第六章 うさぎと空
翌日。クラスメートの白い目を意識しながらも、空は淡々と四時間目の授業まで終えた。
昼休みに入り、にぎやかな食事タイムが始まる。仲の良い友人同士で、机をあわせて弁当を食べ始めた女子たちを尻目に、空は溜息を吐いた。いつも一緒に食事をしていた久保達とは今朝から一言も口を聞いていなかった。久保達は今も空を見ないように連れ立って教室を出て行った。
「高橋。今日弁当か?」
空が鞄から弁当を取り出したとき、海が声をかけてくれた。
「あれ? 紫藤は行かなかったのか。久保たちと」
隣に立った海を見上げて聞くと、海は首を縦に振る。
「ああ、まあな。それより今日俺弁当ないねん。パン買いに行くからついて来てや」
お願いと付け加えられて、空はしょうがないなと弁当を持って立ち上がる。だが内心少しほっとしていた。一人で弁当を食べるのは寂しすぎる。ただでさえ友人達に無視されて、気分がへこんでいるのだ。空は先を歩く海の後ろについて歩き始めた。だが教室を出る時にふと気になって足を止めた。教卓の前にまだ春名がいたのだ。
空はドアの縁に手をかけて、身を乗り出すように春名に声をかけた。
「春名。一緒に飯食おうぜ」
つい一人でいる春名を見ていられなくて声をかけたのだ。だが、どうせ春名は断るだろうと、空は思った。いつも空が春名を気にかけると、春名は余計なお世話だというような態度を取る。しかし予想に反して、春名は頷くと空の方へやってきた。
「あれ、一緒に来るの?」
つい驚いてそう聞いてしまった空に、春名は眉を寄せる。
「お前が誘ったんだろう」
「ああ、でも、いつもだったら断るじゃないか」
「まあな」
そこまで言って春名は声を落とした。
「調べるって言ってただろう。ウサギ殺し」
そこで、空は納得した。春名はその話をしたかったのかと。
「高橋、春名。早よ来いや。俺パン買いにいかなあかんねん。早よ行かな売り切れてまうやん」
教室のドアの横で立ち止まって話をしていた空たちに、廊下で待っていた海が痺れを切らしたように声をかけた。
空たちは今にも走り出しそうな勢いの海に追いつくべく歩き出した。
今日は本当に暖かい。青空に輝く太陽がとてもまぶしい。緩やかに吹く風には少しまだ冷たさが残っているが、日が経つにつれこの風も熱を持っていくのだろう。
教室を出た空たち三人は、購買部に寄ってパンを買った後、裏庭に出ていた。
春名が人目に付きにくい場所が良いと言ったためだ。校舎の壁に背をつけるようにして三人並んで座り、裏庭に設けられた花壇を見ながら食事をする。花壇にはオレンジ色の花がたくさん咲いている。この花の名前を空は知っていた。マリーゴールドだ。小学生の時、この花をペン代わりにして絵を描く授業があったなと思い出していた。
「まず、何から調べるんや?」
紙パックのジュースを飲んだ後に、口を開いたのは海だった。言った後、海は三つめのパンを袋から取り出し、口をつける。空はからになった弁当箱を包みながら、言った。
「順番にいったら教室の事件からだよな」
当たり前のことを言ったつもりだったが、空の言葉を聞いた春名が驚いた様に口を開く。
「教室の事件まで調べるつもりか」
「え? 何でだよ。あったりまえじゃん」
「でも、あれは疑われてへんやん」
口を出した海に空は首を振る。
「春名が疑われてる」
春名を見て言うと、春名は眼鏡の奥の目を見張る。海は始めて聞いたというように、驚きの声を上げた。
「ええ、そうなん? 俺聞いてへんかった」
「俺も、コイツから聞いたんだけど。先生達の態度から言ってもそんな感じだった」
空は親指を春名に向けて言いながら、昨日校長室にいた教師達の態度を、思い出していた。特に担任の黒田はあからさまに空や春名を犯人扱いしていた。
「へえ、だったらそっちも調べなあかんな」
納得した様に頷いた海に、空も頷く。だが、春名は慌てたように声を上げた。
「何でだよ。別にいいよ、そっちは」
「よくない! あれのせいで俺、体操服ダメにされたんだぜ。おかげであんなみっともない格好で体育しなきゃならないんだからな。犯人見つけて、とっちめてやらなきゃ」
拳を握り締めて力説した空に、海が脱力した声を出す。
「……春名のためやなくて、そっちかいな」
その言葉を聞いた空はきょとんとして、海と苦笑している春名を交互に見る。
「違う、両方だよ。一石二鳥だろ」
「……一石二鳥ね。でもまず優先させるべきは、ウサギの方だろう」
春名が言うと、空が何でと首を傾げる。
「教室の事件で僕を疑っているのは教師達だけだ。でも証拠がない。けど、ウサギの事件ではお前の生徒手帳っていう立派な証拠がある。まあ、僕の証言のせいで、うやむやになっているけどな。それが無かったら確実にお前は無実の罪を着せられてた」
空はその言葉を聞いて顔を引きつらせる。
「まあ、確かに今から調べるんやったら、ウサギ小屋の方から調べる方が楽かもな。昨日のことやし、証拠になるもんがまだ残ってるかもしれへん」
海の言葉に、空は手をついて立ち上がる。掌を叩いて手についた砂を払うと、春名と海を振りかえった。
「よーし。飯も食い終わったし、聞き込み調査に行こうぜ」
空の言葉に不敵に笑った海は、ゴミの入った袋を手のひらで丸めると、空を見上げた。
「よっしゃ、それやったら久保には俺が聞くわ。お前と春名は飯田にでも頼んでウサギ小屋に入れてもらえや」
「ええ? 俺ウサギ小屋はちょっと……」
さっきまで威勢の良かった空の声が急に小さくなる。
「ウサギが殺された小屋が怖いのか」
からかう口調の春名を、空は睨んで否定した。
「誰が怖いっていうんだよ。失礼な奴だな。別に怖いわけじゃないよ」
「じゃあ、決まりだな」
あっさりそう言われて、空は二の句が告げなかった。
「ところで、なんで飯田なんだ?」
隣をゆっくりと歩く春名に、空は歩調を合わせながら聞いた。空たちは今、教室へ向かっていた。海に言われて、飯田を探しているのだ。別行動の海は久保たちがいるはずの、食堂へ向かっていた。
「飯田も生物部だろう。確か……」
「そうなのか? 紫藤の奴なんでそんなこと知ってたんだろう」
「さあな」
四階に上がって、教室へ向かうために角を曲がった時、ちょうど教室を出てくる飯田と目があった。朝倉も一緒だ。
「あ、春名君」
この間春名にされた仕打ちを覚えていないのか、朝倉の春名を呼ぶ声は甘い。語尾にハートマークでもついていそうだ。
「私達これから、ウサギ小屋見に行くんだけど、一緒にいかない」
朝倉は春名に駆け寄ってくると、笑顔で春名を見上げて言った。空は思わず、春名を見る。こちらから頼む必要が無くなった。朝倉の横に来た飯田は、顔をしかめて、朝倉の袖を引く。
「ちょっと、有紀ちゃん」
「いいでしょ、リンコちゃん。春名君誘っても。春名君なら何か分かるかもしれないし」
朝倉が、飯田を振り返る。飯田は硬い表情のまま、春名に目を向ける。春名はにこりともせず、飯田を見返した。そんな春名と飯田をなんとなく不審に思いながら、空は飯田に言った。
「なあ、飯田。俺も見てみたいんだけど。ダメかな。俺が疑われてるの飯田も知っているだろう。無実を証明する為にも見てみたいんだ、頼むよ」
そう言って空は飯田の前で手を合わせる。飯田は掴んでいた朝倉の袖を離すと、溜息を吐いて頷いた。
「いいわ。行きましょう」
先ほど上ってきた階段をまた下り、四人は靴を履き替えウサギ小屋に向かう。昼休憩は残り二十分を切っていた。校門の脇を通り過ぎ、新校舎とテニスコートの間にある道を進む。
しばらくして飼育小屋を囲っている背の低いフェンスが見えた。フェンスの扉には鍵がかかっていたが、鍵は飯田が持っていた。
「生物部は皆持ってるの? 鍵」
空が聞くと飯田は鍵をあけながら首を横に振った。普段から大人しい飯田だが、やはりウサギが殺されたことがショックだったのだろう。顔色が悪く、いつも会話の端々に見せる柔らかい笑顔が今は無い。
「鍵は三つあって、部長と、週番の人が持つことになっているの」
「週番?」
「ええ、ウサギと鶏の係りとヤギの係りで分かれているの。私はヤギの係りだからウサギ小屋の鍵は持っていないの」
「じゃあ、中は見られない?」
空の問いに飯田はまた首を振る。肩に垂らした髪が揺れた。
「小屋の中は外からでも十分見えるわ。それに今鍵は壊れているから、中に入りたいなら入る事も出来る」
そう言った飯田を先頭に、飼育小屋のスペースへと入っていく。そのスペースには長年風雨に耐えてきたせいか、変色した飼育小屋があり、その小屋の前は結構な広さの空き地になっている。たまに動物達を小屋から出し、ここで運動させるのだという。小屋の周りがフェンスで囲まれているのはそのためらしい。
空は一通り辺りを眺めたあと、小屋に目を向けた。小屋の中はコンクリートの壁で三つに仕切られている。正面にはコンクリートの壁はなく、フェンスで仕切られていた。飯田の言った通り、中に入るまでも無く、外から中の様子が良く見える。
小屋の一番右端にヤギが一匹入っており、その隣には鶏が数羽動き回っている。そして一番左端が、ウサギ小屋だったのだろう。中にウサギはいなかったが、小屋の床が赤黒く染まっている。春名と朝倉はその小屋の前まで近づいていった。それを空と飯田は後ろで見守る。
「ひどいな」
春名が呟くように言った声が聞こえた。朝倉が頷いた。
「六匹いたウサギが全滅だなんて……とっても可愛かったのよ。ウサギ」
涙ぐむような声が朝倉の口から漏れた。しばらく無言だった。誰も何も言わない。学校中にウサギ小屋の事件は知れているはずなのに、周りには野次馬はいない。皆余り関心が無いのだろうか。それとも休憩時間が残り少ないからなのか。そんなことを空が考えていた時だった。春名が振り返り、飯田に聞いた。
「飯田、君は見たのか? ウサギが殺されているところ」
飯田は頷いて、春名たちの方へ歩み寄る。空はそれを見送った。
「見たわ。週番だったから。昨日の朝、久保君と一緒にここに来て見つけたのよ。ウサギの死体」
飯田はウサギ小屋を仕切るフェンスに手をかけ、握り締める。そんな飯田を悲しげに朝倉が見る。
「リンコちゃん……」
「高橋の生徒手帳はどこに落ちていた?」
春名の声に飯田はフェンスから手を離し、指で小屋の真ん中辺りを指し示した。
「あの辺り。見つけたときはビックリしたわ。高橋君の生徒手帳が、こんなところにあるなんてって」
そう言って飯田は空を振り返る。つられて朝倉と春名も振り返った。
「高橋、お前もこっち来いよ。見ないと何のために来たのか分からないだろう」
空は顔を顰めた。だが、少しでも中を確認した方がいいだろうと判断し、足を小屋の方へ向ける。本当はこんな所、近づきたくなどないのだが。
空はゆっくりと小屋に近づき、朝倉と春名の間に立った。
その瞬間。
「ハ、ハックション。ハ、ハ、ハックション」
空は大きなクシャミを立て続けに繰り返し始めた。コレでは見るどころではない。
「だ、ダメだ……、ハックシュ。やっぱ、無理」
「……高橋。お前、もしかして動物アレルギーなのか」
空は二三度首を縦に振りながら、クシャミを繰り返す。
春名は呆れたように溜息を吐くと、空の腕を掴んで歩き出した。空はその動きにあわせて後ろ向きに歩くことになる。何度か転びそうになりながら、空は春名に連れられ、小屋を囲うフェンスの入り口をくぐった。そこからしばらく歩いてようやく立ち止まる。
「お、おい。ちょっと何で……っクシュ」
「アレルギーがあるなら先にそう言っとけ」
春名に睨まれて、空はうなだれる。
「……悪い」
「でも、コレで分かったな、久保。コイツが犯人じゃないって」
春名は空にではなく、その背後にそう呼びかけた。驚いて振り返った先に、海と、海に腕を掴まれやってきたらしい久保がいた。久保は空を見つめたまま何も言わない。
「あんな状態じゃ、ウサギを殺すなんて無理だ。見てたんだろう。久保。コイツがクシャミを繰り返しているところ」
春名にそう言われ、久保は俯けていた顔をあげた。今日一度も合わなかった目を合わせて、久保は空に言う。
「……そうだな。あんな状態じゃ、無理だ」
「ホンマにな。ここまで聞えてたで、高橋の大きなクシャミ」
「アレルギーなんだ、しょうがないだろ」
「でも、コレで分かったわ。高橋が小動物苦手って言うた意味」
空は海の言葉に頷いた。やっとクシャミも収まってきた。
「見る分にはいいんだけど、半径一メートル以内に来るとクシャミが止まらなくてさ。触ったら蕁麻疹も出る。あーなんか痒くなってきた」
そう言って、空は制服の上から腕を掻く。
「……だったら、始からそう言えばよかったんじゃない? そうすれば高橋、犯人から除外されてたでしょ」
もっともな言葉は、飯田と共に歩いてきた朝倉から発せられたものだ。
空はその言葉に、一瞬動きを止めた。そう言われれば、そうかもしれない。全く考え付かなかったが。
「ほんまやな」
海が同意の言葉を示した時、久保は海につかまれていた腕を振って、海から逃れると、地面に膝をつく。そして土下座の格好をした。
「悪かった高橋。疑ったりして。この通り」
それに慌てたのは空だ。空は久保に走り寄ると片膝をつき、久保の肩に手を添えた。
「やめろよ。あんな所に生徒手帳が落ちてたら、誰だって俺が犯人だと思うよ。お前は悪くないって。な、だから顔上げろよ」
久保はゆっくりと顔を上げる。空が笑顔を向けると、久保も弱々しい笑顔を作る。
すると、隣で手を叩く音が聞えてきた。見上げると、海がなぜか拍手していた。
「おお。友情復活やな」
その言葉に苦笑して、空は久保に手を貸しながら立ち上がる。コレで万事解決とは行かなくても、少なくとも自分の疑いは晴れた。幾分ほっとした空だが、立ち上がった久保が放った言葉に愕然とした。
「高橋が犯人じゃないとしたら、一番怪しいのは高橋の生徒手帳を持っていた春名だな」
久保が睨む先にある春名の顔は、至って冷静だ。春名の頷きにあわせて、眼鏡が太陽の光を反射して光る。
「そうだな。そう言うことになるな」
まるで人事の様に春名はそう口にする。久保の言葉に真っ先に反論したのは、朝倉だった。
「ちょっと久保。変なこと言わないでよ。春名君が、そんなことするわけ無いでしょ」
だが、そんな朝倉に久保は冷笑を返した。
「でも、考えても見ろよ。コイツ、体育の授業サボってても教師に何も言われないんだぜ。教室の事件だって疑われているのに、学校側はなにも春名に処分を下してない。今回の事件だって、トロ吉やカメ子が殺されたっていうのに、先生達は犯人を捜そうともしない。警察にも通報しなかったんだ。俺達がどれだけ言ってもな! 先生達はお前に気を使って、何もしないんじゃないのか。おまえはいつも特別扱いされてるからな」
久保の言葉に、誰も何も言わなかった。
ただ無言で全員の目が春名に向いた。