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第九章 第二六節

 フィズベクと呼ばれる都市の近くにある平原で展開される戦局は、なかば膠着状態がつづいていた。

 どちらも決め手を欠き、しかし戦いは継続されることで、いずれの兵士たちにも疲労の気配が色濃く出はじめていた。

 それは、指揮官とて例外ではない。

 ――苦しい、な。

 ノイシュタットの長たるフェリクスは己の目で戦況を見つめ、心中でこめかみを押さえた。

 主戦力のひとつであるユーグの隊が抜け、オトマルは城の守備に残り、ヨアヒムも今はいない。

 次から次へと入ってくる報告は憂鬱なものばかりで、今のところこの状況を打開できそうな気配すらなかった。

 周りに悟られぬよう今日何度目かの長く重いため息をついたとき、前方から一騎が近づいてきた。

「フェリクス様!」

「ゲルト」

「やりましたよ、〝裏切り者〟を捕らえました」

「なんだと!?」

 自分でそのことを伝えたかったのだろう、前線に出ていたゲルトが急ぎ戻ってきた。

 程なく、複数の騎士たちに厳重に囲まれる形で運ばれてきたのは、つい先日まで、こころの底から信頼していた南方守備隊の長であるはずの者だった。

「ロラント……」

「…………」

 後ろ手に縛られるという騎士にとっては屈辱的な扱いを受けているにもかかわらず、悪びれた様子もなく、毅然とした態度を崩さなかった。

 だが、けっして元は主君だったフェリクスと目を合わせようとはしない。

「訳を聞いてもいいか」

「…………」

「大将、裏切り者の言い訳なんてどうでもいいですよ。この場で即刻、手討ちにしてやりましょう!」

「そういうわけにはいかん。いずれ軍議にかけてから最終的に決める必要がある」

 フェリクスはこうして目の前で相対しても、なぜかロラントを憎む気になれなかった。

 それは、彼の苦悩が伝わってくるためだ。

 理由はわからない。しかし、相応の訳が存するのであろうことは十分に見て取れた。

「餌に釣られたわけでもあるまい」

「私がそんなものに惹かれる人間ではないことは、あなたが一番よくご存じでしょう」

「何を偉そうに! だったら、なんだってんだよ!?」

 一拍間を置いてから、それでもロラントは声を絞り出すようにして言った。

「――偽りに染まった生を、私はひとりの騎士として許すことはできなかった。それだけだ」

「訳のわからんことを! 見損なったぜ、ロラント卿!」

「お前たちもいずれわかる。そして、かならず思い悩むことになる」

「なんだと!?」

「確かに、答えは人それぞれだろう。だが、そのときになって初めて私の気持ちがわかるはずだ、とてつもない苦しみの中で」

 元近衛騎士ロラントに、虚言を吐いている様子は微塵もなかった。

 それだけに、フェリクスをはじめ周囲の者たちにとっては不可解なことばかりであった。

「もう詮索はいいだろう。今は戦いの最中だ。ゲルトが信頼の置ける者を見つくろって、オスターベルクへ連れて行け」

「えっ、シュラインシュタットじゃないんですか?」

「……あそこは、ここよりひどくなっているかもしれない。無事であることを祈るが、とりあえず安全が確認できている場所を優先すべきだ」

「そうか、そうだった……」

 一連のやり取りの内容にもっとも衝撃を受けたのは、他ならぬロラントであった。

「シュラインシュタットが襲われているのか!?」

「てめえが心配することじゃねえだろッ! それとも、今さら里心がついたか!?」

「そんな……そこまでするなど……」

 初めて後悔の色をその顔ににじませ、ロラントはゲルトの部下に荒っぽい扱いで引っ立てられていった。

「大将、あんな奴のことなんて気にする必要ありません。今は、目の前の戦いに集中しましょう」

「わかっている」

 だが、そうしたところで苦戦の状況になんら変わりはなく、打つ手はもはやゼロに等しい。

 全体としてけっして押されているわけではないが、押しているわけでもなく、ただただ時間ばかりがいたずらに過ぎていく。

 変化が起きたのは、焦れたゲルトが手綱を握りしめ、再び前線へ向かおうとしたときのことだった。

「なんだぁ?」

「右翼、か?」

 そちらへ目を向けると、陣形の右前方が明らかに混乱していた。ノイシュタットの旗印が、不穏に揺らめいている。

「おかしい……」

「どうした?」

「閣下、共和国の隊は右翼のもっと奥にいます。実際の前線より内側でなんかやり合ってますよ」

「――そういうことか」

 その意味するところに思い至り、深々と嘆息するしかなかった。

「右翼の隊のいずれかが寝返ったということだろう。また厄介ごとが向こうからやってきたぞ」

「まさに〝また〟ですね。ダスクなんかに、餌でいちいち簡単に釣られるなんてどうなってるんだか」

 ――本当にそれだけならばいいが。

 ゲルトの愚痴を隣で聞きながらも、フェリクスは先ほどのロラントの言葉がどうにも気になった。

〝偽りに染まった生〟

 それが何を意味するのか、今はまだまったくわからない。しかし、あのロラントが離反を決意するくらいなのだ。よほどのことがあるのだろう。

 ――この私に対して言ったのか? それとも、ノイシュタットのことなのか。

 それさえも判別がつかない。この状況では自分が考えても無駄に思えた。

「大将、そろそろなんとかしないと」

「そうだな」

「なんだったら、俺が直接行って懲らしめてきてやりますよ」

「いや、駄目だ、ここで兵力を投入したら余計に混乱がひどくなる。おそらくあそこにいる者たちは、誰が味方で誰が敵かわからなくなっているんだ」

 舌打ちするゲルトの横で、フェリクスはひとつの決意をした。

「いったん、陣を後方へ下げるぞ。あそこに巻き込まれたら、全体がおかしくなる」

「それしかないようっすね」

 周囲の部下に理不尽な八つ当たりをしながら、それでもゲルトが迅速に指示を出していく。

 慌ただしい馬蹄の音が響いてきたのは、全体が少しずつ移動を開始してからのことだった。

 鞍にくくりつけられた急使を示す赤い布に、一同は不穏なものを感じた。

「申し上げます!」

「なんだ?」

「右翼の混乱は、エードゥアルト卿が寝返ったのが原因の模様! それに反発する者たちとの間で争いになっております!」

「なぜ、エードゥアルトまで……!」

 かの騎士は派手さこそないものの、いつも任務には忠実でそつなく諸事をこなしてくれる優秀な古参の騎士だった。

 オトマルの次に実績があるといっても過言ではない彼が、よもやこの曲面で裏切ろうとは。戦いで敗れることを超えた重みがあった。

「フェリクス様、まだ確定したわけでは……」

「わかっている。ともかく、密偵らにはなんとかして探らせろ」

「はっ!」

「我々も下がるぞ! 今がこらえどきだ!」

 自身がもっとも衝撃を受けているにもかかわらず、周囲に大きな声を張り上げて鼓舞する。

 まさにここを耐えなければならない。共和国との戦いは一進一退をくり返しているが、であるからこそ、ここで引くわけにはいかなかった。

 だが、ノイシュタット侯軍の動きは鈍い。今はオトマルだけでなく、ユーグもいない。そのうえ、ここまでの連戦の疲れもあるのだろう。厭戦気分は、兵士らの頭も体も重くさせていた。

 ――我が軍にこれほどの弱点があろうとは。

 他国との戦になって初めて露呈した数々の問題点。やはり領主たる自分のこころのどこかに油断があったとしか思えない。

 現在はもう、そんな隙はないはずと考えたかった。

 そう純粋に感じていたフェリクスであったが、残念ながら現実はより悪い方向へと動いた。

 突如として、ノイシュタット侯軍の足が止まった。見れば、方々で小競り合いが起きている。

 ゲルトは頭を抱えた。

「なんだよ、こりゃ!? まさか、あっちこっちで離反者が出てるんじゃないだろうな……」

「いや、ゲルト。これは〝上〟だ」

 目を凝らしてみれば、こちらの各隊の上空で翼人が暴れ回っている。ノイシュタットの兵士たちは、上方からランダムに仕掛けてくる相手に有効な対応ができないでいた。

「数が増えたようだ」

「どうやら、そうらしいっすね。上からの増援がこれほど厄介だとは……」

 戦いの当初からなぜかこちらの味方をしてくれているらしい翼人らも、その数の多さに対処しきれなくなっているようだった。

 ノイシュタット侯軍は引くことも戦うこともまともにできないという難しい状況に追い込まれていた。

 これが長引けば、窮地に立たされるは必然。

 やがて全体が乱戦と化し、命令系統まで無惨に寸断されていった。

 共和国軍との戦いはともかく、上からの攻撃が徐々にノイシュタット本陣へと近づいてくる。弓兵隊を警戒してか、無闇には距離を詰めてこないが、このままだとフェリクス直属の近衛隊が接敵するのは時間の問題だった。

 ――まずい。

 というのは誰にでもわかる。要点はここをどう切り抜けるかなのだが、その方法をまるで思いつかなかった。

 ――こんなにも己の未熟さを露呈することになるなんて……

 これまでずっとオトマルに頼り切りだった自分を恥じる。有事への対応能力がまるで足りていなかった。

 悔やんでいる場合ではない、今に集中しろと自身に言い聞かせても、次の瞬間には後悔が頭をよぎる。

 それを数回繰り返しているうちに、ついに近衛隊の直前にいる兵士たちが剣を引き抜いた。

 もはや、ここまでであった。

 ――そう、あれ(、、)を使うべきなんだ。

 迷うことは許されない。帝都のときと同じように、あの最大級の威力を持った兵器を持ち込めばかならずこの状況を挽回できるはずだった。

 すでに準備は整っている。あとは号令を発しさえすれば、すべて空から(、、、)完了する。

 だが、それは同時に最大限の〝狂気〟をはらんでもいた。

 使えば、敵だけでなく味方からの非難も免れない。

 使わなければ、このまま押されて負ける可能性もある。

 ――小父(おじ)上も、きっと同じ葛藤を抱いていたのだろう。

 あのとき、カセル侯ゴトフリートは例のものを用意していたにもかかわらず、結局は使わなかった。その決断は尊いものだったが、結果的には戦に負け、理想も夢も、花と散った。

 ――招いていいのか、同じ結末を。

 ノイシュタットを見捨てることはできない。

「私は――」

 視線を向けた先に見えたのは、雲間から見える一筋の光だった。

 圧倒的な武力を使うというその誘惑に、フェリクスは――勝った。

 それがどんな結果をもたらそうと、すべての責めを己が負う覚悟で。

 ――あのときとは違うんだ、私も、周囲も。

 だが、現実は厳しい。

 右翼が崩されたことにより、押しつ押されつだった全体の均衡が一方に偏り、ノイシュタット侯軍が押されはじめた。

 戦におけるもっとも危険な兆候がありありと浮かんでいた。

 ゲルトは苛立つ馬を手綱だけで器用に操り、主君のほうに向き直った。

「閣下、もはや限界です。今ならまだ間に合います、すぐにお逃げください。オスターベルク近くに:第二の防衛線が敷いてあります。そこまで行けば共和国は追ってこないはず。しんがりは我々が――」

「いや、ゲルト」

「しかし、閣下……」

「もう、遅い」

「なっ……!」

 このわずかな間に、敵が目前まで迫っていた。

 翼人だ。

 上空で謎の集団と戦っていた者たちが急速に降下し、明らかにこちらへと向かってくる。

 フェリクスの作戦は確かに定石ではあった。しかし、翼人の存在をあまり想定していなかったところに致命的な欠陥があった。

 近衛隊にも組み込まれた弓兵らが、急ぎ矢をつがえる。だが、敵はそれを恐れず、そのまま最速で突っ込んできた。

 まさに決死の覚悟。どうやらあの翼人たちにも、命を懸けるに値する何かがこの戦いにはあるようだった。

 ついに、近衛兵までもが接敵した。瞬きをするほどの間に周囲は乱戦と化し、もはや指揮官の声さえも届かなくなった。

 遠くに、なぜか味方してくれる翼人らがこちらへ急ぎ向かってこようとする姿が見えたが、間に合いそうにもない。

 ――これまでか。

 自身も剣を抜いたフェリクスの脳裏をよぎったのは、後悔よりもひとりの女性の背中だった。

 ――アーデ。

 彼女を、ついにひとりにさせてしまうことになるのか。

 だが、その思いは自然と否定された。

 ――いや、大丈夫、あの子には支えてくれる仲間がいる。

 今まさに、城にいるであろう者たちの顔が思い浮かぶ。彼らなら、きっとこれからもアーデを盛り立ててくれるはずだった。

 あきらめにも似た覚悟を決めたフェリクスの元へ、ついにそのときが訪れた。

「閣下ッ!」

 ゲルトの叫びが争いの中にあっても、明瞭に聞こえてくる。

 目に映るは、翼人たちの剣。

 危機が迫るその最中でも、頭にあったのは同胞たちへの感謝の思いだった。

 ――こんな私に、よくぞこれまでついてきてくれた。

 眼前の敵は三人。たとえ見苦しい姿をさらそうとも、最後の最後まで抵抗してやるつもりだった。

 異常なほど目を血走らせた男たちが、傷だらけになってまでそれでも前進してくる。

 ――彼らも、どうしようもなく必死なんだ。ならば、それを受けて立つまで。

 柄を握る手に、渾身の力を込める。

 驚くべきことが起きたのは、互いが間合いの一歩外まで近づいたときのことだった。

 無数の鋭い風を切る音とともに、何かが直上を通り過ぎた。

 一瞬ののち、いくつもの矢が突き刺さり、針山のごとき姿となった翼人たちが、速度を落とさぬままに地面へと落ちていった。

 間を置かずして、後方から大きな(とき)の声が上がった。

 振り返れば、巨大な騎馬隊が攻め寄せてくる。

「これは……」

 挟撃されたのかという最悪の予想は即座に否定された。

 そこかしこに見える青色の鷲馬(グリフォン)をいただく旗印は見慣れたものだった。

「あれは、ローエだっ!」

 ゲルトの叫びに、ノイシュタット側は歓喜の声を上げ、ダスク側は色めき立った。

 程なく先遣隊が到着し、さっそく戦闘に加わる。

 明らかに押されていたノイシュタット侯軍が盛り返し、空を飛ぶ翼人も次々と弩弓と大弓(おおゆみ)を持った二種類の弓兵の的となっていく。

 まさに、形勢は一気に逆転した。崩れかけていたノイシュタットの本陣が挽回し、前線でも共和国軍を押さえはじめていた。

 あっという間の出来事に、驚きの声を上げることさえできない。

 まったく予測しえなかったこの展開。

 ――ライマル……

 ローエ侯軍がわざわざやってきたということは、当然ながらあのローエ侯が指示したということ。

 なぜ、という疑問は出てこない。改めて考えるまでもないことだった。

 なかば呆然と成り行きを見守っている一同のところに、場違いともいえる陽気な声が響いたのは、全体の流れが完全に変わった頃合いだった。

「よう、フェリクス。お前のそういう顔を見ると、やったかいがあるってもんだな」

 その男は、いつもの格好、いつもの調子で、簡素な馬車に乗ってやってきた。どうやら、馬に乗れないという噂は本当らしい。

「ギリギリ間に合ったか。早めに出てきてよかったな」

「ライマル、どうして……」

「お前の追いつめられた姿を見てみたかったんだよ。成功者の失敗は、凡人にとっては花の蜜だからな」

「…………」

「ま、そんな顔すんなって。これで、少なくともこの戦いは乗り切れる」

「いや、すまないとは思っているんだ。本来ノイシュタットと共和国の問題なのに、それにみずから関与したローエの立場が危うくなる」

「それこそ、ダスクの奴らが狙っていることだろ? そんなことはどうでもいいんだよ」

 ライマルの目が向けられた先では、おそろしく勢いのあるローエ侯軍が見事なまでの連携で陣を展開していくところだった。

「しかし、どうしてこの状況を予想できたんだ?」

「お前が優秀だからだ」

「何?」

「嫌みじゃねえぞ。お前がまじめでまっすぐだから、きっと共和国側の策にはまって孤立するだろうと思っていた。ダスクは、帝国の内情をうまく突いてきたんだ。国同士の全面対決を避けるために、他の諸侯は動かないだろうってな」

「実際にそうなった」

「ああ、だから逆をやってやったんだ。まさか、ノイシュタットから一番離れたところが援軍に来るなんて思ってなかっただろうな。いい気味だぜ」

 戦いでは相手を驚かせたほうが勝ちだ。今頃、共和国の指揮官は不測の事態にあわてふためいていることだろう。自分たちが優勢だと思っていたのならなおさらだった。

 ローエ軍は見る間に共和国軍を圧倒し、あらゆる局面で相手を凌駕していく。味方であるはずのノイシュタット侯軍でさえ驚くほどその動きは速く、的確だった。

 しかも、それだけではない。各隊の動きの連動性にこそその特徴があった。

 それぞれがまったく勝手に動いているようでありながら、全体として高度に連携できている。各隊の対応は早く、隙はまるで見えない。

 だが、後方から見ているかぎりでは、命令系統が判然としないのだ。誰かが直接指揮を執っているようにも見えず、ライマルはあくびをしているだけだった。

 ――なぜ、こんなことが可能なんだ。

 それがフェリクスらノイシュタット側にとっての率直な疑問だった。

「判断を各隊に任せてるのか?」

「さすがフェリクス、ご名答。お前も、昔言ってたよな。もし全員が指揮官の軍がいたとしたら、最強か最弱のどちらかになるって」

「ああ。もし兵士ひとりひとりが優秀な指揮官なら、命令伝達の必要なしにすべてを迅速に行える。つまり、常に相手の先手を取れる」

「だが、普通はそうならない。互いの意見が対立したり、動くタイミングがバラバラだったりしたら意味ねえからな」

「そう、たいていはジレンマに陥る。現場に任せれば柔軟に早く対応できるが、それぞれが自分勝手な振る舞いをして齟齬が生じれば、全体としての連携は最悪になる」

「だったら、判断基準を明確化してやればいい。そのうえで、あとは好きにさせればいいんだよ」

 ライマルは、ただ笑っている。

 反対に、フェリクスの眉間のしわはさらに深くなった。

「それでも納得がいかん。明確な指針がなければ、誰しも普通は動けない」

「相変わらず頭が固いな、フェリクス。それは、お前が〝可能性〟を信じてないからだ」

「可能性?」

「ああ。できると思えばできるんだよ、何ごとも」

「…………」

 ――これだから天才は困る。

 ため息をつきつつ、フェリクスはこめかみに手を当てた。

「ライマルの考えは、凡人の理解できる領域を超えてる」

「俺のじゃねえよ」

「何?」

「全部受け売りだ――翼人の(、、、)な」

 翼人、と言われて改めて上空を見やると、全体の数は確実に増えていた。一方が一方をますます押しはじめ、見た目には共和国に味方する側が劣勢に感じる。

「ライマル?」

「なんだ?」

「どうやって翼人の隊まで引き連れてきたんだ?」

「あん? ただの偶然だろ」

 などと言って、わざとらしく口笛など吹いている。

 ――ライマルも、か。

 今まで翼人と人間が協力することに衝撃を受けてきたが、自分が遅れているだけなのかもしれない。そう思わざるをえないほど、翼人に近い人間は多かった。

 まだ戦いの最中にあるというのにそんなことを考えていたフェリクスの横で、ライマルはまったく別のことを懸念していた。

「集中しろよ、フェリクス。|敵は共和国だけじゃない《、、、、、、、、、、、》」

「…………」

「他の選帝侯が裏で共和国とつながっている。俺がここへ来た本当の理由は、それだ」

「もはや、何が起きるかわからないということだな」

「あれ? 驚かないんだな」

「まあ、考えてはいたよ、最悪の事態として」

 共和国の〝思いきり〟がよすぎる。その事実は、背後になんらかの担保があるとしか思えなかった。

 事実、帝国の領土が侵略の憂き目にあっているというのに、他の諸侯に動く気配はまるでない。

「邪魔をされないだけましだよ、ライマル」

「だといいが」

 ライマルの物言いに引っかかりを覚えたが、あえて問いただすことはしなかった。

 眼前で繰り広げられる戦闘は、局面が大きく変わりはじめていた。ローエ侯軍の助力を得たノイシュタット側が相手を完全に押し返し、上空では早くも敵方の翼人らが撤退を始めていた。

「ここまで来れば安心だ」

 にやりと笑うライマルの横で、フェリクスは眉をひそめた。

「だが……何か様子がおかしいぞ」

「あん?」

 確かに、全体の趨勢は誰の目にも明らか。しかし、それにしても状況が激変しすぎだ。

 やがて、ダスク側の陣形が二つに分裂し、まるで先ほどのノイシュタット侯軍の写し絵を見るかのごとく、内側から崩壊していった。

「ライマル、どう見る?」

「これは――」

 その答えは意外なところから返ってきた。

「共和国も一枚岩ではなかったということだ」

 背後から聞こえてきた低く重い声に振り返ると、そこには 鈍色(にびいろ)をした無骨すぎる鎧をまとった大男がいた。

「やっときたか、ゼルギウス」

「黙れ、道化! 貴様のせいでいらぬ戦いばかり増える」

 眉間の皺が定着するほどのしかめっ面をさらにしかめ、ゼルギウスと呼ばれた騎士は対象を呪殺せんばかりに睨みやった。

 その迫力、その風貌、まさに戦士といった(てい)をなしていた。

 ――きっと、オトマルが若い頃もこんな感じだったのだろうな。

 妙な感慨を覚えながら、フェリクスは二人の会話を隣で黙って聞くことにした。

「ところで、共和国がどうしたって?」

「フンッ、どうせ貴様がまたくだらぬ策を弄しおったのだろう」

「――そうか、仲間割れか」

 相手を籠絡ちょうりゃく調略しようとすることは、みずからの側も同じ憂き目にあうリスクがあるということ。

 慎重に思えるダスク側にも一縷の油断と過信があったのかもしれなかった。

「剣も抜かずに勝とうとするなど、男の風上にも置けん。それが領主たる者がやることか」

「それが領主の仕事だろ? 最初から武器を取って戦うなんて、愚か者のすることだ」

「それが男らしくないというのだ! 卑怯千万、姑息な悪知恵ばかり働かせおって」

「あー、いいのかな、そんなこと言っちゃって」

「何ィ?」

「いつも策を弄しているニーナを否定するようなら、嫌われちゃうぜ?」

「!」

 たった一言で、巨漢の戦士はその動きをぴたりと止めた。

 扱いやすい。

 だが、今は実直すぎる騎士を相手にしている場合ではなかった。

「そうだ、フェリクスに心当たりは?」

「ない。少なくとも私自身は指示を出していないが、家臣の誰かが独自に動いたのかもしれない」

「まあ、こっちもその可能性はあるが……なんでだろうな、少し嫌な感じがする」

「タイミングがよすぎる?」

「ああ、〝まさにここ〟って感じだろ? 最初からノイシュタットのためにやったんなら、もっと早い段階でなんとかできたはずだ」

「ノイシュタットに苦戦してほしいが、負けてほしくはない存在、か――」

「そういうことになるな」

 ならば、必然的にその影の対象は絞られてくる。

「はっ、我は裏切る奴らも、それをけしかける奴らも好かん。どちらも最低、それだけだ」

 相変わらずの怒ったような様子で、ゼルギウスはやや後方へと下がっていった。

 ――それはそうだ。

 背信はもっとも忌むべき行為だが、それをけしかけることも同程度に悪い。そもそも比較の意味があることではなかった。

 それにしても、

「個性的な面々が多いな」

「俺がまともに見えるだろ?」

 にやりと笑うライマルの一言に、思わずうなずいてしまいそうなったがとどまった。

 ライマルがもっとも特徴があることに変わりはなかったからだ。

 二人が見ている先で、ダスク側の軍が徐々に後退しつつあった。どうやら、ついに撤退を決断したようだった。

「相手もばかじゃなかったみたいだ」

「引き際がよくても、これまで失った犠牲が帰ってくるわけではない」

「フェリクスらしい答えだな。だが、それが戦争ってもんだ」

「…………」

 横に見える男の横顔は、まぎれもなく選帝侯のそれであった。

「やはりよく考えてるな、ライマルは」

「全部ある奴(、、、)の受け売りなんだよ」

「ある奴?」

「ま、そのうちわかるだろ」

 まだ答えるつもりはないらしく、どこかおどけた様子のライマルは緊張感のないあくびなどしている。

 だが、その表情が急に引き締められた。怪訝な色を宿した瞳をあちらこちらへと向け、左手を唇に当てた。

「ん? なんだこの音――」

「音?」

 すぐそばにいるフェリクスにはまだ何も聞こえない。しかし、ライマルの耳はそれを確実にとらえている様子だった。

 しばらくすると、他の面々も引っかかりを感じるその音を認識した。

「これは……」

「騎馬隊の行軍する音だ。フェリクス、ノイシュタットの援軍の可能性は?」

「いや、そんなはずは……」

 おそらくは今、シュラインシュタットの側も大変なことになっているはず。各地の守備隊の一部が応援に来た可能性もなくはないが、命令もなく防衛線を変えたのでは守備隊の意味がない。

 程なくして、その正体が白日の下にさらされた。

 曇り空の弱い陽光にも煌めく白銀の鎧。その姿はまぎれもなく、あの聖堂騎士団のものだった。

「な、なんでだよ。なんで大神殿が動くんだ」

 さすがのライマルも驚きを禁じえない。〝ノイシュタット対共和国〟という構図のなかで聖堂騎士団が参加する理由など一切ないはずだった。

「いや、ライマル。ひょっとしたら、大神殿の判断ではないかもしれないぞ」

「聖堂騎士団が勝手に動いたってことか?」

「ああ、大神殿はここまで愚かではないと思う。少なくとも今の大神官たちが、まだ帝都騒乱の影響が残るなかで、あえて戦闘の指示を出すことはないだろう」

「どうだか」

「何か気になるのか?」

「おかしな行動をとる存在ってのはな、大体同じあやまちをくり返すもんなんだ。俺は、大神殿の中身は結局変わってないって思ってる。現に聖堂騎士団がこうして動いてるじゃねえか、大神官の思惑はともかく」

 ――確かにそうだ。

 ライマルが懐疑的になるのも無理はない。本物の聖堂騎士団がやってきたという現実は変えがたく、またごまかしようもなかった。

「まあ、今は裏の事情なんてどうでもいい。それより、連中がそもそもどっちの味方なのか……」

 大神殿が帝都リヒテンシュタインにあるからといって帝国の味方であるわけでもないことは、先の騒乱で嫌というほどに思い知らされた。もう一度帝国に噛みついてきたとしても、なんら不思議はない。

 両軍が緊張感を高め、その動向を見守る。やがて聖堂騎士団の一騎一騎が視認できるほどに接近したとき、答えは明白となった。

 白銀の騎士たちは雄叫びを上げると進軍の速度をゆるめぬままに、前方にいるノイシュタット侯軍もローエ侯軍もお構いなしにその脇をすり抜け、撤退を始めたはずの共和国軍へ向かって勢いよく突っ込んでいく。

 これ以上の混乱を防ぐため深追いは避けていたというのに、聖堂騎士団が加勢したことでかえって状況が悪化し、敵味方が無軌道に交錯する大乱戦となり果てていった。

「なんとかして止めなければ!」

「でも、そんな手段ねえよ! 最速で突き進んでる奴らにどう話をするっていうんだ!」

 見る間に、ノイシュタットとローエの一部も突撃の命が出たと勘違いして呼応してしまった。こうなったからには、流れを止めることは誰にとっても難しかった。

「ゼルギウス!」

「――今我々が出れば、余計に混乱する。味方の犠牲を増やす真似をできるか」

 さっきとは打って変わって冷静な様子で、むっつりと背後に控えていた騎士団長は答えた。

「それもそうか……。ちくしょう、打つ手がねえな」

「大神殿は何を考えているんだろうな?」

「わからん。ひょっとしたら、大神殿側も今頃大あわてかもしれねえけど」

 だが、今は帝都の神殿を心配している場合ではなかった。結果的に退路を断たれた形となった共和国軍の必死の抵抗にあい、被害が目に見えて広がっていく。

 ――愚策中の愚策だ。

 これだから深追いは駄目だというのに、聖堂騎士団の指揮官はどうやら戦況をまるでわかっていないようだった。

 聖騎士と呼ばれるはずの者たちは、思うところあるのか狂ったように剣を振るっていく。次から次へと敵兵を屠り、大地を赤く染め、風に血臭を漂わせる。

 だが、ダスク側の兵士も覚悟の程度は同じかそれを超えるものがあるらしく、一歩も引き下がろうとしない。

「待つしかねえのか」

「そういうことだ。あまりに愚かな戦いになってしまった」

 無論、自軍に退却の命令を出してはいる。しかし、後方の隊はともかく、前線に近いところでは引くに引けなくなっているようだった。

 ことここにいたった以上は、情勢が収るのを待つしかなかった。

 どれくらいの時間が経ったろう、日が傾き、西の空が朱色(あけいろ)に侵食されだした頃合いになってようやく、沈静化の兆しが見えはじめた。

 やっと状況がわかったと見える聖堂騎士団が退却を開始した。それにつれて辺りに静けさが戻り、やがて両軍がそれぞれ全面的に撤退を始めた。

「くだらねえ戦いになった」

 ライマルが、そう吐き捨てるのも無理からぬことであった。フェリクスとてほぼ同じ気持ちだった。

 聖堂騎士団のいらぬ加勢のために、敵味方ともに疲弊し、得るものは何もない。

 互いに不要な血を流し、たいして成果も上げられぬままに戦いは終わった。

 ――またこの光景――

 荒れ果てた大地。

 そこかしかに散らばる無数の死体。

 これでは、帝都のあのときと何も変わっていないではないか。

 周囲には虚しさだけが漂い、空から射し込む光はあまりに弱々しい。

 空気は重く、まだ人はいるというのに生気をまるで感じなかった。

 二人の若き選帝侯の周囲で、優秀な部下たちは撤退の準備をそつなく始めていた。ノイシュタット側はゲルトが、ローエ側はゼルギウスが指揮を執っている。

 ふとフェリクスは、西の空を見上げた。不気味に紅く輝くその雲の下に、我らが故郷、侯都シュラインシュタットがあるはずであった。

 今、いったいどういう状況なのだろう。ユーグが戻って以来、伝令はなく、現状を推測することすらできない。

 ――アーデ、みんな、かならず生き残ってくれ。

 祈りが届くよう、もう一度西方へ目を向けるが、未だ夕陽は見えない。

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