第九章 兄弟
空たちと別れ、春名光は病院へ向かった。学校から病院まで、徒歩で四十分はかかるので、途中でタクシーをひろう。
病院へ着くとさほど待たされることもなく、光は診察室へと入ることができた。
診察室の薬品くさい臭いが鼻をつく。病院の臭いだ。余り好きな臭いではないといつも思う。
くたびれた感じの丸椅子に、細身の医師が座っていた。医師はカルテに目を落としながら、光に椅子へ座るように促した。
光は医師が座っている椅子と、同じような丸椅子に腰を下した。椅子が抗議の声を上げるように、軋んだ音をたてる。その音が合図の様に、医師は顔を上げ、光と目を合わせた。
「前より少し悪化しているね。ちゃんと杖を使って歩いてる? だめだよ、杖は使わないと。歩けなくなったら嫌だろう」
こちらに引っ越してから見てもらっているこの医師は、小さな子どもに言い聞かせるような調子でそう言った。目尻に笑い皺を刻んでいる。
光は優しげな容貌をした医師に、感情の伴わない声音で答える。
「別に歩けなくなってもいいです。いっそ歩けない方が楽なんじゃないかと思います」
光の答えに、医師は眉を寄せた。だが優しい話し振りは変わらなかった。
「どうして? 足は動いた方がいいだろう。動かせなくなったら今よりうんと大変な思いをすることになるよ」
医師の言葉に光は首を横に振る。
「一緒ですよ。動こうが動くまいが、僕にとってはどっちでも……一緒なんです」
痛みを伴いながら動く足になんの価値があるというのか。光にはそれが分からなかった。前の様に動かない足なら、光には必要ないのだ。
医師が何か言っている。だが光の耳にはもう、何もとどいていなかった。
電車に乗って二駅で、目的の駅に着いた。途中で買ったおにぎりを電車の中で食べ終えた空と海は、ゴミを駅構内のゴミ箱に捨て、電話で聞いたとおりの道順を歩く。
目的地に近づくにつれ、二人の口数は減っていった。
ようやく目的地についた。
空の胸元辺りまでしかないフェンスで囲まれた敷地内には、かなり古びた建物が見受けられる。その敷地内の端にはブランコや滑り台などの遊具も設置されていた。子ども達が歓声を上げて、遊んでいる。
フェンスが途切れた所に門があった。石造りの門にはその建物の名を示す物がかけられていた。
「緑園……ここか」
音を立てて鳴り出した心臓をなだめることも出来ずに、空はそう呟いた。
隣で頷く気配に顔を上げてみれば、海も緊張した面持ちでこちらを見返してきた。
「行くか?」
空が問いかけると、海は頷いた。
「ああ、行こう」
その言葉に頷いて、空と海は緑園の敷地へと足を踏み入れた。
受付で用件を告げると、二人は職員室に通された。
職員室の、端には衝立で隔たれた場所があり、そこが応接室変わりになっているようだ。空たちは少し古びた感じのソファーに、二人並んで腰かけた。お茶を出してくれた若い職員は姿を消し、入れ替わりに年配の女性がやって来た。
女性は白髪交じりの髪を後ろで束ねている。穏やかそうな顔には笑顔が浮かんでいた。手にはアルバムを持っている。
「ごめんなさい、お待たせして」
優しい響を持つ声音だった。女性は空たちの前に座ると、二人の顔を交互に見比べた。
「ふふふ。面影があるものね。あんなに小さかったのに、こんなに大きくなっちゃって。あなたが、空くん。で、あなたが海くんね」
中島と名乗った女性は、にこやかに空と海の名前を当てた。
「すごい、良く分かりましたね」
素直に感心した空に、女性は頷いた。
「実はね。さっきアルバムを見ていたのよ。ほら、あなた達の写真もあるでしょう」
そう言って中島は、手元に置いていたアルバムを開いて見せた。幾つか貼ってある写真の一つを指差し、中島は続ける。
「ほら、コレ。あなた達が貰われていく少し前に撮ったのよ。かわいいでしょう。二人とも面影があるし」
「そうですか? ……あの。俺たちってやっぱり、本当の兄弟なんですよね」
空が問うと、中島は写真に向けていた目を上げ、きょとんとした表情で空を見返した。
「あら、知らずに来たの?」
驚いた様に中島が問うので、二人は頷いた。空と海は持っていた赤ん坊の頃の写真を中島に示して、二人がこの写真を見て兄弟じゃないかと思うようになったこと、ここに来てそれを確かめたかったことなどを話した。
「そう。大丈夫よ、あなた達はちゃんと兄弟だから。……大丈夫っていうのもへんよね」
そう言って中島は小さく笑う。空たちもつられて笑った。
「もう一人の兄弟のことなんですけど、中島さん分かりませんか。何処に住んでるとか」
海が中島に訪ねた。それを横で聞いていた空は、敬語の時は関西弁じゃないんだなと、余計なことを考えた。
「今年のはじめ頃かしら。見えたわよ。こちらに」
「えぇ?」
「ホンマに」
驚いて同じタイミングで、違うことを言った二人に、中島は鷹揚に頷く。
「ええ。でも……」
そこで、中島は言いよどんだ。空と海は顔を見合わせる。何か良くないことでもあるのだろうか。
「事故にあわれたらしくて、車椅子に乗っていらしたのよ。とても大きな事故だったみたいね。顔にも大きな絆創膏を貼って……。今は随分良くなっているってお手紙貰ったから、二人ともそんな顔しなくても大丈夫よ」
よほど悲壮な顔でもしていたのだろうか。中島は最後に笑顔をつくってみせた。
「良かった……」
ほっと胸を撫で下ろした空の横で、海も安心したように息を吐いた。
「あなた達を捜してらしたのよ。会いに行こうと思っているとおっしゃってたわ」
「え? で、でも、誰も尋ねて来なかったよな。紫藤」
「ああ。来えへんかった。俺と兄弟やっていう奴なんか」
「まあ、そうなの。住所と電話番号はお渡ししたのだけれど。身元もちゃんとしてらしたし、大丈夫だと思ったのだけれど、いやだわ。どうしましょう」
口元に手をあて、少し不安そうな表情になった中島に、空は問う。
「その、もう一人の兄弟の名前とか、住所とか分かりますか。こっちから尋ねて行きたいんです」
「ええ、分かると思うわ。えっと、名前は……あら、なんだったかしら。えーと、確か、苗字に季節のどれかが入っていたような……いやね、年をとると忘れっぽくなって」
中島は少し待っていてねといい置いて、席を立つと応接スペースを出て行った。
「なあ。今、季節って言ったよな。名前に入ってる文字」
小声で空が言うと、海は頷いた。空は思いついた名前を口にした。
「春名じゃないのか。もしかして」
「……できすぎた話しやけど、俺もそう思う。だってなぁ。あいつここの場所しっとったみたいやし」
「ああ。写真も意味ありげに見てたし……」
そこまで言った時、中島が戻ってきた。中島はメモ用紙を空に手渡した。
そこに書かれていた名前は、二人が予想していた通りのものだった。
緑園を出て、空と海は駅に向かって歩いていた。どちらも口を開こうとしない。空は腹を立てていた。何故、春名は俺たちに何も言わなかったのだろう。自分は空たちと血の繋がった兄弟だと、どうして言わなかったのだろう。何故、春名は知っていて知らないふりをしていたのだろうと。
考えても分かりはしない。だが自分ならきっと、すぐに話していたと思うのだ。この世でたった三人きりの、血の繋がった兄弟だということを。
「なあ、直接本人に会って聞いてみぃひんか。なんで黙っとったか」
ぼそりとそう言った海を軽く見上げて、空は立ち止まった。
「今からか? でもどうやって連絡とるんだよ」
「電話するわ」
そう言って海は背負っていた鞄から、携帯電話を取り出した。すぐに耳に当てたところをみると、番号は短縮にでも入っていたのだろう。
「あ、春名か。おー、今からお前ん家行っていい? え、まだ病院? おお」
しばらく話した後、海はすぐに電話を切った。振り向いた海に、空は聞いた。
「春名なんて言ってた?」
「家に来いって。まだ病院やけど家で待ってろって」
「へえ。そうか。ところでお前、なんで春名の携帯番号知ってたんだ」
「この間聞いたからに決まってるやん。俺はいろんな人の携帯番号持ってるで」
「ふーん、まあ、ちょうど良かったな。春名に色々聞きたい事あるし。とりあえず行ってみようぜ。春名の家に」
携帯電話の通話を切って、春名光は病院の壁に背を預けた。ちょうど病院から出てきたところに海から電話があったのだ。
きっと電話があるとは思っていた。光はそう考えて、壁から背を離した。杖を使って歩き出し、光は持っていた携帯電話を、ズボンのポケットに入れた。
歩くたびに走る痛みに、少し顔を顰めて、光は歩みを止めた。医者の言葉が頭を過ぎる。
『足が動かなくなってもいいのかい』
医者はそう言った。だが、何が違うと言うのだ。今だってまともに動かないではないか。いっそ完全に動かなくなった方が、痛みを感じなくてすむ。
いっそあの時、足がなくなっていれば……
今もこんなに、未練を感じなくてすむのに……