変化の、兆し
今日は、ロルフ様のお休みの日です。
基本的にロルフ様はお休みの日なら研究室にこもるのですが、今日は真っ先に行く筈の研究室には脚を向けず、私と一緒にリビングで過ごしているのです。……いえ、それは良いのですが、な、何故、私を足の間に座らせたがるのでしょうか。
今日も復習を念入りにしようと本をお供にしていたのですが、ロルフ様が私を足の間に座らせて固定するのでとても落ち着きません。
本を読むのを妨害、という訳ではなく、邪魔しないように軽く腰に手を回しては肩の辺りから覗き込んで来るだけ。いえ、吐息が直に聞こえるので、集中は出来ないのですが……ロルフ様にとっては故意ではないでしょう。
何で、こ、この体勢なのでしょうか……。言ってくれたら、魔力増幅の為にも読書を中断して触らせるのですが……私の読書を遮るつもりはなく、でも触れて増やしておきたいという事なのでしょうか?
その、そういう事なら出来れば寝室が良いのですが……アマーリエ様に目撃されては「あらあら」と実に楽しそうな笑顔を遠くから向けられましたし。絶対面白がっていると思うのです、アマーリエ様。
「あ、あの、ロルフ様……?」
「何だ」
ちょっと振り返ると、至近距離にロルフ様の顔があるからもう恥ずかしくて仕方ないのです。……何故かロルフ様、ちょっと満足そうですし。もしかして私が照れるのを見て、面白がってるとか……? いやいや、ロルフ様は別に私がどう反応しても変わらないと思いますし……。
ロルフ様に触れられた所や近い所から羞恥がじわじわと熱となって押し寄せてはちりちり肌を焼いていくこの状況は、とても心臓に悪い。いつになっても、こういう事をされるのはなれないのです。ロルフ様、だからでしょうか。
「おやおや、仲睦まじいね」
うう、と小さく唸った私に、通り掛かりのコルネリウス様がにやにや笑いで近付いてきます。ぜ、絶対に面白がってますよねコルネリウス様。
「コルネリウス様、からかわないで下さい」
「からかってなんかいないよ、本心だし」
「言い直します、面白がらないで下さいっ」
顔が笑ってるのですコルネリウス様、とても、愉快そうに。あと微笑ましそうに。
そりゃあコルネリウス様としては仲良くしてくれるのは嬉しいのでしょうけど、これは仲良くって言うのですか。私は抱き枕くらいにしか思われてないと思うのですよ?
もう、と溜め息を零しつつ、丁度コルネリウス様も来た事ですし、いっそ分からない所……というか気になった所はついでに聞いておきましょう。別の機会にするとコルネリウス様の所にわざわざ訪ねるか講義まで待たなければなりませんので。
読んでいる所とは別に栞を挟んでいたページを開き、ロルフ様の緩い拘束を抜けて小走りでコルネリウス様の元に。
流石に私が本を持って来た事で何かを聞きたいのだとは分かったらしいコルネリウス様、愉快そうな笑みからゆったりとした穏やかな笑みに。
この表情は相対してとても落ち着きますし、聞きやすいのです。コルネリウス様も分かっているからこそ、表情をわざと変えたのでしょう。
「分からない事があったのかな?」
「あ、それなのですけど、この術式の此処の単語は何処にかかっているのでしょうか。結果的に全体に作用しているのは分かるのですが……直接全体にかかったものでもないと思うのです」
「ああ、これは制御式の補助としてかかっていて、方向性を指定するものなんだ。だからこの部分の式が全体に作用して、結果として術式全体の作用に影響するんだ」
「そうなのですか……難しいですね。ありがとうございます」
数週間も学び続ければ最初の頃よりは当然理解していますが、やはり分からない所は分からないです。なので、初心者に理解しやすいように教えて下さるコルネリウス様はとても優しく、そしてやはり教鞭を執るのに向いているのではないかな、と思ったり。
今は取り敢えず扱うより覚えていく、という課題が第一なので、実際に魔術を扱わせては頂けません。まだ初心者のしの字に取り掛かったくらいの私では無理でしょうし、納得していますけど。
複雑だけどロルフ様の与えてくれたものよりは幾分簡単だと思える術式を撫でては、扱えるようになるのはいつやらとひっそりと吐息。いえ、魔力的に扱えるかすら分からないのですけど。
「毎回お手間をおかけしてすみません」
「いやいや。それに短期間でこれだけ覚えていけたなら早い方だよ。偉いねエルちゃん、毎日頑張ってるだろ。お兄さんがご褒美あげちゃおうかな」
言うや否や、私の少し開いた唇に何かを押し付けて口の中に放り込むコルネリウス様。何を入れられたのかとびっくりして思い切り体を揺らしたのですが、コルネリウス様は楽しそうに喉を鳴らして笑うのです。
一体何が、と恐る恐る舌先で触れると、とろりと滲むように溶ける何か。甘くて、ほろ苦いそれ。体温でゆっくりと溶けていくそれは、口の中に広がっては甘さと香ばしいような、それでいて甘い香りを届けていきました。
「チョコレート。甘くて美味しいだろう? この前行商の人が仕入れてくれたんだよね。こっちだと結構高価だからあんまり見ないし」
チョコレートは、食べた事がない訳ではありません。実家が仕入れたもので割れたりして売れなくなったものをちょっと貰った事はあります。でも、ちゃんとしたものを口にするのは、初めてで。
……割とチョコレートって高いものだと思うのですが、それをほいっと口の中に突っ込むなんて。コルネリウス様は私に甘い気がするのです。
「……美味しい、です」
「それなら良かった。可愛い義妹は甘やかしてあげたくなるからね」
「……じゃあ、素敵な義兄様には今度好物をお作りしますね。牛肉の赤ワイン煮込みですよね?」
「お、ロルフから聞いたのか。ありがとう、良い子だねー」
好物の名前を聞いた瞬間コルネリウス様は笑顔で私の頭を撫でてくるので、余程嬉しかったのでしょう。それは良いのですが、頭を撫でる必要性は何処にあるのでしょうか。
コルネリウス様としては義妹を可愛がっている(?)だけなのでしょうけど、私としてはやっぱり子供扱いされている気がしてならないのです。
「……コルネリウス様、止めて下さい」
「ロルフには許すのにねえ」
私じゃ嫌かい? とややにやにやが強くなった笑み。……わ、分かって言ってますよね、コルネリウス様。
「ろ、ロルフ様はその、特別で……ロルフ様?」
「……何しているのですか」
もごもごと言い訳のように言葉を紡ごうとした私ですが、ふと頭に乗っていた掌の感触がなくなった事に気付いて上を見ると……いつの間にか、ロルフ様が近付いてはコルネリウス様の手首を掴んで払っていました。
コルネリウス様は、動じた様子もありません。寧ろ、とても楽しそうに瞳を細めています。
「何って、普通に魔術教えて褒めているだけだろう?」
「一々触れる必要はないでしょう」
「……おやおや」
悪戯っぽく目の奥を光らせ、まるで新しい玩具を見付けたように、実に面白そうに口の端を吊り上げるコルネリウス様は、確実に標的を私からロルフ様に乗り換えたに違いありません。
いえ、最初から私でロルフ様を釣った気がするのですが、気のせいでしょうか。
……そんな事ないですよね、だって、私をからかえばロルフ様が出てくるって確信してなきゃそんな事しない筈ですし。寧ろ出てこないでスルーの可能性が殆どだったのです、私がロルフ様の登場に驚いてばかりですから。
「兄上、そのにやにやした顔は何ですか。エルネスタで不健全な事でも考えているのではないですか」
「何で私がエルちゃんで考えるのかな……八つ当たりも程々にしておくれよ?」
「八つ当たりなど」
「じゃあその漏れた魔力はどう説明するのかな。……普段は完璧に制御出来てるっていうのに、珍しいね?」
え、とロルフ様の方を反射的に見ると、気のせいか、うっすら何か、分からない力が周辺を漂っている気がします。鈍い私でも分かる程の、濃密な何かが。
「ムキにならなくても良いよ。そもそも自分で八つ当たりしてる心当たりがあるんじゃないかな?」
にこっと、これでもかという爽やかな笑みは、気のせいか意地の悪いものが含まれています。
……ロルフ様が、八つ当たり……? でも、基本穏やかというかあまり感情を動かさないロルフ様が、何かに腹を立てるなんて。いえ、コルネリウス様の笑顔はからかわれている立場からしたらちょっと思う所があるとは思いますが。
どうしたのでしょうか、とロルフ様を見上げると、視線が合って……瞳が見開かれ、それから気まずげにふいっと逸らされてしまいます。
「兄上、申し訳ありません。兄上の顔が腹立たしかったので強く当たってしまいました」
「おい、それもどうなんだ」
あ、やっぱりそこはあったのですねロルフ様。……コルネリウス様は何とも言い難そうな微妙な表情をしていらっしゃいますが。
「でも、それだけじゃないよな? もっと、怒る直接的な原因があっただろう」
「そんな事」
「じゃあ私の手を退ける必要はなかったよね? つまりは、そういう事だろう?」
「……意味が分かりません」
ロルフ様の声が、どんどん強さを増していきます。冷静な筈なのに、少しだけ……棘を含ませたような、苛立ちが滲んでいて。
それがコルネリウス様に向けられたものかと言えば、そうでない気がするのです。どちらかと言えば、ご自身に向けたもののような、気がして。
「あ、あの、ロルフ様……?」
今口を挟むのは良くないと思ったのですが、このまま口喧嘩に発展するのも嫌で、おずおずとロルフ様の服の裾を掴んで見上げると……ロルフ様は、衝撃が走ったように、目を見開くのです。
それから、掴んだ私の手をやんわりと振りほどいては、そのまま掌で顔を抑えてしまいました。
「……風に当たってくる。暫く一人にしてくれ。自分でもよく分からない事で苛立ってしまった」
「あ……」
その言葉からは此方を見ずに、リビングを出て行ってしまいました。
「……おーおー、ロルフも可愛い一面があるんだねえ。ふふ」
そんなロルフ様に、コルネリウス様は何だか楽しそう。微笑ましそうと言うか、寧ろ喜ばしそうにしているのです。ロルフ様が苛立っているのを見て楽しむのはあまり趣味が良いとは言えないのですが。
「……どうしましょう、怒らせてしまいました……」
「や、あれはエルちゃんに怒ってないから。ロルフの情緒もちゃんと成長してるんだと思うと微笑ましいよ」
「……その顔がロルフ様を苛立たせたのでは?」
「エルちゃんも言うねー」
にやっとした笑みを心が荒んでいる時に見せられたら、何かしらお腹の中でもやもやも発生すると思うのです。コルネリウス様は火に油を注いでしまったのではないでしょうか。
……でも、最初の出火は何で、という疑問にも辿り着くのですが。
「まあさっきの原因は私が半分かな」
「残りは……?」
「さあてね。私から答えを言うのは簡単だが、それで果たして解決する事だろうか?」
自分で理解するべき事だよ、と遠回しに言われて口を噤むしかありません。
分からないからって、全部聞いては駄目なのですよね。でも、ロルフ様が何故苛立っていたのかなんて、分かりません。
そんな私を、コルネリウス様はやれやれと肩を竦めて見詰めるのです。
「エルちゃん、ロルフ追い掛けてご覧」
「で、でも、一人にしてくれって」
「エルちゃんなら大丈夫だし宥められるのもエルちゃんだけだよ。寧ろあの消化不良というか不完全燃焼っていうか、理解出来ない感情に身を焦がされるのも可哀想だし、変な方向に引火されても堪らないし。エルちゃん、何とかしておいで」
……それは、私に死んでおいでと仰っているのでしょうか。
あのロルフ様に拒絶されたら、立ち直れないのですが。魔術どころじゃなくなって凹んで引きこもる自信があります。ロルフ様に否定されるのが、一番怖いのに。
明らかに躊躇を露にしてしまった私に、コルネリウス様のやんわりとした苦笑が降り注ぎます。
「……そうだね、エルちゃん、ロルフに頭を撫でて欲しいってお願いしてご覧?」
「あ、頭を……ですか?」
「そうそう。それだけで、機嫌は直ると思うよ」
「……本当にですか?」
「ほんとほんと。失敗したら慰めてあげるしエルちゃんの好きなもの何でも買ってあげるよ。お兄さん、嘘つかないよ?」
……つまり行ってくるのは強制って事ですよね?
ほ、本当に、それだけでロルフ様の機嫌は直るのでしょうか……信用して良いのか分かりませんが、コルネリウス様がそう仰るのなら、試してみる価値はあるらのでしょうか。
「別に欲しいものなんてないのですが……い、行ってみます」
「頑張ってエルちゃん、大丈夫大丈夫いけるいける」
……そうやって煽るように行かせるのがなければ、もっと良いのですが。




