奥様、落っこちる
ふわり、頬を何か柔らかさと硬さを併せ持った物が頬を撫で、そして唇をなぞっていく。温もりを伴ったそれがゆっくりと感触を確かめるように滑り、そしてふにふにと遊ぶようにやんわりと押してくるのです。
微睡みの中妙な擽ったさを感じて、猫のように喉を震わせて声未満の音を出してしまった私。更にふにりとつつかれて、一体何なんだろうと唇に触れたそれをはむっと唇に挟むと、少しだけ震えるそれ。
見えていないから何なのか分からないですけど、とても暖かくて……、……何で、私、目を閉じているんでしたっけ……?
そもそもの疑問が湧いて、そこで漸く今おかしい状況にあると脳が訴え始めます。重い瞼を動かしゆっくりと視界を今一度はっきりさせて……そして、此方を覗き込むロルフ様と、視線が合うのです。
ぼんやり見上げる私に、ロルフ様は少しだけふっと気の抜けたような、笑み。そして、唇に触れさせていたらしい指を、もう一度頬に移してゆるりと指の腹で撫でました。
……あ、れ。私、何でロルフ様の顔を見上げて……? 違う、顔で見上げてるんじゃなくて、私が下に居るから見上げるような体制にならざるを得ないのです。
少し顔を動かせば、ロルフ様の膝が見えて。
「起きたか。よく寝ていたな」
「え、なっ」
「途中で倒れかかって来てそこで安定したのだ。重くはないから気にするな」
……待って待って、今、私ロルフ様の腿に頭を乗せてるのですか!? やけに丁度良い、いえちょっと高くて硬めの枕があったな、なんて思ったら、ロルフ様の、脚……!?
な、何て失礼な真似をしてしまったのでしょうか私。事もあろうに、夫であるロルフ様の脚に、頭を預けてしまうなんて。こ、これでは重かったでしょうし身動きなんて取れませんでしたよね、読書の邪魔をしてしまったのでは……!
「……っご、ご、ごめんなさい! いっ、今離れますので!」
やってしまったと慌てて立ち上がって、ロルフ様に謝りながら全速力で後退り。ロルフ様は呆れてたり怒ったりしていらっしゃらないでしょうか、どうしましょう、仕方のない奴だって思われたら。
ロルフ様は急いで遠ざかろうとする私に呆気に取られたような顔をしていましたが、さっと顔色を変えて眉を寄せて急に立ち上がっては手を伸ばして来ます。ああ、やはり怒って……っ。
「おい! そっちは!」
「え、」
ロルフ様から飛んできたのは制止の声だったと気付いたのは、私の体が後ろに重心を持っていかれてからでした。
元から、あまり慣れていないいつもより少し高めのヒールの靴だったのも、悪かったのでしょう。加えて、此処は外で草などが無造作に覆い繁っていたり、石ころが転がっている。
そして、後ろには泉があった、という事です。
ばしゃん、と壮大な音を立てた瞬間には、腰の辺りまでひんやりとした水に浸かっていました。
木々に止まっていた小鳥が飛び立ちはばたく音、風に枝が揺れて軋む音。そして、訪れる静寂。
そこそこに水深があった事が幸いして、尻餅を付いた程度で痛みはそこまでのものではありません。ただ、腰の辺りまで浸かっているので、勢いよく突っ込んだせいもあって全身ずぶ濡れです。
ふわりと柔らかい布地も水を含んではゆらゆらと水中を漂っていて、捲れ上がっては太腿を露出させていました。
「何をやっているのだうつけ者。怪我はないか」
「……ご、ごめんなさい……」
ロルフ様の叱責も、当然です。ロルフ様は慌てて止めようとしてくれたのに、私が逃げたからずぶ濡れになって。
……折角ロルフ様と一緒に過ごす時間を与えて貰ったのに、私は寝てしまって、ロルフ様の読書の邪魔をして、今度は泉に落ちて、心配と迷惑かけて、台無しにしてしまった。
アマーリエ様には可愛らしくおめかししてもらったのに、ずぶ濡れで、服だって台無しで。
全部厚意を踏みにじってしまった。
考えれば考える程私の落ち度がありすぎて、ああやってしまったと後悔が押し寄せて来ます。
何のためにロルフ様の貴重な時間を割いて貰ったのでしょうか、こんな、心配と迷惑をかけたかった訳ではなかったのに。
自分の不甲斐なさと至らなさに、目頭が熱くなって勝手に涙が零れ落ちます。泣いてしまえばロルフ様が心配するのも分かっているのに。
「い、痛かったか? 寒いか? 兎に角、そこから出て体を温めよう」
ああほら、ロルフ様が気に病んでしまいました。私が勝手に転んで濡れてしまっただけなのに。
「……一人で立てます、から」
これ以上ロルフ様に心配をかけてはなりません。泣いていたら余計に心配を掛けてしまいます。
強引に涙を拭って、びしゃびしゃの重たい服のまま何とか立ち上がるものの、先程で捻ってしまったらしくズキリと響くような痛みが足首に走りました。最悪と言っても良いでしょう、転んでずぶ濡れで場を白けさせてしまった上、捻るだなんて。
……顔に出したらまたロルフ様に心配をかけてしまうと顔に出ないようにしたのに、ロルフ様は気付いてしまったらしくてよろよろと泉から出て来た私の事を支えてはあっさりと横抱きにします。
そんな事をしてしまえば、ロルフ様の服まで濡れてしまうのに。
「ぬ、濡れてしまいます、大丈夫ですから……!」
「……兎に角、馬車に戻ろう。このままでは風邪を引く」
私なんて気にしなくて良いのに、それでもロルフ様は有無を言わさず抱えていくのです。
そこまで遠くない所に止めてあった馬車の中に丁重に運ばれ、それからぐっしょり濡れた服を見ては眉をひそめていました。
「エル、ひとまずそれを脱げ。濡れたままでは風邪を引く」
「い、嫌です、私は大丈夫ですから」
「エル」
低い声で命令されるように強く言われて、堪らずに体をびくりと揺らしてしまうものの、それだけは無理だから、首を振ります。
たとえ、ロルフ様でも……傷を見られるのは、嫌です。服を脱いでしまえば見えてしまう、女としては失格な、大きな傷が、見えてしまう。そんなのは嫌です、あんなの、見せられない。
「……嫌、見られたくない……」
ただでさえロルフ様に呆れさせたり心配させたりしているのに、こんなものを見せては余計に気が重くなるだけです。見て楽しいものなんかではありません、不快になるだけ。
これだけはロルフ様の命でも出来ません、と体を抱き締めるようにして拒否の意思を示すのですが、ロルフ様は、私の事を見てそっと溜め息。
「……エル。見ないから、せめて濡れた服は脱いでくれ。毛布はあるから、それにくるまってくれ。そうしたら、見えないだろう?」
ぽん、と宥めるように囁かれ、それから置いてきた毛布を取りに行っては私に手渡してくるロルフ様。私の我が儘に嫌な顔一つしないで、気遣ってくれて、優しくしてくれて……。
またじわりと涙が滲むのですが、ロルフ様は少し慌てたようにまた私の頭を撫でてはぽんぽん。泣き虫になった私は、またロルフ様に宥められてしまうのです。
「私は外に出ているから」
優しく囁いて馬車の外に出ていってしまったロルフ様。
もう、此処までされては拒む気力もなくて……よろめきながらも、ゆっくりと濡れて貼り付いた服を剥がしながら、脱いでいきます。
折角、アマーリエ様に着せてもらった女の子らしい服も、ぐっしょりと濡れて土で汚れていたりします。泉にあった岩で切ったのか、少し破けてしまっていますし……アマーリエ様に何て顔をして謝れば良いのでしょうか。
アマーリエ様は怒ったりはしないでしょうが、私が申し訳ないのです。
よたよたと脱いでいけば、シュミーズも腰まで濡れていてお腹回りに引っ付いています。これも脱がなければ、体を冷やす事になるでしょう。
……本当に脱いで良いのか、迷いました。
けれど、ロルフ様が私の為を思って言ってくださったのですから、拒めません。……大丈夫、毛布にくるまってしまえば、見えない筈。
窓を見れば、大きな傷を抱えた顔色の悪い女が写っていて、此方を見ています。……ああ、ロルフ様、とても心配そうだったのは、私が死にそうな顔をしていたからなのですね。自分でも酷いと思える程、青白い顔。心配ばかり、かけて。
はあ、と泣きたいのを堪えて、ロルフ様が渡してくれた毛布にくるまります。ロルフ様の香りがするそれは、暖かくて、今更ながらに自分の体がとても冷えてしまっていた事を実感させられるのです。
気付いてしまえば、かたかたと震え出す体。……寒い、毛布だけじゃ、足りない。
「……入っても、良いだろうか」
外かけられる遠慮がちな声に返事をすれば、ゆっくりと扉が開かれてロルフ様が入ってきます。私を気遣ってか、なるべく体の方は見ないようにして。
「馬を出してもらう。屋敷に帰って、湯を浴びて温まれ」
「……はい」
ロルフ様はとても心配そうな表情で、私も大人しく頷いては馬車の外に椅子に腰掛けるのですが……ロルフ様は、それでは駄目だと何故か首を振っては、私の事を抱き抱えます。
もう、抵抗する体力なんて残っていなくて、私はあっさりとロルフ様の腿に乗せられる形で横抱きにされていました。ふらついていた私を固定するように、そして凍えそうになっていた私を温めるように。
気候自体は温暖でしたが、泉の水は澄みきっていて、そして冷たかった。だからこそこんなにも冷えているのでしょう。元から、寒さに強かった訳ではありません。寧ろ、冷え症ですから。
「エル、寒くないか」
御者に馬車を出すように頼み、行きよりも急いだ様子で屋敷に戻るのですが、ロルフ様は私の事を気にかけてくださっていて、強く抱き締めてはしきりに私の顔を覗き込みます。
「……平気です」
「嘘をつくな、震えている」
見え透いた痩せ我慢などあっさりと看破したロルフ様、貧弱な私とは比べ物にならない程逞しい体がぎゅっと私を包み込みます。掌が頬に触れれば、じわりと熱が冷えきった頬に沈み込んでは染み渡っていくのです。
温かい、と頬が緩んだ私。先程よりも、少し意識がぼんやりとしてしまっているのは……寒さのせい、でしょうか。
「すまなかった、泉に近い場所過ぎたな」
「……いえ、私がそもそも居眠りをしてしまったのが悪いのです。……折角の休日を台無しにしてしまって、申し訳、ありません」
ロルフ様が謝る事は、ないのに。私が、全部台無しにしてしまっただけ。ロルフ様は、何も悪くないのです。
どうしてこうなってしまったのでしょうか、自問自答しても答えは出なくて、ただ出てくるのは目元の熱と大粒の水滴。泣いてしまってはロルフ様に迷惑を掛けるだけだと分かっているのに、内側から自分のどんどん情けなさに悲鳴を上げるように零れ落ちてくるのです。
ひっく、としゃくり上げてしまって、ロルフ様はやっぱり戸惑ったように視線をさまよわせては悲しそうに眉を下げてしまいました。
「……泣かないでくれ、私はお前に泣かれるとどうして良いのか分からない」
ロルフ様まで悲しそうな顔をして、それから涙を止めどなく流す私の目元に、口付けて。柔らかな感触が触れて、滲み出る罪悪感すら受け取るように、飲み下すように、拭っていきます。
びくり、と体を震わせて、驚きに涙すら止まってロルフ様を見上げると、ロルフ様はぺろりと唇を舐めて涙を飲み込んでいました。
「ロルフ、さま」
「しょっぱい」
「……涙です、から」
「しかし、これもお前の味なのだろう。……お前は悪くないのだ、エル」
泣き濡れた顔に口付けてはぽんぽんと背中を叩いて宥めるロルフ様は、きっとこの事を気にしてなんかいないのでしょう。
だけど、……私が、休日を台無しにしたという事は、私の中でじくじくと膿んでいるのです。
「私が、」
「謝るな。私がこんな場所に連れ出したのだから、私が悪いのだ。お前は謝る必要はない。……良いのだ、泣かなくても。全部自分が悪いのだと思い込まないでくれ」
「……はい」
言い聞かせるように優しく囁かれて、また強く引き寄せられます。
本当に、良いのかな……考えても、分かりません。
けれど、ロルフ様の温もりと労りだけは否定なんか出来ません。いえ、否定なんか、したくありません。私に向けてくれた、優しい気持ちを、この温もりを、今だけは私だけに下さい。
ロルフ様の胸に顔を埋めて、静かに瞳を閉じては今だけは許して下さいと小さく呟き、甘えるように凭れました。……ロルフ様が応えるように抱き締め直してくれたから、許されたのでしょう。
……ありがとうございます、ロルフ様。




