ある意味で純粋な旦那様
旦那様と添い寝するようになって、一週間経ちました。
あれから旦那様が寝惚ける事はありませんでしたが、何というかとても気遣われているらしく、必要以上に触れる事はしません。それどころか、旦那様もお仕事が忙しいのか、寝る前に顔を合わせるくらいのものになってしまっているのです。
仕事に精を出しているのは大変素晴らしい事ですし、お勤めしているのだから、当然です。興味を持たれる前の生活に近付いただけですし、嘆く程の事でも、ないのでしょう。
……私が少しだけ寂しいと思ってしまうのは、旦那様と話すようになってしまったからでしょうか。贅沢になってしまいましたね、私は。昔は、いつか妻としての役目を果たせられたら良いぐらいにしか、思っていなかったのに。
今日の旦那様は、何処か、態度が違いました。帰って来るなり私の方をちらちら見ては、何かを言おうと唇を動かしてもごもご。出迎えた私もこんなにはっきりしない旦那様を見たのは初めてで、思わず疑問が顔に出てしまったらしく旦那様が渋面。
「エルネスタ、後で話がある」
神妙な面持ちでの言葉に戸惑い半分、残りは不安が占めています。……私は、何かしてしまったでしょうか。旦那様もろくに話し掛けようとせず義務的に手を繋ぎしかしませんでしたし……私は、いつの間にか旦那様の機嫌を損ねてしまっていたのでは。
「も、申し訳ありません」
「……それは時間をくれないという返答か」
「ち、違います、その、私が何かしてしまったのかと、思って」
「何故そうなった。前にも言ったが、全部自分が悪いと思い込むな」
「……申し訳ありません」
「……すまない、そんな顔をさせた訳ではなくてだ。……寧ろ謝る方なのは私なのだ、お前が謝る必要はない」
旦那様が、悪い、って?
「兎に角寝室で話す。また後でな」
私の戸惑いを気にせず立ち去ってしまう旦那様に、私はただ訳が分からず旦那様を待つしかありませんでした。
お互いに寝る準備を済ませてベッドの上で対面なのですが、久し振りにわざわざ時間を取って、旦那様と面と向かってお話しするという事で私の体は自然と強張ってしまいます。
旦那様は真剣な表情というか、旦那様も気難しそうな表情で私をじっと見据えています。……私は悪い事をしていないらしいのですが、とても居心地が悪いです。
「えと、旦那様……その、お話とは……?」
「すまなかった」
「え?」
突然の謝罪に本当に意表を突かれて瞳を点にしてしまった私ですが、旦那様はあくまで大真面目。
「えっと……だ、旦那様が何をしたのですか……?」
「お前が私が寝惚けた日からぎこちなかった。あれは私に対して怒っているのだろう? 同僚に相談したら『奥さんの胸に顔を埋めて枕代わりとかうらやま、いや、けしからん。ただの脂肪とか言ったら怒るに決まっている』と言われてな。あれは私の失言だった、すまない」
律儀にその同僚さんの言葉を再現してくださった旦那様が申し訳なさそうにするのですが、何というか旦那様の同僚の方は面白い方というか旦那様とは正反対のタイプのようです。
……それよりも、旦那様はあの時の事をずっと気にしていらっしゃった、のでしょうか。私は別に、怒ったりなんかしてないのに。
「その、決して無駄な脂肪なんかとは思ってないぞ。とても柔らかくて、気持ち良かった。素晴らしい枕だったと思う」
旦那様の謝罪は分かりましたが、枕からは離れて下さい旦那様。
本人も言っていた通りやましい気持ちは全くないのでしょうし、別に私とて嫌という訳では、ありませんでしたし……あれは、恥ずかしくておこしただけですので。
極論、旦那様に枕の代わりにされるのも吝かではないのですが……旦那様、実は気に入ってたのでしょうか。
……してあげたら喜ぶの、かな。い、いえ、それは恥ずかしくてちょっと躊躇われるのですが……。
「……エルネスタ」
「はい」
「……抱き締めるぞ」
何を言われたのか一瞬理解出来なくて、え、と間抜けな声を漏らした時には、私は旦那様のしなやかな腕の中に収まっていました。
……あまりに自然な流れで抱き寄せられて、意味が分からず羞恥も狼狽も襲い掛からず、ただぽかんと旦那様を見上げる私。とても気の抜けた顔をしていたと思うのですが、旦那様はふっと頬を緩めて、それから顔を寄せてきて。
頬に、何か柔らかい感触が触れたのを感じました。
それが何か、理解した瞬間、考えていた事が全部頭から抜けてしまって、ついでに蒸気まで伴いそうな勢いで体が瞬間沸騰します。全身に隈無く広がる高温は、私の肌に直に現れては皮膚を焼いていきます。まるで、火傷したように、肌がうっすらと赤色に染まって。
「どうだ?」
「どっ、どどどどうだ、とは……っ!?」
「お気に召したか、と聞いたつもりだったのだが」
だっ、旦那様、そういう問題じゃなくてですね、何で……何で、頬にキス、したんですか……っ!?
「……研究所の奴等に、妻が機嫌を悪くしたのだがどうすれば良いか、と聞いたら……謝って、抱き締めてキスして、笑顔で甘い言葉を囁けばイチコロだと言われたのだ。意図的に笑うのは難しかったし甘い言葉というのも抽象的過ぎて分からなかったので、せめて抱擁とキスだけでもと」
旦那様に何吹き込んでるんですか同僚さん。そ、それは、好き合った恋人や夫婦の間で通用する行為で、私達は、そういう夫婦じゃないのに……。
旦那様は、多分説明していないのでしょう。恐らく説明する必要がないと思って結婚の理由とか説明なしだったのでは。ただ、結婚したの一言だけ言ったとか。
というか、旦那様は、案外刷り込みやすかったりするのでしょうか。アドバイスを真に受けて、本当に実行してしまうなんて。普通、これは駄目だとか、するのは憚られるとか、思ったりする事もあるでしょうに……!
「……機嫌は直ったか?」
こてん、と首を傾げて此方を覗き込む旦那様は同僚さんを疑っている様子などなくて、ただ私が喜ぶかを気にしている、ようです。
……旦那様、本当に、今まで研究しか頭になかったみたいで、色恋沙汰の知識は全くないのですね……! その辺り、とても純粋なのでしょう。少なくともこんな大胆な事をしてくるくらいには、恋愛方面にピュアな方です。
「……そっ、そもそも、機嫌が悪かった、訳ではありません」
「だが、何か思う所はあったのだろう。遠慮なく言うと良い」
お前は遠慮しがちだからな、とやや気遣わしげな旦那様は、ぽんぽんと私の背中を叩きます。……私の事を気にかけてくれていたのは、とても、嬉しい。無視とかされている訳じゃなかったのですね。
「……今の所、ないです」
「……本当にか?」
「ええ」
ちょこっとだけ嘘をつきましたけど、本当の事を言うつもりはありません。……女として見て欲しいなんて、旦那様に言っても多分、無駄です。……異性としての好きを理解していらっしゃらない気がするので。
旦那様は少し納得のいかなそうな表情で、……そういえば、私も少しずつ旦那様の表情の違いを見抜けるようになってきたな、と思います。前はそもそも、私と顔を合わせる事などなかったし、いつも無表情でしたから。
「ご心配をお掛けしましたし、明日はクリームシチューにしますね」
「本当か!」
ほら、旦那様の表情が分かるようになった。ぱあっと瞳を輝かせて、頬をほんのり緩めて、眉をぴくぴくと動かして。嬉しそうに、微笑んでいるのです。
……旦那様、笑顔、普通に出来ていますよ。もう、それだけで充分な気がしてきました。私も単純だと思います。
「私は聞いたぞ、約束は反故にしないでくれ」
「しませんよ。旦那様が喜んでくれるの、嬉しいですもの」
旦那様から恋情という意味で愛は頂けなくとも、いつか、家族愛として、私を受け入れて下されば、それで良いのかもしれません。
希望は捨てないですけど、過剰な期待は止めて……これからは、旦那様と穏やかな日々を過ごせるように、努力していきたいです。
そんな私に、旦那様は静かに此方を見て何かを考え込む素振りを見せましたが……首を傾げると、何でもないと言われたので、私はそれを信じて頷きました。




