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第十七章 大事なモノ

「あなたが死ねばよかったのよ」

 扉の外から、少女の叫びに似た声が聞こえた。ドアノブに手をかけて、今まさにドアを開こうとしていた空は、動きを止めた。

「コレ飯田の声か?」

 傍らの海を軽く見上げると、海は頷いた。

「多分な。私市刑事の話しによるとそうやろうな。坂木先輩が、飯田が光を殺そうとしてるって言ったそうやから」

「まだ信じられねぇよ」

 空は呟いた。先ほど海にかかってきた電話は、私市刑事からの物だった。いつの間にこの二人がアドレスを交換していたのか知らないが、この電話が無ければ、こうしてこの場に駆けつける事もできなかったのだ。

 私市は海にこう言った。飯田倫子と言う少女が光を殺そうとしている。気をつけろと。私市は今こちらへ向かっているのだという。

「良かった。まだ生きとる見たいやな。光は」

 海はそっとドアの隙間から外を覗いていた。その肩に手をかけ空もその上から背伸びして外を覗く。飯田が確かにいた。何かを身体の前で構えている。それが反射してひかりを発した時、空はそれがナイフだと知った。その切っ先は惑うことなく光に向いている。

「早く止めなきゃ」

 そう言って、動こうとした空を海が止めた。見下ろした空に、海は首を振ってみせる。

「今下手に動いてみい、飯田を刺激する事になる」

「でも……」

「とりあえず、ここで見とこう。飯田が隙を見せたら飛び出したらええねん」

「……分かった」

 本当は今にも飛び出したかったが、空は海が言うことももっともだと思い、言葉を飲み込んだ。

 二人が会話している間にも、飯田と光は緊迫した雰囲気をかもし出している。

 光に向かって怒鳴る飯田の言葉を、光はじっと聞いているようだった。

「ねぇ知ってる? 人間って簡単に死ぬのよ」

 そう言って飯田は動いた。光に向かって一目散に走り出す。

「あいつ、何やってんだよ」

 空はそう呟いて、ドアを思い切りよく開けた。ドアは勢いよく開いて壁に当たる。大きな音が屋上に響いた。

 その音に驚いたように、飯田は動きを止めて振り返る。光もこちらに顔を向けた。

 空は飯田ではなく、光を睨んだ。

「おい、光。お前なんで逃げないんだ」

 空は怒り任せに怒鳴った。光は恐れた風も無く、腕を組んで聞き返した。

「どうして逃げなきゃならないんだ」

 どうして逃げなきゃならないだって? 空はその返事に驚くと同時に、またも怒りがつのるのを感じる。

「どうしてだって? そのまま突っ立ってたらお前飯田に刺されてたぞ。それでもいいのかよ」

 光を睨みつけて空は言った。

 光は淡々と返した。

「いいんだよ。それで」

「なんで……」 

 そう聞いたのは空でも海でもなく、飯田だった。飯田は光から五歩分ほどの距離を置いて立ち止まっていた。手にはまだナイフが握られている。

 空から飯田に顔を向けて、光は口を開く。

「君が言ったんじゃないか。僕には生きている価値が無いって。その通りだよ。僕もずっとそう思ってた」

「……」

 その言葉に、誰も返す言葉が無い様に押し黙った。飯田でさえ動く事を忘れたように、つっ立ったままだ。

「……どうして、生き残ったのが僕だったんだろう。君の言う通りだよ、飯田。あの事故の時、死ななければならなかったのは僕の方だったんだ。コーチは僕をかばって、死んではいけなかった」

 目を伏せて、光は言葉を切った。少しずつ西に傾いていく太陽が、一度雲に隠れてすぐに現れた。また影が出来る。

「今更何? 私を懐柔でもしようって言うの。そんな事言ったって、私はほだされないんだから」

「懐柔する気も命乞いする気もないよ。コーチが死んだのも、君に罪を犯させてしまったのも、全て僕が原因なんだ」

「……」

「言い訳する気はないけど。僕は君に言わなかった事がある」

「……何」

 空たちを警戒しつつ、飯田は光に問う。光は風で乱れた髪を軽く押さえた。

「僕がスケートを辞めたのは嫌いになったからじゃない。事故で、怪我を負ったからだ」

「怪我? そんなの誰も言ってなかったわ。お母さんも、あなたはまたスケートを始めたって……」

「君のお母さんにそう言ってもらうように頼んだんだよ。もうスケートができないって分かったのは、君との約束の後で。まだ、君に言うべきではないって……」

「嘘よ」

 飯田は光の言葉を、途中で遮った。また腕が振るえている。光の言葉を信じたくない気持ちのあらわれか。

 普段おとなしい飯田の叫びに気おされたのか、空も海も立ち止まりじっと飯田を見つめている。

「嘘よ、嘘。だって、お父さんはあなたにスケートを続けて欲しくて、だから、あなたを庇って死んだのに。じゃあ、何でお父さんは死んだの? 何でなのよ」

 何度も繰り返される問い。飯田は父親が死んでからずっと、この問いを繰り返してきたのだろう。だがこの問いに答えなどないのだ。誰も答えなど持ってはいないのだ。事故に遭った光でさえ、ずっと分からないままなのに。

「ごめん、ノンちゃん。約束したのに」

 光の言葉に飯田が目を見開いた。その目にうっすらと涙が浮かぶ。

「ノンちゃんなんて呼ばないで。そう呼んでいいのはお父さんだけなんだから」

「飯田、もういいだろ。解っただろう。光だって本当はスケート続けたかったんだよ。飯田のお父さんが死んだのだって、事故じゃないか。不幸な事故だったんだよ。もういいだろう。ナイフ寄こせよ、危ないから」

 空がようやくここで口を挟んだ。飯田に手を差し出して、ナイフを渡すように促す。そんな空から、飯田は一歩後退る。ナイフを手に握り締めたまま。

「飯田」

 もう一度、空は先ほどより強い調子で飯田の名を呼ぶ。飯田はただ首を横に振った。まるで駄々をこねている子どものように何度も。

「ダメだ。空」

 飯田に近づこうと前進していた空は、足を止め、光を見た。

「いいんだよ、飯田。君の気の済む様にすればいい。そのナイフで僕を刺したければそうすればいいんだ」

「おい、光」

「何言い出すんや」

 驚いて、空と海は光に言うが、光はそんな二人を睨んだ。

「お前らは黙ってろ。……飯田、僕を殺してもコーチは生き返ったりしない。それでも僕を殺したければ、いいよ殺して」

 そう言って、光は目を閉じた。無防備なその姿を、飯田は呆然と見つめていた。動こうか動くまいか迷っているようだ。

 空はじっと飯田に視線を注ぐ。飯田が動こうとしたら、何が何でも止めるつもりだった。たとえそのせいで、自分が怪我をしたとしても。


 どれ位時間がたったのだろう。

 沈黙が落ちる中、光が静かに目を開けた。

「どうした? 飯田。僕が殺せない? 僕を殺したいほど憎んでいたんだろう」

「……」

「僕に死んで欲しいって言っただろう」

 静かな光の問いに、飯田は答えなかった。じっとナイフを構えたまま、視線を下へと落とす。

 光は疲れたように溜息を吐くと、飯田から視線を外した。そして、屋上を囲む柵の方へゆっくりと向かう。

 空と海、そして飯田も光の突然の動きに、呆然と見入っていた。

 光が柵を掴む。柵は光の腰の位置までしかない。光は柵から少し身を乗り出して下を見た。眼下に広がるのは校庭のはずだ。今なら運動部の生徒が列を作って走っている姿が目に入るだろう。光はゆっくりと空達を振り返った。


 光は、空と海、そして飯田の顔を見回してから、普段滅多に見せる事のない笑顔を作った。

「飯田ができないなら、僕がここから飛び降りるよ」

 穏やかな声だった。じっさい光の心は穏やかだった。やっと自分のすべきことが分かったと、そう思っていた。

「ふ、ふざけるな馬鹿野郎。なんでお前が飛び降りなきゃなんねーんだよ。お前は何も悪い事なんてやってねぇじゃねーか」

「そうや、光。少し冷静になれや。いつものお前らしくないで」

 そう言って間合いを詰めてくる空と海を見やり、光は口を開く。

「ずっと、おかしいと思ってたんだ。どうして生き残ったのが僕だったんだろうって。生きる事を望まれてもいない人間が生き残って、どうして愛されてる人間が死んでしまったんだろうって。コーチはとてもいい人だった。飯田がこれだけ慕うんだから分かるだろう」

「……」

「でも僕は何の価値も無い人間なんだ。生きている事自体、間違いだったんだよ」

 淡々とそう言った光は、また眼下を見下ろすように柵に手をかけた。その背に向かって、空と海は走り出す。

 そして。

 光が柵を越えた。

「光」

 空と海の声が重なった。空は光に向かって手を伸ばした。


 音がするほどに柵に身体を強くぶつけた。息がつまる。痛い。だが、指は掴んでいる。光の手首を。

「空、離すなや」

 空は光の重みで引き摺られそうになる体を、光を掴んでいる方とは逆の手で、柵を掴んで堪えた。その空を海が後ろから支えて、光に手を伸ばす。

「おい、つかまれって、光」

 空の腕に掴まろうともせず、光は空と海を見上げている。伸ばしてきた海の手を取ろうともしない。

「何してんねん。ホンマに落ちるって。光」

「離せ、空。お前まで落ちる」

 光の声が空の耳に入る。空は怒りに火がつくのを感じた。

「馬鹿野郎。離せるわけ、ないだろうが。俺にお前を見殺しにしろって言うのかよ。出来るわけねぇだろう。できねぇよ」

 本当は怒鳴りつけてやりたかった。だが怒鳴ると光の腕を掴んでいる力が弱まりそうで、自然と声がかすれたようになる。

「なあ、光。頼むから手ぇ伸ばせ、このままやったら空まで落ちてまう」

 海が言うが、光は手を伸ばさない。

「そうだよ、空。早く手を離してくれ」

「そうじゃねぇだろ、馬鹿野郎。お前を落としてたまるか。俺はもう二度と、人が死ぬのなんて見たくねぇ」

「空……」

「おい、飯田。聞えてるんだろう。お前がこんな事やったのは、光を恨んでの事だって分かってる。でもな、お前が父親を大事に思っていた様に、俺だって光が大事なんだ」

 光に何を言っても無駄だと空は思ったのだろう。後ろにいるはずの飯田に聞えるように、声を張り上げた。先ほどよりもしっかりと、光の腕を掴む手に力を込めて。

「そうや、飯田。手伝ってくれ。光が落ちてまう」

 海は空を支えながら、出来る限り振り返って飯田に訴えた。飯田は身体を震わせて首をただ横に振る。

「頼むよ。お前の父親がたった一人のように、俺にだってコイツは血の繋がった、兄弟なんだ」

「え?」

「飯田。俺たち三人、血の繋がった兄弟なんだ。コイツは俺たちにとって、大事な大事な兄弟なんだよ」

 空が吠える様に言った。光の手首を掴んでいる手が震えている。限界が近かった。ずるずると、光の体が少しずつ滑り落ちていく。

「飯田、頼むから。俺らの目の前で光を死なせんといてくれ」

 海の大声に、飯田は肩を揺らした。大きな叫び声を上げると、持っていたナイフを捨て、空たちのもとへ走った。

 空の横から身を乗り出して、光に手を伸ばす。

「春名君、手を伸ばして」

 泣きながら飯田が言った。それでも光は首を横に振る。

「ダメだよ、飯田。もう、疲れたんだ」

「光!」

「疲れたんだよ」

 囁く様にいわれた光の言葉は、不思議と三人に良く聞えた。

「くっ」

 腕がしびれてきた。空は柵を掴んでいた手も離して、光の手を掴む。その空を海が必死で支える。飯田は光の手を掴もうと手を伸ばす。引き上げるのは無理だ。このまま光を死なせてしまうのか。

 空の頭にそんな言葉が過ぎった。

 その時。

「何やってるんだ」

 背後から切迫した声が聞こえてきた。この声は知っている。そう思ったとき飯田を押しのけた男の姿が、空の視界に入った。

 男は空の掴んでいた光の手を取ると、空に行くぞと声をかけて、光を引っ張り上げた。

 どっと空は勢い余って尻餅をつく。男は光の腰に腕を巻きつけて柵の中に引き込んだ。

「一体何があったんだ」

「私市さん、どうして」

 呆然と光が男を見上げた。男は先ほど海に電話をしてきた私市刑事、その人だった。

「おい、大丈夫か? 顔色が真っ青だぞ」

 光の顔を覗きこんで私市が問い返す。その光の足から力が抜けた。私市は咄嗟に光の腕を掴んでその身体を引き寄せた。

 光が口元を抑えた。その手の中から咳が漏れる。

 発作だ。

「光」

 尻餅をついたまま呆然としていた空は、海と共に光の元へ走り寄る。

 私市は救急車を呼ぶために、胸ポケットから携帯電話を取り出す。

 光の咳は止まらない。

「うっ、わぁああぁぁ」

 焦っている空たちの背後で、飯田が泣き崩れる。


 その泣き声があらわすものは後悔か。

 それとも、光を殺せなかった事への無念の涙か。


 それは飯田にしか分からない。


 飯田にしか、分からないのだ。

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