第八章 春名の見解
終礼が終わると、空は春名と海の荷物を手に、保健室へと急いだ。
保健室のドアを開け、中を見ると、保険医の姿はなかった。空は薬品臭い部屋を横切ると、ベッドへ歩み寄る。
仕切りのカーテンを開けると、海と目があった。海は丸椅子に腰掛け、ベッドの上で半身を起こしている春名と、話しをしていたようだ。
「あ、大丈夫なのか。紫藤」
「おう、平気平気」
へらへらと笑ってそう言うが、頭の包帯が痛々しい。春名にも同様に聞くと、春名も大丈夫だと頷いた。その顔色が常に近くまで戻っていることにほっとする。
「お前急ぎすぎて足滑らしたんだろう。間抜けだなぁ」
心配した分だけ、少しからかいたくなって、空は海に言った。だがその言葉を聞いた海と春名は、顔を見合わせた。
「何だよ。どうしたんだよ」
不審に思って尋ねると、海が口を開いた。
「それがさ、実は俺、足滑らせたわけやないねん」
「は? どういうことだよ」
「紫藤は、二階と一階をつなぐ階段の上で、背後から誰かに突き落とされたらしい」
空の問いの答えを春名が引き取ってそう答えた。空は首を傾げる。
「なんで。誰がそんなこと」
「さあな。でもあの時ちょうど授業始まるチャイムがなったとこで、周りに人おらんかったんや。それで目撃者がおらへんねん」
「先生には、勘違いだって言われたそうだ」
「……っとにこの学校って事なかれ主義だよな。むかつく」
空は海が先ほどまで寝ていたベットに腰かけた。傍らに三人分の鞄を置く。
「でも、勘違いって事はないんだよな」
「なんや、お前まで疑うんか」
「疑うわけじゃないけどさぁ」
軽く睨まれて、空は人差し指で頬を掻きながら言葉濁す。
「紫藤のポケットにコレが入っていたんだ」
そう言って春名が差し出したのは、ノートを手で半分にちぎったもののようだった。それがさらに半分に折られている。空は差し出された紙を受け取って、開いた。
わざと崩したように文字が書かれていた。酷く読み辛い。空はそれを声に出して読んだ。
「この事件から手を引け……。この事件ってどの事件だよ」
空は紙に落としていた目を上げ、二人の顔を交互に見る。
「さあ、ウサギの事件か……」
「教室の事件。もしくはその両方か。どちらにしろ、調べられたら困る奴がいるってことだろうな」
そう結論付けた春名に、海は頷いて肯定を示している。だが、空は少し引っかかりを覚えた。
「でも、何で紫藤を突き落とした犯人は、紫藤が事件を調べてること知ってたんだろう。……つうかまだ何もやってねぇし」
「あー、アレかも知れへん。昨日の昼さ、久保たちに話し聞きに言った時、結構大きな声で言うてもうたんや。俺らがウサギ殺した犯人を捕まえたるって」
「じゃあその時に、犯人もその場にいたかも知れないってことか」
空がいうと、まあそうだろうなと、春名も頷いた。空は手にしていた紙をとりあえず春名に返した。その時、空の頭にふと疑問が過ぎった。
「でも、犯人はどうやってこれ、紫藤のポケットに入れたんだろう」
海の顔を見ると、海は情けなさそうに口を開く。
「さあ、分からへんわ。俺、落ちてすぐに気絶してもうたみたいやし。この紙がポケットに入っとったことやって、春名が気づいたぐらいやし」
「春名が? どうして」
空が春名を見ると、春名はベッド脇の棚の上に置いてあった、海のブレザーを顎で示した。
「そのブレザーのポケットから落ちかけてたんだよ。この紙」
「ふーん。……そういえば、紫藤はどうやってここに運ばれてきたんだ」
今更ながらにそこに思い至って、空は海に尋ねる。海に顔を向けて聞いたのだが、答えを返したのは春名だった。
「先生と坂木先輩が見つけて運んだらしい」
「なんで、知ってるんだよ」
訝って空が問うと、春名は何でもないことの様に言う。
「保険医に聞いたんだよ。気になったから」
「へぇ。でもさっき紫藤は近くに人はいなかったて言わなかったか」
「それはアレや。俺の背後っていうか、落ちる前に近くに人の姿が見えへんかったってだけで……」
「落ちてきた一階には、ちょうど職員室から出てきた先生と、坂木先輩がいたんだ。職員室と階段は近いだろ」
「ああそうか。なるほどな」
「でも、……あてが外れたな」
納得した空の耳に、春名の呟く声が聞こえた。良く聞き取れなかった空はもう一度聞き返す。
「え? なんて言った今」
「いや、別に」
顎に手を当てて何かを考えているような春名は、そっけない返事を返す。だが、海が春名の思考を遮るように言った。
「あてが外れた、って言うたよな。今」
「……」
「何だよそれ、どういう意味だよ」
空は座っていたベッドから身を乗り出して、春名に尋ねる。春名は少し言い辛そうな顔をしたが、二人の視線を受けて、口を開くことにしたようだ。
「……犯人は同じなんじゃないかと思ってたんだよ。教室の事件とウサギの事件」
「まあ、ありえることではあるわな。でも、なんでそれが、あてが外れたっていう言葉になるんや」
海の疑問はもっともだと空は思った。春名の言い分では、まるで今回の件で二つの事件が、別の犯人のせいかもしれないといっているようではないか。
「はっきりとは分からないけど。今回の事件の犯人は坂木先輩じゃないかと思っていたんだ」
いきなり核心を突いた春名の言葉に、空は声をあげる。
「……なんでさ。生徒会長だろ。ありえないし」
海も空に同意するように頷く。
「そうや。あの人めっちゃ人望あるやん。そんな人が、教室あらしたり、ウサギ殺したりせえへんやろ。もし見つかったら今の地位全てパアやん」
「ああ、それはそうなんだけど。あの人は明らかにおかしな態度を取っていたんだ」
「おかしな態度ってなんだよ」
空が尋ねると、春名は少し疲れたように溜息を吐いた。先程、発作を起こした春名を思い出し、空は少し心配になる。まだ、本調子ではないはずだ。余り話しをさせすぎるのも、良くないかもしれない。だが、春名は顔を上げて、また話し始めた。
「……まず、最初の、教室にペンキを撒かれた方だけど。あの時、先輩が現れたのを覚えているよな」
「ああ、誰も入ろうとしなかった教室に一人でズカズカ踏み込んで行ったよな。でもそれがそんなおかしな行動って言えるのか」
空はその時の生徒会長の行動を思い起こしながら口を開く。あの時生徒会長は、臆することなく、床や机が真っ赤に汚れた教室に足を踏み入れた。
「違う。その後だよ。あの人が見つけたのが何か覚えているか」
春名は空と海を交互に見比べて問う。空は春名に頷いた。
「鍵だろう。確か教室の真ん中辺りで、拾ってた」
「そう。問題は鍵なんだ。あの時何であんな場所に鍵が落ちていたか、疑問に思わなかったか」
「確かに思うたわ。その前の日。春名がなくしたって言うとったから、何となく教室の床やら隅やらに目ぇ光らしとったけど、あんなところに鍵なんて落ちてへんかったもんな」
「でも、あれは犯人が置いていったんだろう」
空が言うと、春名は空を見た。
「何でそう思った」
春名が空にそう尋ねた。
空はだんだんイライラしてきた。もっとこうズバッと確信に迫った喋り方をしてくれないだろうか。春名は空や海に考えを出させようとしているのかもしれないが、空にはそれがとてももどかしい。
だが、海は春名のもったいぶった話し方を余り気にした様子はない。考えるような顔をしながら、空より先に口を開いた。
「あ、生徒会長が言い出したんや。鍵は犯人が落としたか置いていったかしたんやないかって」
空は覚えていなかったが、春名が肯定したので、黙っておくことにする。
「そう、でももしそうだとすると、犯人はどうやって教室の鍵をかけたんだと思う?」
そう問われて、空は思いついたことを口にする。
「予備の鍵を使ったとか?」
「ああ、それしかないやろうな」
空の言葉に海も同意するが、春名は首を横に振った。
「いや、それは無理だ。予備の鍵は僕がその日用務員さんに返してから、用務員さんがずっと肌身離さず持っていたんだ。事件は用務員さんが教室の鍵を閉めてから後のことで、予備の鍵を犯人は使う事が出来なかった」
空と海は顔を見合わせる。空は覚えていた。春名が教室にペンキが撒かれた日に、鍵をやけに気にしていたことを。きっと春名はあの時すでに、何かに気づいていたに違いない。
「教室に鍵をかけるには、教室の外に出て鍵をかけなければならない。でもその鍵は教室に落ちていた。犯人は、密室状態の部屋からどうやって、教室を抜け出したんだろう?」
「ああ、もうっ。訳わかんねぇ」
空が頭を抱えて喚いた。その声に顔を顰めた春名に、海が問う。
「で、結局春名は何が言いたいんや」
「坂木先輩が言った、鍵は犯人が落としたか置いていったかしたという見解には無理がある。なのに、どうして先輩はそんな事を言い出したのか。それはもう一つの可能性から目を逸らしたかったんだと思うんだ。……一度どうやって密室を完成させたかは置いといて、考えてみよう」
「分かった。でももう一つの可能性って何だ?」
空が問うと、海は椅子ごと体を揺らしながら、考え考え答えた。
「じゃあ、例えばやで。犯人は用務員さんが鍵を閉めに来るまで教室の中に隠れとって、鍵を閉められたあと、ペンキを撒いて後ろのドアから鍵を開けて外に出たんや。後ろのドアの鍵は中から開けられるやろ」
「えー、でもそれだったら、鍵閉まってないじゃん。後ろのドアは中からしか閉められないし。朝、鍵は全部閉まってたって朝倉言ってたろ。春名がしつこいくらい朝倉に確認してたから俺憶えてるぜ。それに鍵はどうなるんだよ。あそこに鍵が落ちてた理由」
「えーっと。もともと落ちとったとか。犯人が見つけて、分かりやすいとこに置いといてくれたとかー? 親切な犯人さんやな……なんちゃって」
海はそう言って舌を出した。空はそんな海に反論する。
「えー。でもさ、鍵が誰にも見つからずに落ちてたとしたら、鍵にペンキがついているだろう。あの鍵にはペンキは全然ついてなかったぜ。それにお前がさっきいったんじゃないか。前日には教室に鍵は落ちていなかったって。俺もそう思うし」
空がそう反論すると、海は顔を顰めて頭を掻いた。
「そうやんなぁ。自分でも言うててなんか変やなって思うたもん」
海がそう言ったところで、春名が口を挟んだ。
「でも、高橋が言った、鍵にペンキがついていないのはおかしいってこと、坂木先輩が言ってた二つの可能性にも当てはまると思わないか」
「なんで」
空は首を傾げた。ペンキを撒いた後に落としていれば、ついていなくても不思議はないじゃないか。
「教室の床はペンキで真っ赤になっていただろう。足跡一つ無かった。ということは、犯人はペンキを撒きながら、後退して教室のドアまで戻ったんだ。その証拠に、教室のドアの前あたりにペンキで全く汚れていない箇所があった。犯人は最後にドアの前に立って、ペンキを撒いたんだ。自分が汚れないようにしなければならないから、足元までペンキは撒けなかった。もし、ペンキを撒いているときに鍵を落としてしまったとしたら、鍵にはペンキがついているはずだ。鍵は教室の真ん中に落ちていたんだから、ペンキを全体に被っていてもおかしくない。いや、むしろそっちの方がしっくりくるな」
言われて見ればその通りである。空はしきりに感心して、春名を見る。眼鏡をかけているのはやはり伊達ではないと、空は感心した。空には眼鏡をかけている人は頭がいいという、妙な偏見がある。
「そう言われればそうやな。じゃあ、犯人が鍵をわざわざ置いていった場合は? ……あ、その場合も一緒か」
海は自問自答するように言った。空は何のことか分からず首を傾げる。
「そう、その場合も同じだ。犯人はすぐさま現場を立ち去りたいと思うだろう。長く現場にいればいるほど、人に見つかってしまう可能性が高い。僕なら、すぐに逃げ出すだろうな。でも犯人がもし、鍵をわざわざ教室の真ん中に置いていったのだとしたら、ペンキが乾くまでの間ずっと待っていたことになる。そんなリスク、犯人は犯さないだろう」
「ほー、なるほどねー。お前あったまいいな」
思わず感心して漏れた空の言葉に、嬉しそうな顔一つ見せず、春名は疲れたように溜息を吐いた。
「誰でも、少し考えれば分かる事だろう」
そう言う春名に、空は自信満々で答えた。
「分からないよ。そもそもそんな風に小難しく考えたりしないもんな。俺」
「はは。高橋らしいわ。ところで春名。それは分かったけど、もう一つの可能性ってなんや。坂木先輩が俺たちの目ぇくらましたかった、もう一つの可能性」
海が空の最も聞きたかった答えを、春名に要求した。春名は一呼吸置いてから話しだす。
「もう一つの可能性。……鍵は最初から教室には落ちていなかった」
「はあ? 何言ってるんだよ。あそこに鍵があったから、坂木先輩が拾えたんだろう」
反論を口にすると、春名は首を横に振り、静かに言葉を紡ぐ。
「そもそも、坂木先輩はあの場所で、鍵を拾ったのかな」
「何言って……」
またも反論しようとした空の言葉を遮るように、椅子ごと揺すっていた体の動きを止めて、海が興奮気味に口を開く。
「そうか。そういうことか。俺たちは教室の入り口から坂木先輩を見とった、坂木先輩は鍵を拾うときドアを背にして鍵を拾ったんや」
「だから、それがどうしたんだよ」
海が興奮している意味が全くもって理解できないでいる空は、ちっとも面白くない。幾分不機嫌な調子で言ったが、海は気づいた様子も無く話し続ける。
「だから、俺たちは見とったけど、ちゃんと見てへんかったってことや」
「だから分かんねーっつうの。俺見てたぞ、坂木先輩がドアを背に鍵を拾うところ……」
空はその時の情景を思い出して、途中で言葉を切った。何となく海の言いたいことが分かったような気がしたのだ。空が見ていたのはドアを背にしゃがみ込んだ坂木先輩であって、鍵ではない。
「坂木先輩が鍵を拾う振りをしていただけって言うことか」
「そう。坂木先輩が鍵を持っていたんだ。そして教室に入って、そこで鍵を拾う振りをする。だから、鍵にはペンキがついていなかった。もともとそこにはなかったものだから……」
「はー。なるほどなー。そういう訳か。坂木先輩がなんでその鍵を持ってたんかっていうのは、分からへんけど」
「そりゃ、犯人だからじゃねぇの。どっかで朝倉が落とした鍵を拾って、丁度いいやって」
「その可能性は高いかもしれないな。それにそう考えると密室の謎も解ける。坂木先輩が犯人と仮定するなら、坂木先輩は拾った鍵を使って教室に入りペンキを撒いたあと、教室に鍵をかけて教室を後にする。そして、何食わぬ顔で翌日教室の中で鍵を拾った風に見せかけた……」
「おお、なるほどねぇ。さすが春名。やっぱり頭良いな」
「でも、全部仮定の話しで、証拠は一つもない」
空の言葉に否定的な声を上げた春名に、空はお前が言い出したんだろうと噛み付くように言った。春名は少し苦笑しただけだ。そんな二人を見比べて、海が口を開く。
「じゃあ次。ウサギ小屋の方はどうやねん」
「春名はそれも坂木先輩が犯人だと思ってたんだよな」
二人に頷き、春名は言った。
「ああ。高田先生から預かった生徒手帳が無いことに気づいたのは、委員会が終わったすぐ後だったんだ」
言葉を切った春名に空が先を促すと、春名は脱いでいたブレザーを手に取り広げて見せた。
「生徒手帳は右側のポケットに入れていたんだ。まず落とすはずはないのに、委員会が終わってから無いことに気づいた。教室と廊下を一応見て回ったけど見つけることは出来なかった」
「でもどうしてそこで坂木先輩が出るんだ」
空がそう聞くと、春名は空を手招きする。何だと訝しく思いながらも空は素直にベッドからおり、春名の座るベッドの脇に立つ。
そんな空に春名は普段滅多にしないような行動を取った。春名は空の腕をとって引き寄せると、空の耳に口を寄せたのだ。驚いて固まる空に、春名は囁く。息がかかってこそばゆい。そんな二人を海は面白そうに眺めている。
「左のポケット見てみろよ」
春名はそう言って空を離した。空は囁かれた右耳を擦りながらも、左手で左ポケットを探る。何も入れていなかったはずだが、指に何かが当たった。それを取り出してみる。
それは四つに折られた紙。少し厚くて硬い紙を広げる。その紙には小さな赤ちゃんが三人写っていた。
「何で写真がポケットに入ってるんだよ」
驚いた空に、春名は少し口元を緩めて言った。
「僕のポケットに入ってたんだ。生徒手帳からそれだけ抜け落ちたんだろうな」
「ああ、そうか……って、そうじゃなくてっ。俺が言いたいのはどうやってこの写真がこのポケットに入ってたかってことで……」
「分からへんかったんか。高橋」
海がニヤニヤしながらそう聞いてくるが、空にはいつの間にこの写真がポケットに入ったか分からない。
「だから何でだよ」
考えても分からないなら聞くまでだと空は開き直る。春名は海を見て言った。
「お前は気づいただろう」
「ああ。春名が高橋の腕を取って耳に口を寄せた時、左手で高橋のブレザーのポケットにその写真を入れとった。それが写真やっていうのは分からんかったけど」
空は呆然と春名を見やった。春名は珍しくしてやったりと言うような顔をしている。空は全く気づかなかった。春名に耳元で囁かれたことに気を取られていたのだ。
「今のと同じようなことをされたんだよ。あの日坂木先輩に」
「え? ポケットに何か入れられたのか」
驚いて尋ねると、すかさず海がつっこみを入れる。
「ちゃうやろ。春名の場合は抜かれたんやろ。ポケットから生徒手帳を」
「ああ、なる程な。じゃあ、同じじゃなくて逆って言えよ」
少し恥ずかしくなって空が春名にあたると、春名は肩を竦めてみせた。
「同じっていうのは、状況をさして言ったんだけど……」
ウサギ殺しのあった前日の委員会で、春名は坂木に肩を組まれ、事件を調べているだろうと聞かれたことを話した。その時にポケットから空の生徒手帳は盗まれたのではないかと春名は言うのだ。あの日生徒手帳を手渡され、委員会が終わるまでの間、春名が接触した人間は坂木だけなのだ。
「まあ確かにそれで、高橋の生徒手帳が春名のポケットからウサギ小屋まで移動した理由の説明はつくな」
「でも全て憶測で、証拠はない」
まあ、確かにと空は頷いた。空はまだ手にしていた写真を見て、ふと何か忘れている事があったような気がした。少し考えてすぐに思い出す。
「ああ、孤児院」
空はつい大声を上げた。保険医がいたら叱られていたところだ。怪訝そうな春名とは違い、空の大声で海は椅子から立ち上がった。
「ほんまや。緑園。忘れてた」
「何時からだっけ」
空と海は今日自分達が少しの間過ごした孤児院を、訪問することになっていた。春名の発作や、海が階段から落ちたことなどが重なって、ついさっきまですっかり頭から抜け落ちていた。
「まだ、大丈夫や。二時半の約束やから……今からすぐ出れば間に合うわ」
海は壁に掛けてある時計を確認して、空に言った。空も頷く。時計の針は一時半を少し回っていた。
「どこか行く予定でもあるのか」
一人話しが見えなかったのだろう。春名がそう聞いてきた。
春名に聞かれて、空と海は顔を見合わせる。大事なことを忘れていたことに愕然として、春名がいるのに思い切り孤児院などと大声を出してしまった。なんと言い繕うべきか。空と海はどうしようかと、目を見交わす。そんな二人をなんと思ったのか、春名は二人を促すように言った。
「緑園ならここから二駅先だから、今からならぎりぎりだろう。すぐに出た方がいい。僕も今から病院へ行かなきゃならないから」
「ああ、ありがとう。行こう。紫藤」
そう言って海を促して空は保健室を走り出た。どうして春名が緑園を知っていたのかという疑問が頭を過ぎったのは、二人が大急ぎで電車に駆け込んだ後だった。