……物覚えが悪くてすみません……」
これでもかなり頑張ってはいたのですが、やはり魔術の名家に生まれているコルネリウス様にとっては遅かったのかもしれません。一ヶ月かけて、ようやく魔術の出発点に辿り着いたのですから。
「や、責める訳じゃなくてね、寧ろ短期間でこれだけ覚えれば充分だと思うよ? まっさらな状態からスタートしたんだし。変な知識がなかった分、逆に早かったね。エルちゃん自身勤勉なのもあるかな」
「……あ、ありがとうございます」
「エルちゃんはもうちょっと自信持とうねー」
何も全部自分が悪いと思わなくて良い、といつかのロルフ様のような事を言われて、やっぱり兄弟は似るんだなあと思うのと、こればかりは性分なので急にどうにか出来るものでもないという諦念が浮かんだり。
自分に自信を持てたらどれだけ楽になれる事か。それは分かっていても、私は自分を肯定的に見れないのです。……どうしようもなく臆病だから。
曖昧な笑みを浮かべてその話を流そうとしたのですが、コルネリウス様は意図を理解したのか深い溜め息。それでもこれ以上は踏み込んでこないコルネリウス様。
この方は線引きがとても上手いから、私もこんなにも安定して接する事が出来るのでしょう。踏み込まれると、どうしても体が竦んでしまって、逃げ腰になってしまうから。
「取り敢えず、全属性の初歩は覚えたね。これを実践していく訳だけど……どうする?」
「え?」
「此処からは、ロルフにやってもらう? あいつは教えるのには向かないけど、見るのは得意だよ。魔力の流れを見るならあいつの方が上手いとは思うんだけど」
それに、私よりロルフの方がいいだろう? なんて悪戯っぽく笑ってぱちりとウィンクを飛ばすコルネリウス様。
……ロルフ様に、教えて貰う。それはとても嬉しいのですが、ロルフ様はお忙しいですし……その、週一回の休みなら、好きな事をして欲しいという気持ちがあるのです。
私の為に時間を割いて貰うのは、申し訳ないというか。
「……で、でも」
「ああ、気にしないで良いよ、それに私も見守ってるから。ロルフも嫌がったりしないと思うよ?」
「……じゃ、あ……ロルフ様が良いと仰るなら……」
もし、ロルフ様が頷いてくれたら……その時は、ご厚意に甘えても、良いのでしょうか。
「あいつが断るとは思わないんだけどね。何なら賭けても良いよ」
「か、賭けなくて良いですから」
「そう? 賭けても勝つ自信があったんだけどね」
まあチップに困るから良いか、と笑っているコルネリウス様、弟を賭けの対象にして良いのでしょうか。それと何でそんな自信が……別に手伝った所で、ロルフ様のメリットはないと思うのですが。……あ、魔力の流れを見る事に意味があるからでしょうか?
それなら納得です、とひっそり頷いた私に「何か凄く勘違いしてる気がするな」とコルネリウス様の複雑そうな声が飛んできましたが、私にはそうとしか思えないのですよ。
「そういえば、結局どうだった?」
「どうだった、とは?」
「この間の聞いてなかったんだけどさ。やっぱりロルフは妬いてた?」
「なっ、や、そのっ、あ、あれは……」
な、何でそんな、……コルネリウス様、分かってて行かせたんですね。
でも、コルネリウス様の予想は完璧に当たっているのかなんて、直接接した私でも分かりません。……あれが嫉妬という感情なのか。だって、断定するなんて自惚れというか自信過剰というか。
「こ、コルネリウス様には言いませんっ」
「そうかい? まあその様子で想像つくから言わなくても良いよ?」
「コルネリウス様っ」
「はは。エルちゃんは可愛いねえ」
「からかわないで下さいっ」
最近とても生暖かい眼差しが多くなってきているコルネリウス様。どうやら私の事を面白がっているというか微笑ましそうに見守って……いえちょっかい出してくるのです。
「からかってないからかってない。こう、意地悪したくなる可愛いさというか」
「意地悪するコルネリウス様は、い、嫌です……」
「そこは嫌いと言わない辺り本当に可愛い子だよねえ。大丈夫、肝心な時はエルちゃんの味方だから」
「……つまり普段は意地悪する事もあるよ、という事ですよね」
「大丈夫、私は本当に嫌な事はしないし弁えてるから」
そこの線引きはとてもお上手だとは分かっているのです、決して不快な事はしてきませんから。
踏み越えてはならない部分の手前で立ち止まってくれるし、然り気無く避けてくれるから、その敏感さには助けられているのですが……進んでからかわれたいとは思いません。というか、からかうのは止めて下さい。私の身が持ちません。
うう、と小さく唸りながらちょっと強くコルネリウス様を窺うのですが、コルネリウス様はそんな私の視線すら楽しみに変えたようです。喉を鳴らして瞳を細め、くすりと艶やかな笑みを私に送っては要らないどきどきを私にプレゼントして下さるのでした。
「あ、あの、ロルフ様」
そして夜、一番腰を落ち着けて離せるのが寝室なので、寝る前まで待ってから例の事を切り出します。
「何だ?」
「……あ、の。その、明日、お休みです……よね」
「そうだが」
定期的に休日がある事も周期も把握しているので、ロルフ様のお休みは明日だという事は分かっています。
なので今日は夜更かししても良いという認識なロルフ様は隣で読書をしていて、私の掌に触れつつ本を流すように見ていました。……それで理解出来るのですから、ロルフ様って本当に凄いとしか言えません。
一度手を止めてわざわざ此方を見て下さるロルフ様に、私は触れた掌を遠慮がちに握って、ロルフ様を見上げて真面目な顔に。……此処は誠意を持ってお願いしなくては、だってお休みを奪う事に繋がりますし……。
「……えっと、良ければ、なんですが……その、魔術の実践に、付き合って頂けませんか……?」
断られたら、勿論コルネリウス様と二人でしますけど……。
私としては断られる可能性の方が大きいかと思って恐る恐るのお願いだったのですが、ロルフ様はぱたん、と本を閉じては改めて此方に向き直っては微かに驚嘆を含んだ視線を向けるのです。
「……思ったより早かったな」
「え?」
「いや、何も知らない状態から兄上に魔術行使を許されるまでの期間が思ったよりも短かったな、と。兄上はあれでも厳しい所があるし中途半端は許さないから、本当に覚えるまでは許可は出さない。……頑張ったのだな」
「い、いえ、そんな」
「偉いぞ」
良い子だ、と言わんばかりにロルフ様の大きな掌が私の頭に乗せられ、そのまま髪の流れに沿うように撫でて来ます。
まるで、というかまさに子供扱いなのですが、それでもロルフ様はいつもより柔らかな表情で、本当に感心したように頷きながらのなでなでなので、拒める筈がありません。う、嬉しいのに複雑な気分です……。
まず悪気も他意もないのでされるがままな私に、ロルフ様は暫く撫でて満足したらしくそのまま登頂部から頬に手を移動させて、今度は指の背で頬を撫で上げたり。……私の事を動物か何かと思ってないか心配なのですが。
「兄上のように褒美をやろうと思ったのだが、何をやれば良いと思う?」
「……本人に言われても……」
「何かして欲しい事や欲しいものはないだろうか」
「そ、そんな……私がしたくてしている事ですので。欲しいものも、ございません」
物欲がないとかいう訳ではなく、本当に欲しいものなどないのです。衣食住を確保されているこの状態で、これ以上望むものなんて……いえ、あると言えばあるのですが、それをロルフ様に言う訳にはいかないのです。
「……お前は無欲なのだな」
「とんでもないです! その、私は……分不相応な願いばかりで」
……私を、妻として認めて欲しいなんて、そんなの無理です。ただの立場としてなら、それは認めているのでしょうが……そこに愛情が伴われているかと言えば、否です。
独占欲は多少持たれているのかもしれませんけど、……異性としての好きではないのでしょう。
執着されているのが私の何処の部分なのか、それが分からない程でもありませんから。
「その願いは?」
「……また、ロルフ様と……一日、一緒に居られたら……とか」
でも、流石に心の奥底に沈めてある願いをそのままに口にする訳にもいきません。だから当たり障りのない範囲での、私にとっては大きなお願いを、小さく零すのです。
願い自体に、嘘偽りはありません。本当に、一緒に時間を過ごせたら嬉しいし、幸せです。でも、ロルフ様のお時間はとても貴重なもので、ただでさえ明日のお休みを頂けるというのにまたお休みを私の為に消費させるのは、申し訳なさがあります。
だから、叶わなくても良いようなお願いなのですが……ロルフ様は、ただ「ふむ」と顎に手を添えては少し思案顔。
「ならば、明日は魔術の実践だが……次の休みは、何処かに出掛けようか」
「え?」
「お前が言い出した事だろう。それとも、家でゆっくりする方が良いだろうか」
「いっ、いえ、お出掛け嬉しいです!」
まさか了承してくれるなんて思っていなくて、すっとぼけたようなお返事を返してしまいました。
慌てて首を横に振って、でもこの場合縦に振った方が良いのでしょうか、よく分からずに取り敢えずロルフ様の手をぎゅっと握って喜びを示してみると、ロルフ様も少しだけ安堵したように頬を緩めます。
「お前は家に居るばかりだから気も滅入るだろう。偶には、外に出て気分転換でもすると良い」
「……それは研究所と家の往復だけのロルフ様も同じようなものでは?」
「だから、二人で、だ」
「……はい、ロルフ様」
どうしましょう、……凄く、嬉しいです。
ロルフ様と一緒に、また、お出掛け。
今度は前回のような失態を犯さないように気を付けなければなりませんが、それでも……また一緒にお出掛けして頂けるなんて。あんな事があったから、ロルフ様も迷惑に思ってないか心配だったのです。
気遣って下さったロルフ様には、感謝の気持ちばかりです。お出掛けでもおうちでゆっくりでもどちらでも嬉しいのですが、ロルフ様のお心遣いそのものが、一番嬉しい。
また一緒にお出掛けするのを想像するとつい心が弾んでしまい、頬の筋肉が仕事を放棄してしまってゆるゆるの表情。きっとロルフ様にはへにゃへにゃしただらしのない笑みが目に写って……いけません、ちゃんと引き締めなくては。
ああほら、ロルフ様が生暖かいというか、やや愉快そうに此方を見てくるではありませんか。みっともないお顔を見せるなんて、お恥ずかしい限りです。
「……お前は存外分かりやすいな」
「も、申し訳ありません」
「謝る必要はないだろう。寧ろ、分かりやすい方が助かる。私はあまり人の感情の変化を読むのが上手くない。察しろと言われても察せない時があるから、分かりやすくしてくれればそれだけ人間関係も円滑になると思う」
よく兄上にお前は空気を読めなさすぎると叱られる、そうぼやいたロルフ様。
……コルネリウス様が苦労なさってるのも何となく分かってしまう私はロルフ様にかなり失礼な評価をしてしまっているのでしょうけど、やはりロルフ様は人の感情の動きを読むのは苦手な方だと思ってしまうのでコルネリウス様は間違ってないかと。いえ、最近はロルフ様、私なんかにも気遣いを見せて下さるのですよ?
「だから、思ってる事があればちゃんと口に出してくれれば、嬉しい。お前は全部包み隠そうとするからな。言いたい事ははっきり言って欲しい」
「そ、そんな……その、ちゃんと言って、」
「嘘だな。それくらいは私でも分かるぞ。お前は嘘をつくのが下手だ」
きっぱり断言されては私も言葉を飲むしかなく、否定も出来ずに「うぅ」と呻いてはロルフ様を窺って、そしてロルフ様からやや呆れたような眼差しを頂きます。
……そりゃあ、嘘をつくのは上手だとは思いませんけど。でも、嘘をついている、というよりは、言いたくないし言えないから何でもないと首を振っているだけなのです。
それまで駄目だと言われたら、とても困るというか……。
「……善処します」
「そうしてくれ。私も至らぬ点があるならはっきり言ってくれ。改善する」
「そんな事は」
「その時点で嘘だと分かるぞ。お前を度々泣かせたり凹ませては兄上や母上やら同僚に叱られその上でこんこんと言い聞かされているのだ、至らぬ点だらけだと思うのだが」
……同僚の方にまで叱られているとは一体。
というか、ロルフ様は同僚の方にまで色々暴露してるのでは……!? もし会った時に「こいつがあの」とか思われてしまったらどうすれば。
そもそも私が涙脆くて凹みやすいのが原因なので、ロルフ様は悪くないのに。
「……エル、返事は?」
「……が、頑張ります」
ロルフ様にそんな事を言える訳がないのですが、ロルフ様は頷かなかったら不服そうな顔をするの間違いなしなので、こくこくと従順に頷いておきました。ごめんなさいロルフ様、多分言えそうにありません。
……ロルフ様は悪くないから、私がちょっとした事で泣いたり凹んだりしないようになれば良いですよね。割ときついものがあると思いますが、頑張らなくては。




