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第四章 疑惑

 その当時、とても大きく見えたスケートリンク場に、彼は両親に連れられてやってきた。親戚の家に行き、自分が両親の本当の子でないと知って以来、彼はずっと塞ぎ込んだままだった。そんな彼を心配して、両親は気晴らしになればと、家の近所にあるスケートリンクへ彼をつれて来た。

 まだ時間が早かったせいか、リンクの中にいたのは少女一人だけだった。その少女は妖精を彷彿とさせるような衣装に身を包み、リンクの中を軽やかに滑っていた。

 その姿を目にした彼はしばらく口も聞けずに、その少女を見つめていた。リンクの中で滑る少女は優雅で、見ているものを惹きつける。度々ジャンプをして見せる姿は、まるで本物の妖精がはしゃいでいるように見えた。

『すごいな、きれいだな』

 小さな彼を抱き上げていた父が、瞬きも忘れるほど見入っている彼にそう声をかけた。彼は頭をめぐらせ、父を仰ぎ見た。

『あのお姉ちゃんヨウセイさんなの?』

 目を輝かせて聞く彼に、父は苦笑いを返す。逡巡の後、父はこう言った。

『いいや。あの子は妖精さんじゃないよ。あの子はフィギアスケートの選手なんだ』

『フィギアスケートってなに?』

 彼の問いに、父はリンクで滑る少女を指差す。

『アレのことだよ。そうだ、興味があるならやってみないか?』

 父がいいことを思いついたと言うように、声を上げる。だがそれを、傍らで黙って聞いていた母が止めた。

『何言ってるんですか、あなた。この子は喘息持ちなんですよ。出来るわけないじゃないですか』

 諌めるように言う母に対し、父はおおらかに笑う。

『なに、大丈夫さ。この子にやる気があるなら、病気にだって負けやしないさ。それに喘息の発作が起こるのは精神的部分が大きいと医者も言っていただろう』

『でも……』

 まだ渋る母を置いて、父は抱いていた彼をおろし、目線を合わせるようにしゃがんだ。

『どうだい、やってみるかい』

 彼は父の言葉に、首を大きく縦に振って答えた。

『僕やってみたい。やらせて、お父さん』

 これが自分の、最初で最後のわがままだったのかもしれない。

 彼はそう考えた。小さな自分とまだ若い両親の近くに彼は立っていた。コレは夢だ。初めて自分がフィギアスケートに出会った頃の夢。あの時父が言ったとおり、フィギアスケートにのめり込むうちに、喘息の発作は自然と出なくなった。

 だが彼にとって一番嬉しかったのは、フィギアスケートの試合に、いつも両親そろって応援に来てくれることだった。どんなに小さな試合でも、忙しい仕事の合間を縫って、彼の両親は見に来てくれた。

 そして大会に勝つと両親は惜しみない賞賛を与えてくれるのだ。

 彼は次第にこう思う様になっていた。自分がスケートを続け、名を上げていく限り、両親は自分を見捨てはしない。自分が価値のある人間でいる限りは、親戚連中も何も言わない。両親が自分を引き取ってよかったと思わせるような人間で、居続けなければならないと。彼は堅く心に誓ったのだ。

 それなのに……。自分は両親を失望させた。何の価値も無い人間に成り下がった。両親はいつも辛そうに自分を見る。彼は心密かに怯えていた。いつ、両親が自分を捨てるのだろうかと。

 不意に辺りが暗くなる。暗闇の中に立つ自分。コレは今の自分の心の中なのだろうか。彼はそう思うのだった。




 教室中に赤いペンキがぶちまけられてから五日がたった。翌日の土曜日には教室のペンキを落とす作業が業者によって行われ、休日明けの月曜日には教室はいつもと同じ姿を取り戻していた。

 五日間で分かったことといえば、ばら撒かれたペンキが隣の空き教室に置いてあったものだったということくらいである。そのペンキは、数日前に演劇部の舞台セット用に購入されたものだったらしい。犯人はそのペンキを、空たちの教室にばら撒いたのだ。

 教室の後ろには小さなロッカーがついていて、殆どの生徒が机の中ではなくロッカーに持ち物を入れていた。それが幸いし、個人の持ち物にはさほど被害が及ばずにすんでいた。だが中にはその被害にあったものもいたわけで、その中に高橋空の名もあった。

「あームカつく。何だってこんな目にあうんだ」

 空は大きめの体操服に身を包んでいる。先ほどまで六時間目の体育の授業を受けていたのだ。たまたまあの日、体操服の入った袋を机の横にかけていたため体操服が被害にあった。もうその体操服は使い物にならない。注文している体操服が届くまでと、学校から借りた体操服は、小柄な空のサイズより一回り大きいものだった。

 気を抜くとずり落ちてくる体操服を早く脱ぎたくて、空は体育の授業が終わると走って更衣室に来た。更衣室の中はいつも汗臭い。さっさと着替えて出るに限る。

「まあ、災難やったけど。お前が教室に忘れんかったら、こんな目にあわんかったんちゃうか? 半分は自業自得やん」

 からかう様に隣に立った海が言う。さっさと着替え終わった空は、着替え始めたばかりの海を見て唸る。

「うう。でも、あんなことになるなんて思わねーじゃん。普通」

「まあ。そうやな、一番悪いんは教室をあんなにした犯人やし。犯人誰かもまだ分からへんし」

「そうだよ、警察に届ければよかったんだよ。そしたらさっさと犯人捕まえてくれたかもしれないのにさ」

「まあ、アレやろ。多分犯人は生徒やし、大事おおごとにしたら来年の受験人数にも響くかもしれへん。学校は保守的やもんな」

「……あー。犯人わかんねーままうやむやになるんだろうな。悔しすぎ」

 空は乱暴に頭を掻く。着替えを終えた海は話を逸らそうとしたのか、別の事を口にする。

「そういえば、またさぼっとったな。春名」

 その言葉に空も頷く。空も気づいていた。春名がいつも体育の授業に姿を見せないことに。

 たまに姿を見せても最初のストレッチだけして、その後はいつの間にか姿を消すのだ。クラスでもそれは話題になっていて、こんな噂もあるくらいだ。『春名は不治の病で、運動は出来ない』とか、『授業をサボっても何も言われないのは、親が大金持ちで、学校に多額の寄付をしている為だ』とかそういった内容で、どれも真実味は薄い。

 本人に確かめるのが一番手っ取り早いのだが、それを聞く雰囲気が春名には無く、誰も真実は知らなかった。

 二人は連れ立って更衣室を後にして、教室までの階段を上がる。今日はもう授業は無く、後は終礼をして終わりだ。

 教室のドアを開けると、予想通り春名は教卓前の自分の席に座っていた。教室にはまだ春名しかいない。空と海は走って更衣室まで行ったので、教室まで戻るのも一番早かったらしい。

「春名。またサボっただろう。体育」

 空が大声を出した。春名は戸口に立つ空たちを振り向く。

「……お前らに迷惑はかけてない」

「誰もそんなこと言ってねぇだろ。お前入学してから一回もきちんと授業受けてないじゃないか、単位取れなかったら留年だろ」

「……心配してくれてるのか」

 意地悪な顔をして、春名が聞いた。空は頭に血が上るのを自覚する。

「だ、だ、誰がお前なんか心配するかー」

 怒鳴った後に、廊下からざわざわと多数の人が近づいてくる気配を感じた。空は口を閉ざす。着替え終えたクラスメート達が戻ってきたようだ。空と海はそれぞれ自分の席に座ることにした。


 終礼も終わり、掃除タイムに突入した教室では箒を片手にした空が、イライラと床を掃いていた。終礼前に春名と言い争いしたことがまだ尾を引いているのだ。人が心配してやったのに、言いたいこと言いやがって、結局体育をサボる理由も聞けずじまいだったじゃないか。と、空はさらにイライラをつのらせる。

 そして空はふと、掃いて集めたゴミが結構溜まったことに気づいた。気分を変える様に、塵取りを持っている女生徒に声をかけた。

「飯田。こっちも頼む」

「あ、うん」

 空に呼ばれて飯田は廊下で集めたゴミをゴミ箱に捨てると、空の近くまで寄って来た。小柄な空よりももっと小柄な飯田は、大人しい少女だ。空が彼女の名前をフルネームで覚えられたのは、つい最近だった。

 飯田はゴミの前にしゃがみ込むと、ゴミを入れやすい位置に塵取りを持ってくる。その中に空はゴミを入れた。

 一通り塵取りにゴミを入れた後、立ち上がった飯田に、空は声をかける。

「ありがとう、飯田」

「え? ああ、どう致しまして」

 最初なぜ礼を言われたのか分からなかったようだが、飯田はにっこりと笑ってそう言った。

 なかなか可愛い笑顔だ。

 ゴミをゴミ箱へ入れて、机を元の位置まで並べ終えた後。空たち掃除当番の五人は、ゴミの入った袋をだれが収集所へ持っていくかを決めるジャンケンに、挑もうとしていた。

 五人で円になり、全員で声を合わせる。

「じゃーんけーんほいっ」

 出された手は空からパーが五つ続き、最後の一人がグーを出していた。空はふと気づく。

あれ、なんで腕が六本あるんだ?

 空が浮かんだ疑問に答えを出す前に、一人グーを出した人物が声を上げた。

「あー、負けてもうた。で、これ何のジャンケンやったん?」

 悪びれもせず、そう言ったのは、無理やり割り込んでジャンケンに参加した紫藤海であった。空は頭を抱えたくなった。

「あー、紫藤。お前っていい奴だな。じゃ、お先」

 掃除当番の一人である久保がにかっと笑って海の肩を叩くと、鞄を手に教室を出て行く。

「へ? 何やねん、俺なんか良い事した」

「そりゃとっても。紫藤君ありがとう」

「じゃあ、後よろしく」

 などと口々に掃除当番のクラスメート達が帰っていく。後に残ったのは空と飯田と、ぽかんとした海だけだ。

「なあ、何やねん。皆そそくさと教室出ていったけど……」

「あの、紫藤君。言いにくいんだけど……」

「お前がジャンケンに負けたから、ゴミを持っていくことになったんだよ。お前が」

「へ? あれゴミ捨て決めるジャンケンやったんか」

 今更なに言ってんだと、空は驚いている海に言いたくなった。

「ええー、皆酷いわ。俺なんやはめられた気分」

「はめられたんじゃねぇ。自分からはまったんだろ。自業自得だからな」

「ひどいわー。うち。知らんかってんもん」

 よよよ、と海は傍らにあった机に泣き崩れるまねをした。

 それを見て、空と飯田は顔を見合わせて笑う。しばらく笑った後、飯田が言った。

「でも、紫藤君掃除当番じゃないし。ゴミ袋、私持っておりようか」

 飯田が海を見上げるようにそう申し出てくれた。

 だがそれを断ったのは海ではなく空だった。

「ああ、いいって。あれ結構重いから。それにさっきも言ったとおり、こいつの自業自得だから」

「でも」

 なおも言いつのろうとした飯田だったが、今度は海がその声を遮った。

「ああ、ホンマにええって。俺が悪いんやし、ちゃんと持ってくわ」

「あ、いた。リンコちゃん。早く帰ろうよ」

 教室の扉の方からそう声がかかって、三人が目をやると、そこにはクラス副委員長の朝倉が立っていた。明るい朝倉と大人しい飯田はなぜか仲がいい。

「あ、うん。待ってて」

 飯田はそう言うと、海にゴメンねと謝った。飯田は机の上に置いていた鞄を取ると、待っていた朝倉のもとへ駆け寄った。ドアを出る前に一度振り向いて、空を見る。

「バイバイ。高橋君」

 そう言って手を振ると、飯田は教室を出て行った。空はその背に向かって手を振り返す。その横で、海が羨ましそうな声を上げた。

「なんでバイバイ紫藤君はないんや。不公平やわ。いいなぁ高橋。モテモテで」

「なっ、バカ言ってんじゃねーよ。手を振られただけじゃねーか」

「でもー。高橋君限定やったやん」

「そ、それはそうだけど。でも深い意味はないと思うぞ」

 照れて赤くなった空に、海は人の悪い笑みを見せた。

「照れんでもええやん。可愛いなぁ。高橋君」

「いつも君つけて呼んでねぇ癖に、気持ち悪い事すんな」

「いやーん。高橋君の怒りんぼ」

 またもやなよなよと身体を動かす海は、すっかり空の反応を楽しんでいる。空はそれが分かってわざとらしく溜息を吐くと、口を縛ったゴミ袋を手にした。それを海につきつける。

「さっさと持てよ。早く帰るぞ。今日は家で電話かけるんだから」

「ああ、そやった。早よ持ってくか」

 空と海は明日訪ねる予定の施設に、空の家で電話をかける約束をしていた。

 二人がかりでゴミ袋をごみ収集所に持っていくと、そのまま校門へ向かう。その時、近くから声がかけられた。

「お、紫藤と高橋じゃん」

「久保。何? 部活じゃねーの」

 先程まで一緒に掃除をしていたクラスメートの久保は、手に菜っ葉の入ったダンボールを抱えている。

「部活だよ。俺生物部だろ。コレはウサギの餌なんだ」

 空は納得した。収集所に行く手前の角を曲がると飼育室があり、そこにはウサギと鶏、そしてなぜかヤギが飼われている。久保はその飼育をしている生物部の部員だった。

「可愛いぜー、ウサギ。なんなら見に来る?」

「あ、えっと、遠慮しとく。俺、小動物って苦手なんだ」

 嬉しげに誘ってくれた久保に悪いとは思いながら、空はそう言って断った。だが久保ばかりか、海までが意外そうな顔をする。

「ええ? 高橋って小動物系だからてっきり好きだと思ってたんだけど」

 そう久保が言えば、海もその言葉に頷く。

「おお、俺も思っとった。あれか、同属嫌悪ってやつかいな」

「なにが同属嫌悪だ、失礼な。どうせ俺は背が低いし、童顔だよ」

「あはは、拗ねんなやー高橋。誰もそこまで言ってへんやん」

「そういう所が何か小動物系なんだよね。小さい犬が吠えてる感じっていうの?」

「だから誰が子犬だっつうの。ホントお前ら失礼だよ」

 空はぷいっと顔を背け、さっさと踵を返して校門の方へ向かう。

「あ、じゃあ、久保また明日」

「おう」

 後ろでそんな会話が交わされていたが、空は無視して黙々と校門を目指した。


 空の機嫌が直ったのは、家についてからだった。空は一階から自分の部屋へ電話の子機を持ってきた。緑園の電話番号が書かれたメモを持って、子機のボタンを押す。

 夕日の光が、西向きの窓から部屋へ入ってくる。二階のこの部屋から、夕日が良く見えた。海は西向きの窓に添えるように置かれたベッドの上に座って、夕日を眺めていた。空がかかったと声を出したので、そちらを見る。

 空が繋がったと声を出さずに唇だけ動かした。

「緑園ですか? 高橋と申しますが……」

 空は普段とは違い、やけに丁寧な口調で用件を告げる。何回か受け答えをした後、空は溜息と一緒に電話を切った。

「なんやって? 緑園の人」

 空と海がいた施設は緑園という名前だった。空は施設の職員とした会話を簡潔に口にした。

「明日は忙しいらしいから、土曜だったら来ていいってさ」

「なんや、延びてもうたな。まあ、しゃあないけど」

 海ががっかりした様にそうもらす。空も気持ちは同じだった。何だか拍子抜けしたような気分でもある。緊張感が解けて一気に腹がすいてきた。

「あーなんか腹へった。紫藤。夕飯食ってくだろう? 母さんが張り切ってるんだ。可愛い男の子が来たって」

「可愛いっていうのはちょっとあれやけど、迷惑や無かったらご馳走になろうかな」

「迷惑じゃねぇよ。俺言っちゃったんだよね。もしかしたら紫藤が俺の本当の兄弟かも知れないって、だから余計張り切ってるみたいなんだ。息子がもう一人増えたみたいでうれしいらしいぞ」

「……そりゃ、こんなとこで、ぐうたらしてられへんな。手伝いにいって来るわ」

 海はそう言って立ち上がった。それにつられ空も立ち上がる。たまには母さんの手伝いをするのも悪くないと、そう思っていた。


 時間はさかのぼる。

 空がまだ教室で掃除をしている頃。春名光は図書室へ向かって歩いていた。今日は委員会があり、春名はそれに出席しなければならなかったのである。副委員長である朝倉はバレエの稽古がある為、欠席することになっていた。

 図書室へ行く途中。春名は体育教師の高田に声をかけられた。

「おい、春名。コレ高橋に渡しといてくれんか」

「え? これ……生徒手帳ですか」

「ああ。更衣室に落ちていたんだ。お前同じクラスだろう。渡しといてくれ」

「はい……」

 春名が生徒手帳をうけとると、そのまま高田はその場を去っていった。春名が授業に出ないことに、何か言う様子もない。

 春名は手の平サイズの生徒手帳の間に、何かが挟まっていることに気づく。足を止めて生徒手帳を開いた。

「これ……」

 挟まっていたのは、四つに折られた写真だった。この間空たちが見ていた写真だ。赤ん坊が三人写った写真。

 春名はしばらく、折り目のついてしまったよれよれの写真を眺めたあと、最初になっていたように四つ折りにし、生徒手帳に挟んだ。それをブレザーのポケットに入れると、春名は図書室へ向かう足を速めた。

 図書室へ入ると、既に数名が席に着いていた。春名が何処へ座ろうかと辺りを見回した時、近くに人の気配を感じた。誰かが春名の肩に腕を回してくる。

「よう、春名。どうだ、何か分かったか」

 耳に口を近づける様に春名に囁いてきたのは、生徒会長の坂木だった。春名は少し顔を顰めて、肩に回った坂木の腕を外させる。

「何のことですか? 坂木先輩」

「何のことって、春名。隠さなくてもいいだろう。お前、この間の教室であった悪戯のこと調べてるよな」

 腕を外された坂木は、苦笑いを浮かべながらそんなことを言う。綺麗な顔立ちをした坂木は爽やかな雰囲気を纏っており、女生徒はもちろんのこと、男子生徒や教師にも絶大な人気を誇る。成績も優秀で、スポーツも万能とくればなおさらだ。

 春名は彼を学校に入学する前から知っていた。親戚筋のパーティーで顔をあわせ、何度か話したことがあるのだ。誰に対しても穏やかな対応をする坂木は、春名の従兄弟たちと仲がよかった。その従兄弟達がいくら春名を邪険に扱っても、春名に対する態度を変えることはない。そんな坂木がわざわざ事件のことを口にするとは思わなかった。

 春名は眼鏡を中指で押し上げて、相手をじっと見詰めた。

「調べてませんよ。疑われてはいますけど。鍵をなくしたのは僕って事になってますから」

「疑われてるから、調べてるんだと思ったけど。あの日教室の前で何か言いかけてやめただろう。何か気づいたことがあるんじゃないのか」

「気のせいじゃないですか」

 春名は気の無い声でそう言ったが、坂木は執拗に聞いてきた。その目は妙に真剣だ。

「そんなことないだろう。僕が鍵は犯人が置いていったんじゃないかって言った時、お前、でもとかなんとか、何か言いかけてただろう」

 春名は少し考える様にしてから、口を開いた。

「それは、おかしいと思ったから…」

「何がおかしいんだ?」

 坂木が少し不思議そうに聞く。春名は続けた。

「朝倉たちが来た時、教室の鍵はかかっていました。密室状態の教室の真ん中に、犯人はどうやって鍵を置いたのでしょうか」

「……鍵は二つあるだろう。鍵を教室に置いて、犯人は予備の鍵で教室のドアを閉めたんじゃないか」

「そうですね。でも予備の鍵は用務員さんが持っていたはずなんです。その鍵で、最後教室の鍵を閉めたのは用務員さんですから。犯人が用務員さんから鍵を盗めたとは考えにくいんです」

「なんだ、用務員に話しを聞いたのか」

 やっぱり調べてたんじゃないかといわれて、春名は肩を竦めてから話を戻した。

「……犯人は用務員さんが鍵をかけた六時半以降に来て、拾った鍵を使って教室の中に入った」

「まあ、そうだろうな」

「でも、その後どうやって密室をつくったのか……。それがあの時は解らなかったんです。最初、先輩が拾った鍵が偽物なんじゃないかと疑いました。犯人が本物に似た鍵をプレートにつけて教室に置き、本物の鍵で教室のドアの鍵を閉めた……」

「なる程、密室が完成するな」

 坂木が納得したように頷いたが、春名は首を横に振った。

「そう思って確かめてみましたが、ちゃんとあの鍵で教室のドアの鍵は閉まりました。偽物でないとしたら犯人が用意した合い鍵で閉めた可能性が高いと思ったんです。でも疑問が残りました。あの鍵にどうしてペンキがついていないのか。鍵に赤いペンキが全くついていないのは、おかしいんです。ペンキが乾くのを待って、犯人が鍵を教室に置いたとは考えられません。僕が犯人なら見つかるのを恐れてさっさとその場を後にしますね」

「それは……確かにそうだな」

「それにしても、先輩はなんでそんなこと気にするんですか」

 春名の問いに、坂木は顔を顰めてこう言った。

「実はあのペンキ、うちの部で使う予定だったんだよ。それなのに全部ぱあだろ。腹がたつじゃないか」

「あれ? 先輩、演劇部ですか」

「いや。生物部の部長」

 坂木の返事に春名は少し怪訝そうな顔をした。ペンキは確か、演劇部で使うことになっていたと聞いたのだが。考えたところで分かるわけもないので、坂木に尋ねてみる。すぐに答えが返って来た。

「動物小屋の色がはげてきたから塗りなおそうと思って、演劇部の奴らに頼んでたんだよ。一緒に買って来てくれって。まさか赤色のペンキを買って来てるとは思わなかったけど」

「色指定しなかったんですか」

「ああ。適当にって頼んだからな。あーあ。春名が調べてるなら、犯人教えてもらおうと思ったんだけど。まだ謎ってわけか」

「それは……どうでしょうね」

 春名がそう呟いた。

 その呟きは、坂木の耳に届くことはなかった。

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