第七章 動き出した犯人
その日も雨が降っていた。
コーチの葬式から早くも数日が経過していた。事故後、ようやく自力で起き上がれるようになった彼は、半身を枕に預け、窓の外を見ていた。風に煽られた雨が窓にあたる。窓に張り付いていた雨粒をまきこみながら、つたいおちていく。
無言で窓を見ていた彼の耳に、ノックの音が届いた。
彼は窓から目を離し、ドアを見る。返事を待たずに、ドアが開いた。開いたドアから病室へ入ってきたのは、彼の主治医の女医と両親だった。
『あら、起きていたの』
母親が笑顔で聞いた。だがその表情はどこか硬い。無理に笑顔を作っているのが、彼にはよく分かった。
女医が彼のベッドの脇で、足を止めた。彼を見下ろし、口を開く。
『今からあなたにお話があるのよ。聞いてくれるかしら』
女医の声は柔らかく病室に響いた。両親は彼に近づくのを恐れるかのように、ベッドから離れた場所で、彼と女医を見つめていた。彼はこの時、何となく女医が何を言おうとしているのか、分かっていた。
……そう。分かっていたのだ。
彼は頷きもせず、女医を見上げた。女医の顔が少しぼやけて見えるのは、事故の後遺症で視力が落ちたせいだ。
『あなたの足のことなんだけど』
女医はそういいながら、彼の足に視線を送る。彼も自分の足を見た。骨が折れた足はギブスで固められている。
『……治らないんですか』
彼が小さな声で聞いた。女医ははじかれたように彼を見て、首を横に振った。
『いいえ、治るわ。日常生活に支障が出ない程度には』
それを聞いて彼は目を伏せた。女医の言葉は、彼にとって死の宣告と同等の意味を持っていた。それでも彼は少しの希望を胸に、この言葉を口にした。
『じゃあ、スケートは?』
彼はしっかりと顔をあげ、女医の顔を見た。相変わらずぼやけて見える顔が、悲しそうに歪んだのが分かった。しばらく女医は赤く塗った唇を開いたり閉じたりしていたが、意を決したように声を出した。
『あなたには、もう……』
女医の言葉は、彼の母親の悲痛な叫びによって遮られた。
『やめて。お願い、もうやめて。これ以上この子を苦しめないで』
彼は絶望を胸に母を見た。
泣き崩れた母を父が支える。
彼は無意識に胸を手で押さえた。母の言葉が物語っていた。彼にはもう、スケートをする事が出来ないのだと……。
『……この子には、スケートしかないのに』
鳴き声の中、そう呟くように漏れた、母の言葉。
ああ、ダメだ。
自分はもう何の価値も無い子どもになり下がってしまった。
両親は失望したのだ。
自分は両親の自慢の息子で、居続けなければならなかったのに……
不意に胸が苦しくなった。呼吸が激しくなり、彼は目を開けた。最近いつも繰り返し、あの時の夢を見る。そして決まって発作を起こすのだ。
子どもの頃治ったはずの喘息は、事故後再発した。
彼はぜえぜえと胸を上下させ、ベッドの傍らに置いてある棚に手を伸ばした。小さな棚の上に置いてあった目覚まし時計に手が当たる。音を立てて目覚まし時計が床に転がった。
彼は目覚まし時計の置いてあった、棚の引き出しを開け、手で中を探る。
携帯用吸入器を手にし、荒い息がひっきりなしに出る口元に当てた。音を立てて、吸入薬を吸い込む。
暗い室内に、しばらく吸入器の音が響いた。
朝が来た。
カーテン越しに明るい光が入ってくる。彼はベッドから起き上がり、二階にある自室を出た。夜明け前におきた発作は随分前におさまっていた。最近夜明け前に必ずと言っていいほど発作がおき、彼は寝不足の日々を送っていた。
彼は部屋を出て、階段の横を通り過ぎ、一つ目のドアを開けた。そこは脱衣所で、鏡がついた洗面台がある。そこに彼の歯ブラシが置いてあった。彼は歯を磨き終えると顔を洗う。彼の疲れたような顔が、鏡に映っていた。その顔が少しぼやけて見えるのは、彼が眼鏡をかけていないからだ。
部屋に戻り、制服に着替えると階下へ下りた。眼鏡をかけていないため視界はぼやけているが、慣れた家ではさほど不自由さを感じない。階段をゆっくりと下りきると、ダイニングルームに入った。
広いダイニングの真ん中には白い大きなテーブルが置かれている。庭に通じる大きなガラスドアから、朝の光がさんさんと室内に入っていた。彼はドアを閉めた後、一度驚いた様に目を見開いた。
「母さん。いたの……」
ダイニングテーブルの前に座ってコーヒーを飲んでいた女性が、その声に顔を上げる。カップをテーブルの上に置いた。
彼女の前の席には、トーストの乗った皿と、サラダ。そしてオレンジジュースの入ったコップが置いてある。それら全てにラップがかけられていた。
「おはよう、光。いたのとはご挨拶ね」
母はいつも彼が起きる前に、仕事へ行っている。その母がいたことに驚いて出た言葉を、母親は聞きとがめたらしい。
「ごめん母さん。ビックリしたんだよ。どうしたの。仕事は休み?」
「そう、やっとひと段落したから二連休貰えることになったの。あら、光。あなた顔色悪いわね。また発作が起きたんじゃないの?」
近づいてきた息子を見て、母が顔を顰めた。色白の顔に無理やり笑顔を作り、春名光は言った。
「大丈夫だよ」
「大丈夫って顔じゃないわ。今日は学校お休みした方がいいんじゃない。病院へ行きましょう」
眉を寄せてそう言った母の前の席に着くと、光は首を横に振った。
「だから、大丈夫だって。病院には放課後行くから」
「ああ、今日は検診の日だったわね。今日は第三土曜日だから……学校は昼までね」
母親の言葉に光は頷いた。光の通う清秀高校は私立校で、各週休二日制をとっている。公立の高校へ行けば休みだった土曜日も、毎週第一、第三土曜日は授業があった。
「それ、早く食べてしまいなさい。お母さん車で送ってあげるわ」
母親はそう言って席を立った。服を着替えにいくのだろうか、それとも化粧をしにいくのだろうか。そんなことを考えながら、光はコップに被されたラップを取って、オレンジジュースに口をつけた。
本当は食欲などない。
しかし、母親がいる。
朝食は残せないなと、光は思った。
良く晴れた空には、雲ひとつない。高橋空は紫藤海と並んで歩きながら、学校へ向かっていた。あと少しで校門の前に着くという所で、空たちを追い越した車が校門の脇に止まった。
車のドアが開き、春名が下りてくる。運転席の人間と何か話しをした後、ドアを閉めて走り去る車を見送った。
校門へ歩みを進めようとした春名は、こちらに気づいたようだ。空は春名によっと手を上げて見せた。
「重役出勤やん。春名」
「まあな」
海がいうと、春名は眼鏡を中指で押し上げてから頷いた。三人は並んで校門を通り抜ける。
「今の車、運転してたのってもしかして、お抱え運転手とか?」
空が興味を覚えてそう聞いたのは、春名にまつわる噂の一つを思い出したからだ。春名は物凄い金持ちの家のボンボンらしい、という噂だ。
だが、空の予想を裏切る返事が春名からなされた。
「まさか、母親だよ」
「なんだ、運転手いないのか」
小声でそう言うと、春名が返事を返した。
「いるぞ、運転手。父親のだけど」
当たり前のことのようにそう言われ、空は海と顔を見合わせた。
「やっぱ、コイツんち金持ちや」
「ああ、金持ちだな」
先程よりも小声で言ったので、春名には聞えなかったらしい。
教室に入った瞬間、教室中が静まり返った。また何かあったのかと、空は訝った。その時、無言で海に袖を引かれ、空は海を見る。海は黒板の方を指で示した。
「なんじゃこりゃー」
黒板を見た瞬間、空はそう叫んでいた。耳を劈くような叫び声に、教室中の視線が空に集中した。だが、空はそんな視線に気づかず、黒板を凝視した。
『死ね』
『もう学校にくんな』
『地獄へ落ちろ』
そんな悪口雑言が、黒板全体を埋め尽くすほどに書き込まれている。そして、その言葉に囲まれるように、一人の人物の名が黒板の中央に書かれていた。
春名光と。
「誰だよ! こんなことした奴は」
空がもう一度そう怒鳴った。だが、誰も名乗り出る者はいない。空は、無意識に舌打ちして、クラスメート達を睨みつけると黒板消しを手にし、黒板に書かれた文字を消し始めた。海も一緒になって黒板に書かれた文字を消す。しばらく無言で手を動かしていた空は、不意に手を止めた。
「何だ?」
空は首を傾げた。空が気になったのは、黒板に書かれた悪口の中の一つだ。
『人殺し』
変な悪口だな。ウサギ殺しを疑っているからって普通人殺しなんて書くか? その文字は一番春名の名前に近い位置に、春名の名前とほぼ同じ大きさで書かれていた。
「人殺しか……」
不意に後ろから声が聞こえ、驚いて空は振り向いた。
「びっ、びっくりした。急に背後に立つなよ、春名」
「……」
春名は空の声が耳に入っていないかのように、黒板に見入っている。春名が見ているのは人殺しと書かれた部分だ。空はその部分を黒板消しで素早く消すと、春名を見て言った。
「気にすんなよ。春名」
「……ああ。大丈夫。こういうの慣れてるから」
空は春名の答えに、内心首を傾げた。慣れてるってどういう意味だろう。
そう思って、質問をしようとしたが、担任教師が鳴り始めたチャイムと共に教室に入ってきた為に、聞くことは出来なかった。黒板の文字は、ちょうど消し終わった所だった。
四時間目は体育の授業だ。空は今日こそ、春名を体育の授業に出させようと決意して春名の席に目をやった。春名は立ち上がって、教室のドアに向かって歩こうとしていた。その後ろから、クラスメートの男子が四、五人近づいていく。何をするつもりかと見ていると、男子の一人が春名の肩に思い切りぶつかった。誰がどう見てもわざとだ。春名は踏ん張りがきかなかったのか、机に縋りつく様に倒れた。
「うわ、こけてやんの。かっこわりい」
わざとぶつかった男子が言った。久保と仲が良い、三宅だ。三宅の横にいた久保は春名を見て、ニヤニヤと笑っている。その周りからも笑い声が上がった。
「お前ら。何やってんだよ」
つい、そう怒鳴ると、久保たちの冷たい目が空に向いた。
「別に、ちょっとぶつかっただけじゃん。それをコイツが大げさにこけたんだよ」
三宅がそう言うと、久保も頷く。
「そうそう。いっつも体育サボってる理由って、超運痴だからだったりして」
またもや久保の周囲から笑いが起こる。
「何言っとんねん、コイツ元オリンピック選手やぞ。運痴な訳ないやんか。春名がちょっと頭ええからって。妬んで、嫌がらせするなんて、みっともないで」
その声に久保たちは振り向いた。入り口に近いところにいた海が、珍しく怒った顔をしている。
「別に妬んでなんかねーよ。悪いことやった人間が、のうのうと俺たちと一緒に授業受けてることが、我慢ならねーだけ」
三宅が海を睨んだ。海も睨み返す。
「それは、ウサギが殺されたこと言ってるんか」
「それだけじゃねぇよ。教室の事件だって、コイツがやったって話しだろう」
「誰が、そんな根も葉もないこと言ったんだよ」
空が我慢できずに聞くと、久保が答えた。
「噂になってるよ。学校中でな。行こうぜ皆。授業に遅れる」
そう言うと、久保たちは教室を出て行った。後に残った空は春名に駆け寄ると、まだ床に尻餅をついたままだった春名に手を差し出す。さっきからずっと黙ったままだった春名が、顔を上げて空を見た。顔色がやけに悪い。
「大丈夫か。春名」
「いや……ダメかも知れない」
強がる声が返ってくると思っていた空は、どう返事をしていいか分からなくなった。
「どうしたんや」
海も駆け寄ってきて、春名の前にしゃがみこむ。
「顔色悪いで。保健室行くか?」
春名は首を横に振る。空は春名が、久保たちにされた仕打ちで、落ち込んでいるのかと思っていたのだが、どうやら違うようだ。春名の顔色は今や青さを通り越して白いといった方がいいだろう。呼吸もだんだんと荒くなっているようだ。肩が大きく上下している。とても苦しそうだ。春名の口から咳がこぼれた。喉からぜいぜいと苦しそうな音が鳴る。
「おまえ、喘息か?」
海が春名に聞いたが、春名は答えることも出来ずに、身体を折り曲げる様にして咳を繰り返している。
コレはかなりやばいかもしれない。空の頭の中で、そんな言葉が浮かんだ時、海がいきなり立ち上がった。
「高橋。春名の鞄開けてけて薬ないか探してくれ。俺は保健の先生呼んで来るわ」
言うなり海は走って教室を飛び出した。残された空は、春名の鞄を持ってくると、春名に確認する。
「薬って、どれ」
すると、春名が顔を上げ、震える手で鞄を掴んだ。中から何かを取り出すと、口にくわえる。
プシュっと言う音が静かな教室に響いた。春名は吸入薬を全て吸い終わり、ゆっくりと目を閉じて近くの机に寄りかかる。
しばらくすると呼吸が楽になってきたようだ。空は少しほっとして、出て行ったきり戻って来ない海のことを口にした。
「遅いな、紫藤のやつ。何やってんだ」
「……何か……あったのかな」
「え? 大丈夫なのか。喋っても」
「ああ、軽い発作だったから。それに薬吸い込んでから、もう随分たってるし」
「そうか……遅すぎるな。紫藤の奴」
空は改めて、黒板上の壁に取り付けてある時計を見た。もう授業が始まってから十五分近く経っている。
「行ってみようか。保健室」
「お前、動いても平気か」
心配して聞いたのだが、春名は案外しっかりとした調子で頷いた。
「大丈夫。もうじゅうぶん休んだから。でも、一つ頼みがあるんだ」
「何?」
春名から頼みごとをされるなんて始めてかも知れない。空は少しドキドキしながら春名の言葉を待った。
「後ろのロッカーに折りたたみ式の杖が入ってるんだ。それ取ってきてくれないか」
「は? なんでそんなもん持ってるんだ。っていうか何に使うんだよ」
「さっき三宅とぶつかった時に、古傷やられたんだ。今だって痛いんだから、この分じゃ歩けない。いいからさっさと持って来いよ。グダグダ言ってないで」
「だからなんで、そんな偉そうなんだよ。人に物を頼む時にはお願いしますって、下手に出るものだろうが、普通は」
空は春名の古傷のことを深く考える前に、春名の言い様に腹を立ててしまった。そのせいで、古傷とは何の事かと聞きそびれた。
空は春名に取ってきた折りたたみ式の杖を渡して、組み立て終わるのを待つ。そして春名に手を貸して立ち上がらせると、とりあえず保健室へと向かった。
「え? 階段から落ちたんですか」
「そうなのよ」
保健室を訪ねると海はベッドで眠っていた。
「大丈夫なんですか」
「ええ。頭にたんこぶが出来ているけどね。それより、春名君。あなた顔色悪いわね。四時間目が終わるまでここで横になっていきなさい」
保険医はそう言って、海が眠っている隣のベッドへ春名を促した。空は授業へ出る様に言われ、もう半分以上終わってしまった授業へ出るべく、体育館へ足を向けた。