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第二章 騒がれし過去

 彼は思った。ああ、またこの夢だと。

 幼い頃の自分を彼は外から見ている。

 幼い頃の自分。彼は自分が嫌いだった。小さく、臆病で、ただ弱いだけの存在。

 今小さな彼がいる場所。初めて連れて行かれた親戚の集まりの中。他の子ども達と一緒に遊んできなさいと親に送り出された広い庭の片隅。小さな彼は、彼より大きな子ども達に囲まれ、怯えていた。

 彼は人と接することが苦手だった。喘息もちで、激しい運動も出来ずに家で過ごすことが多かった自分。近所の子ども達とも遊ぶ機会がなかったせいで、同年代の子ども達とどう接したらいいのか分からないのだ。

 それに今彼を囲んでいる子ども達には、彼を歓迎するムードなど一切ない。小さな彼を、侮蔑を込めた目で睨んでいた。

『お前、孤児なんだってな』

 コジ? コジって何。この頃の彼は孤児と言う言葉を知らなかった。

『おじ様とおば様はなんだってお前みたいなスジョウの知れない子を引き取ったのかって、お母さん達が言ってたぞ』

 年嵩の少年がそう言った。他の子ども達が同意する。

『病気持ちで、たいした利用価値もなさそうなのにってさ』

『どうせ叔父様たちも、すぐに飽きて捨てるさ。こんなの』

 嫌な笑いが彼の周囲でいくつも起こる。だが、彼の頭の中にはこれしかなかった。

『ぼ、ぼくはお父さんとお母さんの子じゃないの』

 口に出して聞いたら、頭を()たれた。

『当たり前だ。お前みたいな奴が俺たち一族の人間な訳がないじゃないか。気持ち悪い。そのうち、おじ様たちも目を覚ましてお前をどっかに捨てに行くだろう』

 それから彼はしばらく殴られ続けることになる。顔や腕は目に付くからと、服で隠れる場所を何度も。でも、このとき彼は殴られる痛みよりも、実の親だと思っていた両親が本当の親ではなかったと言うことの方がショックで、心が痛かった。殴られながらずっと捨てられたくないと思っていた。

 怖かった。一人は嫌だった。優しいお父さんとお母さんに捨てられるくらいなら、死んだ方がマシだと思った。


 そこで、彼は目が覚めた。薄暗い室内に彼の呼吸音が大きく響く。乱れた呼吸。久しぶりの悪夢。何故今頃こんな夢を見なければならないのか。彼に分かるはずもなかった。夢なのに、余りにもリアルだった。最初は遠くから眺めていたはずが、いつの間にか小さい頃の自分の中に、入りこんでいた。

 夢なのだから仕方ないが、夢であるからこそもっといい夢を見たかった。

 現実はこんなにも、容赦ないのだから……。




 朝の登校時間は好きだ。特に春は良い。暖かな空気はどこか生き生きとして、たくさんの香りを運んでくる風が心地良い。

 高橋空(たかはしそら)は一人上機嫌で、通学路を歩いていた。そんな空の肩を叩いて、紫藤海(しどうかい)が空の横に並んだ。

「おっす。高橋」

「はよっ。紫藤」

 挨拶を交わす声が、どこか弾んでいる。それもそのはず。空は今朝、両親からある事を聞きだすことに成功したのだ。

「紫藤、聞いてきたぞ。俺たちがいた施設の住所と電話番号」

 昨日の帰り、空と海は自分達が本当に兄弟なのか確かめようと話していた。互いに知っていたのは、自分達が今の親に引き取られる前にいた施設の名前だった。彼らは同じ施設にいたのだ。そこで空は昨日の夜、親に施設の電話番号と住所を聞いてきたのだ。

「おお。すごいやん。えらい。さすが高橋」

「そんな褒めんなよ」

 大仰に誉めそやす海に、空はまんざらでもない顔をしている。

「じゃあ、今度行ってみいひんか? ここ」

「ああ。そうしようぜ」

 歩きながら、空と海は先方に電話して、都合がいい日を聞いておいた方がいいだろうと話し合う。そんな会話が途切れたのは、海が春名を見つけたからだった。

「あ、あれ、春名やん」

「本当だ。珍しい。こんな時間にここ歩いてるなんて」

 春名はクラス委員長で、大抵朝一番に登校して教室の鍵を開けている。昨日はどうやら違ったらしいが。

「なあ、アイツ何で朝倉を庇ったんだと思う」

 春名を見たせいで、昨日の情景が思い起こされて、空は海に尋ねる。昨日海は空が思った通り、春名と朝倉のやり取りを教室の中から覗いていたらしい。

「あれやろ。朝倉がなくしたって事になったら、色々言う奴も出てくるし。何かにつけて目立つ奴やん朝倉。春名が好きやって公言してはばからへんし、春名のシンパから結構目の敵にされてるって知ってたか? 春名は多分知ってたんやろうな。そう言う事情考えてああいう行動とったんやろ、たぶん。俺結構アイツ見直したわ」

「え? そうだったんだ。知らなかった。でも、朝倉なんであんな奴がいいんだろう。昨日アイツ滅茶苦茶怖かったぞ」

「ああ、お前脅されたんやったな」

 海は数メートル先を歩く春名の背を見ながら、笑いを含んだ声で言った。

「でも、アイツがモテるの昨日ちょっと分かった気がしたわ。春名と話し終わった後、朝倉の奴ぽけーっとなって、乙女モード全開って感じやったもんなぁ」

 その言葉に空は昨日少し目にした朝倉の姿を思い出す。確かに朝倉は、海が言っているように、胸の前で手を組み、惚けていた。

「……俺、今までアイツのこと何か嫌な奴だと思ってたけど、ちょっと仲良くしてみようかな」

 その言葉に海は驚きの声を上げた。

「え? お前入学式の日春名と喧嘩してから、絶対アイツとは仲ようならへんって断言しとったやん」

「だって、アイツと一緒にいたら俺もモテるかもしれないだろ」

「……春名も可哀相やな」

「あ? 何か言った」

「いや……」

 よっしゃ、絶対に友達になってやると勢い込む空を、海は呆れて見つめる。だが、まあ、仲良きことは美しきかなって、誰かも言っとったし、これはコレでいいかも知れへんな。と、海は思うのだった。特別親しい友人を持たない春名のことは、前から気になってもいたし。これはこれで良いきっかけになるのかもしれない。

「じゃ、さっそく声かけへんか?」

 海の提案に空は快諾する。

「おっしゃ、おーい春名」

 耳を塞ぎたくなるほどの大声で、空が春名の背に向って声をかける。驚いた顔で振り向いた春名に、空と海は駆け寄る。

「おはよう。春名」

 にこにこと笑いかけた空に、春名は訝しげな顔を向ける。

「何なんだ? 一体」

「はあ? 春名。お前おはようって言ったら普通おはようって返すだろ」

 常識だろ常識と空は言う。それに対し口を開こうとする春名より先に、海が口を開いた。

「まあまあ。それより春名。今日はどうしたんや。やけに遅いやんか」

 口げんかに発展しそうだった会話の方向を変えようとそう言ったのだが、春名には通じなかったようだ。相変わらずの無表情で、春名はこう答えた。

「別に良いだろ。遅刻じゃない」

「ああ、まあそうやけど……」

「おい、春名。なんでそういう言い方しか出来ないんだよ。人がせっかくフレンドリーに接しようと思ったってのに」

「……何だそれは。別にそんなの頼んでないだろ」

 空と春名の会話を一歩後ろで歩きながら聞いていた海は、溜息を吐きたくなった。

 結局口げんかが始まるんや。こいつらは……。


 教室まで続いた空と春名の口論は、教室のドアを開いた瞬間に途切れた。途切れたのは、教室の中から発せられた嬌声にも似た歓声のせいだ。歓声を上げたのはクラスメートの女子たちだ。女子たちは教室の端に固まって、こちらを見ている。何事かと三人は教室の前で足を止めた。

 そこへ、副委員長の朝倉が小走りに近寄ってきた。手には何か雑誌のような物を持っている。

「春名君、コレ春名君だよね、ねっ」

 そう言って、朝倉は開いた雑誌を春名の目の前に突きつけた。春名は近づきすぎて焦点の合わなくなった雑誌を受け取ると、見える位置まで下げた。それを空と海が左右から覗き込む。

 その雑誌はスポーツ雑誌のようだった。雑誌には去年の冬のオリンピック特集が組まれていて、そこに写っているのは確かに春名に良く似ている。

 空は写真に写っている、フィギアスケートの選手と春名を交互に見る。顔立ちは似ているが、雑誌に載っている人物とは随分印象が違う。雑誌に載っている人物が、眼鏡をかけていないからだろうか。いや、それだけではない。纏う雰囲気が違うのだ。今空の隣にいる春名のようなトゲトゲしさが、雑誌に載っている人物にはない。そんなことを思って春名を見ると、彼は渋面を作っていた。

「おお、ほんまやっ。ていうか朝倉。思いっきり名前書いてあるやん。本人に確かめんでもさ」

 海は春名が持つ雑誌の一部を指差した。確かに名前が大きく出ている。

「そんなのわかんないじゃない。一応確認しなくちゃでしょ」

「確かに雰囲気は違うけど、顔は一緒だし、名前書いてあったら明らかに本人じゃん」

 空がそう言うと、朝倉に睨まれた。結構怖い。空はさっと目を逸らした。

 そんな空の横で一人黙って雑誌を見つめていた春名は、一つ溜息を吐くと口を開いた。

「確かに僕だよ。それが何か」

 そう言った瞬間、クラスメートからまたもや歓声が上がる。あっという間に三人はクラスメート達に囲まれた。

 クラスメート達が我先にと質問を始める。春名と一緒にいたせいで騒ぎの中心に身をおく空の耳には、クラスメートの声の大半は聞き取れなかった。

 春名はそんな声を聞いているのかいないのか。無表情で、どの質問にも答える様子はない。

 一向に口を開かない春名に、周りに集まったクラスメート達の口も重くなったようだ。だんだんと質問の声が小さくなっていく。いつの間にか、静まった声にあわせるように、春名が言った。

「わるいけど、もうスケートはやめたんだ。僕はスケートの話をするつもりは一切ない」

 きっぱりと言われた言葉に、クラスメート達から不満の声が上がった。だがその声も春名は無視する。しばらく食い下がっていたクラスメートたちも、一向に答える様子のない春名から、落胆の表情で離れ始めた。春名はその中に混じっていた朝倉に声をかける。

「朝倉。聞きたいんだけど」

「何? 春名君」

 問い返した朝倉に、春名はまだ手にしていた雑誌を示しながら言った。

「この雑誌、朝倉が持ってきたのか」

「違うわ。友達に貰ったのよ」

「……コレ、僕にくれないかな」

「え? どうして」

「欲しいんだよ。それだけ」

「えっ」

 朝倉が驚いたように声を上げた。

 まだ横で春名と朝倉の会話を聞いていた空も驚く。先程、春名がスケートの話しはしたくないと言った時、春名はどこか苦しそうに見えた。きっとスケートをしていた頃の事を思い出したくないのだろうと、空は思ったのだ。だが、春名はその頃のことを思い起こさせる雑誌を、欲しいという。どうにも空には解せなかった。

「でも、もらったものだし……」

 春名は渋る朝倉に目を合わせた。朝倉見つめたまま口を開く。

「ダメかな。欲しいんだよ、どうしても」

 空の目にはっきりと分かるほどに、朝倉の顔が朱に染まった。おちたな、と空は思った。

 案の定朝倉は首を縦に振る。

「……いいわ。そんなに欲しいならあげる。スッゴク惜しいけど」

 前半は春名に、後半は独り言のように朝倉は呟いた。

 春名は朝倉にありがとうと言うと、自分の席には行かず、教室の後ろへ向かった。

 何をするつもりだろうと空が見ている前で、春名は教室隅に置いてあるゴミ箱に、持っていた雑誌を捨てた。

 朝倉が息を飲む音を耳で聞いた瞬間。空はキレた。

「おまえ、何やってんだよ」

 そう怒鳴っていた。一瞬教室の空気が凍りつく。まずったかなと思ったが、一度口に出してしまった声を消すことは出来ない。

「もらった物を本人の前で捨てるなんて最低な行為だろ。謝れよ朝倉に」

 怒鳴ったままの勢いでそう言うと、春名の冷めた瞳と目が合った。

「何故? 僕が貰ったものをどうしようと、僕の勝手だろう。違うか」

「本気で言ってるのか。それ」

 睨み付けて言ってやったのと、担任教師が教室の扉を開いたのがほぼ同時だった。

 担任教師は教室の異様な雰囲気に気づいたのか、一度立ち止まり教室中を見回して口を開く。

「なんだ、何かあったのか」

「別に、何でもありません」

 すぐさまそう答えたのは春名だ。担任は溜息を吐くと、生徒達に席に着くように促した。空は席に着く前に一度春名を睨んだが、春名はそしらぬ顔で空の視線を無視した。空の言葉など、何も気にしていないかのように。




 放課後になった。終礼を終えるとすぐに、春名光(はるなこう)は教室を出た。余り長く教室に居たくなかった。教室は居心地が悪い。

 朝、高橋と喧嘩のような騒ぎになったからではない。朝倉に自分の過去を騒がれたからでもない。教室に限らず、春名にとって居心地のいい場所などどこにもない。自宅にもどこにも、心安らげる場所は、もうどこにもありはしない。

 ゆっくりと階下へ下りると、春名は靴箱へ向かう。玄関の周りには帰宅する生徒以外にも、今からクラブ活動へ向かうと一目で分かる生徒達もいる。

 自分の靴を床へ下した時、不意に後ろから声をかけられた。

「あの、春名君」

 春名が振り向いた先に、クラスメートの女子が立っていた。背が低く、おとなしい女生徒だ。余り他人に興味のない春名だが、彼女の名前は覚えていた。飯田倫子だ。同じクラス委員の朝倉ととても仲が良いので覚えていた。彼女は委員会があるとき、いつも必ず朝倉を待っている。その飯田が一人でいるのは珍しい。そう思いながら春名は口を開く。

「何? 急いでるんだけど」

 特に急ぐ用事はなかったが、春名はそう冷たく言った。そんな春名に、飯田は怯えたように目を泳がせる。だが、春名の前から逃げ出すようなことはせず、決心したかのように春名と目を合わせた。

「あの、一つだけ、聞きたい事があるの」

 か細い声でそう言われ、春名は次の言葉を待った。

「春名君。今スケートやってないんだよね。それはどうして? どうしてやめたの」

 一瞬胸に氷の刃が突き刺さったような気がした。春名は無意識に胸元のシャツを、片手で握りしめる。だが一瞬の動揺は、すぐに冷たい波にさらわれたように静まった。

「そんなこと聞いてどうするの」

 逆に聞き返されるとは思わなかったのか、飯田は言葉を探すように口元へ手を当てる。

「……私、あなたのファンだったの。だから、聞いてみたくて。別に騒ぐつもりはないし、誰かに話すつもりもないから。本当よ」

 春名は溜息を吐いた。彼女の言葉で分かったのだ。雑誌を持ってきたのは十中八苦彼女だと。朝倉を使って、春名が本当に雑誌の中の春名と同一人物かどうか、確認したのだ。

 別におかしくもないのに唇の端が上がり、口元だけが笑いの表情を作る。

 壊してしまいたかった。彼女の中の自分の像を。彼女の中にあるフィギアスケーターの春名光はるなこうとうい人物を。

「嫌になったんだ」

 唐突にそう言った。

「え? どういうこと」

 驚いた様に聞き返した飯田に、春名は続けた。

「嫌いなんだよ、スケート。だからやめたんだ。それだけ。……もういいだろう」

 そう言うと春名は靴を履き替え、その場に立ち尽くしている飯田を置いて外へ向かう。

 飯田は春名の答えに何も言わなかった。言えなかったのかもしれない。これで、彼女の中の自分の像は壊れたのだろうか。分からない。分からないが、彼女を傷つけたのは確かだ。春名が答えを返した瞬間、彼女の顔が確かに歪んだから。

 そんなことをしてどうすると、自分の中で問う声がする。

 しかし春名はその声を、心の奥底へ押し込んだ。

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