第十三章 犯人は誰だ?
第二理科室へ向かう途中の廊下に、立入禁止のテープが張り渡され、その前には人垣ができていた。まだ残っていた生徒達が野次馬と化していたのだ。
テープの内側では、警察関係者たちが所狭と立ち働いている。
事件現場となった第二理科室の隣の教室に、空たちはいた。事態を知った校長が慌てて警察を呼び、駆けつけた警察が関係者達をちょうど良いとばかりに理科室の隣で待機させているのだ。
教室の中では、殺人現場に駆けつけた教師数名と、坂木が壁にもたれるようにして立っている。そこから少し距離を置いて、空は椅子に座らされていた。その傍らには光と、海もいる。扉の前には警察官が一人立っていた。
「ああ、俺絶対犯人にされるよ」
頭を抱えた空に、光が声をかけた。
「それはないだろう。警察だってバカじゃないはずだ」
「でも、俺、凶器触っちゃったんだよ。暗かったからわかんなくて、つい。あのナイフ、俺の指紋ついてるし」
「……でも」
海が何か言いかけたとき、教室の扉が勢いよく開いた。
そこに現れたのはまだ若い男性だった。顔立ちは悪くなく、どちらかというと整っている。だが、着ているスーツはよれよれで、染めていない黒髪は中途半端に伸びていた。男は室内を見回して、頭を掻きながら口を開いた。
「あー皆さん。お待たせしました。一人ずつお話を窺いたいんで、呼ばれた方は隣の理科準備室へお願いします」
そして教師の一人が名指しされ、教室を後にする。その後しばらくして教師が戻ってくると、別の教師が呼ばれ教室を出て行く。そうこうしているうちに、いつの間にか呼ばれていないのは空たち三人だけになった。今は坂木が別室で事情聴取を受けているはずだ。
空はどんどんと不安になっていく。制服に着いた血液、自分の指紋が残ったナイフ。これだけあれば、自分が犯人にされてもおかしくはない。空は尋問される自分を思い浮かべ、体を震わせた。脳裏には黒田の空虚に見開かれた目が思い出される。
ガラガラと扉が開いて、坂木を伴った刑事が現れた。
「次、えーとそこの君」
海に肩を指でつつかれて、空は俯けていた顔を上げた。刑事に指名されたのはどうやら空だったようだ。どうしようかと、傍らに立つ光と海を交互に見る。
「あの、刑事さん」
「ん? なんだい」
刑事は眠そうに目を細めて、呼びかけた光を見る。
「僕達三人、一緒ではダメでしょうか」
刑事は少し考えるそぶりをしながら、頭を掻いた。何故か視線を空に一度据えてから、頷いた。
「ああ、まあいいよ。三人一緒においで」
あっさりと刑事はそう言って手招いた。空は立ち上がり刑事の後ろについて行く。
少し埃臭い理科準備室には、壁をふさぐように棚が並べられていた。ただでさえ狭い部屋が余計に狭く見える。棚には何かよく分からない標本やホルマリン漬けの瓶が並べられていた。薬品の瓶が置かれた、鍵の付いた棚もる。
狭い部屋にイスを運んだのか、二脚の椅子が部屋の真ん中に対面するように並べられている。その一脚に年配の刑事が座っていた。少し中年太り気味な男は、眉間に皺を寄せて若い刑事を睨む。
「おい、私市。一人ずつって言っただろうが、何で三人も連れてくるんだ」
「まあ、まあ、良いじゃないですか。虻さん。三人一緒にした方が、時間も短縮できますし」
「だがなぁ……、ああっ、まあいい。とりあえず、えー、そこの、一番小さいの。こっち来て座って」
年配の刑事は手招きしながら空に向かってそう言った。空は刑事の物言いに少し腹を立てながらも、言われるままに、年配刑事の前に座った。
その時。ノックの音と共に理科室と準備室を繋ぐドアが開いた。
「あ、虻さん。ちょっとすんません。寺坂さんが呼んでます」
「ちっまだ終わってないんだぞ。まあ、良いわ。おい、私市。お前やっとけ」
そう言って、虻さんと呼ばれた年配刑事は、呼びに来た刑事と一緒に部屋を出て行った。
「あー、じゃあ、事情聴取します」
私市と呼ばれた刑事はそう言って、年配の刑事が座っていた椅子に腰掛けた。眠そうな顔で、懐から革張りのメモ帳を取り出す。
「えーと、まず、名前と学年教えてくれるかな」
そういいながら、刑事は一人一人に確認する様に顔を向ける。三人はそれぞれに名前と学年を答えた。
「君達が第一発見者だったようだね。ビックリしただろう。被害者は君達の担任の先生だったんだって?」
「はい」
「君達は、そもそもどうして理科室に来たのかな」
「加賀見先生に言われて、理科室の鍵を閉めに……」
空は自分たちに使いを頼んだ、先生の名前を告げる。そもそもあの先生が鍵閉めなんて頼まなければ、こんな面倒ごとに巻き込まれずにすんだのに。
「加賀見先生って?」
「生物の先生です」
答えたのは光だった。私市と呼ばれた刑事はフンフンと頷きながらメモを取っている。
「なるほど、君達はその加賀見先生に頼まれてこの理科室の鍵を閉めにきたんだね。それで、該者を発見した、と」
「はい……」
空が力なく頷くと、私市はボールペンを振り回しながら尋ねた。
「じゃあ、その時の様子を詳しく話してくれないかな」
空たちは私市にその時の様子を話して聞かせた。時々私市がはさむ質問にも素直に答える。もっと厳しく質問されるのかと思っていた空は、あっさりとした私市の反応に少し戸惑う。
「あの、俺、犯人にされませんよね」
恐々聞いた空に、私市は笑みを見せた。その笑みを見た空は安心する所か逆に不安になる。人を不安にさせる笑顔を見せた私市は、口を開いた。
「それは何とも言えないな。でも、それを言ったら君達全員容疑者にはなるしね。でも、心配する事ないよ。きちんと調べて、調べて調べ上げて、結論を出すからね」
「はあ……」
空は分かったような、分からないような気持ちで、頬を掻く。そんな反応を気のせいかもしれないが楽しげに見ていた私市は、視線を光に移した。
「えー、ここからは、刑事の質問とは別で個人的に聞きたいんだけど。君はオリンピックに出てたよね。スケートで」
笑顔で問いかけた私市を、空と海は睨んだ。余計な事を言いやがってと思ったからだが、光は気にした様子を見せなかった。
「そうです」
軽く頷いた光に、私市は持っていた手帳を背広の内ポケットにしまうと、光の前に立った。無理やり光の手をとって握る。
「いやー、嬉しいよ。こんなところでオリンピック選手と会う事が出来るなんてっ」
「……刑事さん。ミーハーですか?」
「ははは、よく言われるよ」
とげのある声で聞いた空に、私市は気を悪くする事もなく頷いた。私市は光に笑顔を向ける。
「悪いんだけど、後でサインもらえないかな」
ずうずうしくそんなことまで言い出した私市に、空たちは呆れた。この刑事は場所をわきまえるって事を知らないのか。大人のくせに。
「……幾つか、僕の質問に答えてくれるなら、書いてもいいですよ。サイン」
スケートをしていた事を言われるのを嫌っていた光の言葉とは思えず、空と海は光を見た。光はじっと刑事を見詰め、答えを待っている。
「うーん。そうだね。僕が答えられる事なら、構わないよ」
そう言って、私市はやっと握っていた光の手を離した。
「じゃあ、一つ目の質問です」
そう言って、光は眼鏡を中指で押し上げた。私市は何でも聞いてくれと言わんばかりに笑顔で頷く。
「僕たちが理科室に着いたとき、窓が一箇所だけ開いていました。そこに誰かが出入りした痕跡はありましたか」
私市は眠そうにしていた目を見開いた後、口元にニヤリと笑みを乗せた。
「なかったよ。少なくとも見た感じではね。あの窓枠や窓の桟にはかなり埃が溜まっていてね。例えば、そこから出ようとして手や足をかけたとしたら。そこの部分だけ埃がとれるだろう。それが全くなかった。あの高さにある窓から出ようと思ったら、どうやっても、手と足をかけるしかないからね」
黙って聞いていた光は顎に手をやって考えるように床を見ていた。だが、やおら顔をあげると理科室と準備室を繋ぐ扉を指差した。
「では次の質問です。ここの、理科室と準備室を繋ぐ扉の鍵と、あっちの準備室と廊下を繋ぐ扉の鍵は閉まっていましたか」
この準備室は理科室と準備室を繋ぐドアと、準備室から直接廊下に出られる扉と出入り口が二つある。何故光はこんな事を聞いているのだろうか。空はそう思うのだが、今聞いてもうるさいと言われるのがおちだろうと、黙って口をつぐむ事にする。
私市は親指を立てて理科室と準備室を繋ぐドアを示してから口を開いた。
「こっちのドアは鍵が閉まっていたけど、そっちのドアは開いてたよ」
今度も親指を使って廊下側に通じる扉を指し示す。空たちは私市が指で示すたびに振り子の様に首を動かさなければならなかった。
「じゃあ、これで最後です。坂木先輩は刑事さんたちになんて説明していましたか」
この質問には私市は眉を顰めた。空は突っ込みすぎだろうと思ったが、忠告を口にする前に光が言った。
「言えませんか?」
「……この質問に答えなかったら、君からサインはもらえない?」
私市がそう聞く。空と海は顔を見合わせた。なぜ現役の選手でもない光のサインがそんなに欲しいのか。空と海は解らなかったのだ。
「ええ」
光が私市の質問に頷いたので、私市は仕方がないと言うように肩を竦めた。
「いいよ。教えよう。坂木先輩というのは生徒会長だと言っていた彼のことだよな」
私市は空たちが三人同時に頷いたのを見て、背広の内ポケットからまた黒革の手帳を取り出した。
「彼は生徒会の仕事を終えて、帰宅しようとしていたそうだ。この上の階に生徒会室があるんだろう? ま、それでだ。帰ろうと一階に着いたとき、君達のうちの誰かがあげた悲鳴を聞いたらしいんだ」
その悲鳴を上げたのは俺だと空は思う。少し恥ずかしい。
「悲鳴はこの理科室の方から聞えたと思った坂木君は、走って理科室にたどり着いた。そして、服に赤い染みのついた高橋君と倒れている人を見て、君が人を殺したんだと思ったらしい」
「それで、ヒトゴロシって叫んだんだ。先輩」
空は青い顔でそう叫んでいた坂木の姿を思い出す。光はまた顎に手を当てて何か考え込んでいる様子だったが、その手を下して口を開いた。目はまっすぐ私市を捉えている。
「坂木先輩は本当に走って理科室に来たって言ったんですか」
「ああ、確かだよ。彼は走って理科室まで来たと言っていた」
念を押した光に、生真面目に私市は答えてくれた。
「じゃあ今度色紙持って来るから、サインよろしく」
そう私市は言うと、空たちを廊下に通じるドアへと促した。これで質問は終わりだと言うように。