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第二章 不穏

 ――あなたはなぜここにいるの?

 あのときの声が、今、鮮烈に思い起こされる。

 ――あなたはなぜ疑問に思わないの?

 問いつめるでもなく、ましてや愛撫するでもない言葉の塊。

 ――あなたはなぜ……生きているの?

 突きつけられた現実。己は返すべき言葉を持たず、そしてそこから逃げるようにして去るしかなかった。

 それが、〝彼女〟を最後に見た記憶だった。

 ――俺はなぜここにいるのか……

 自分でもよくわからない。おそらく、誰にもわからないだろう。見知らぬ翼人に襲われ、気がついたら人間の家にいた。

 怪我を負っていたのだからしょうがないのかもしれない。事実、今もまだ体を思うように動かせず、まともに歩くことすらままならなかった。

 それでも、なぜ未だに留まっているのかと問われると、答えに窮してしまう。翼人が、よりにもよって人間の厄介になることなど有り得ないはずだった。

 しかし、今こうして自分は確かにここにいる。そこには、ただの気まぐれや偶然ではない〝何か〟があるはずだった。

 ここしばらく、その理由を見出そうと思案しているのだが答えは一向に出てこなかった。

 そうした物思いを打ち破るように、扉が大きく軋む音が部屋中に響き渡った。

 ――帰ってきたな。

 本来の家の主が戻ってきた。しかしアセルスタンは、この瞬間が好きではなかった。

 ベッドから見える彼女の姿は、いつものとおり(、、、、、、、)疲れ果てていた。どうしたものか、顔も服も煤けて、服の裾のほうは破れてさえいる。

 そして、座るというより落ちるようにして椅子に収まり、上体を投げ出して机に突っ伏した。

 しばらく微動だにしない。今日は風がないのか、まるで物音がしなかった。

 ふと気がつくと、相手がこちらのほうに目を向けていた。

 でも、何も言わない。

 その沈黙に耐えられなくなったのはアセルスタンのほうだった。

「お前は何をやっている?」

「……何って」

 少し怒ったような表情で恨めしげな目を向けてくる。

「働いてる。毎日、毎日。でも、何も変わらないし、変わるはずもない」

「だったら、なぜ働く?」

「働かなきゃ……生きていけないから」

「そこまでボロボロになってか」

 言われて、エリーゼという名の女はようやく自分のみすぼらしい姿に気がついたのか、無駄とは知りつつ服についた汚れを一度、二度と静かにはたいた。

「……返さなきゃいけないものもあるから」

「返す? 何か借りたのか」

「私じゃない。私じゃなくて父が……たくさん借金を残してしまったから」

 そこで初めて、エリーゼの顔に悲しみの色が映った。それが疲れの暗色と重なり合い、彼女の顔に深い影を落とす。

「借金? 借金とはなんだ」

「え……?」

「何を借りたんだ」

「――お金よ。詳しいことは私も知らないけど、父がいろいろやっているうちにどんどん増えていったらしくて」

「金とはなんだ」

「……からかってるの?」

「俺は翼人だ。人間の世界のことはよく知らない。お前も、翼人のことはよくわからないだろう?」

「…………」

 まだ釈然としないものを感じつつも、エリーゼは律儀に説明してやった。

「お金は……何かを交換するときに代わりに使うものよ。どんな物にも価値が決まっていて、それに相当するお金を払えば交換できる。物と物とを直接手渡さなくてもすむようになる便利なもの」

「物の価値はどうやって決まるんだ。誰が決めた」

「そ、それは……」

「何を大切かと思うかは人それぞれだろう。どうやって価値を決める? その都度、揺れ動くのか?」

「そうだけど……」

 あまりそのことを深く考えたことはなかった。

 翼人の世界に金がないということも驚きだったが、それよりも人間の世界では当たり前のものとされている貨幣という存在に対して、生まれて初めて強い違和感を覚えはじめていた。

 納得がいかないのはアセルスタンも同様だった。

「つまり、金さえあればなんとでも交換できるということか」

「――ええ、それに見合った量さえあれば」

「だとしたら、おかしな話だ」

 アセルスタンが眉をひそめた。強い不満があるときによくする表情だ。

「金がすべての基準だというなら、それを集めるのが得意な奴が極端に楽をできるということじゃないか」

「……誰だって働かなきゃお金は得られない」

「それは嘘だ」

 アセルスタンは一蹴した。

「なら、どうして働かない奴が存在する?」

「…………」

「俺は聞いたことがあるぞ。たいして働かなくても、多くの金を集めている奴がいることを」

 あれは、ヴァイクたちと別れてしばらく経った頃だった。森の中を歩いていると何かの気配がし、さっと身を隠した。

 少ししてから近くを通り過ぎていったのは、馬に乗った人間の子供たちだった。

『まったく、やってられない。なんで俺たちだけ戻らなきゃいけないのさ』

『そう言うなよ、ドミニク。ダミアン様は僕たちのことを心配して送り返すことにしたんだと思う。今は、何かと物騒だからね』

『あーあ、早く俺も大商人になってがっぽり金を稼ぎたい。そうすれば毎日遊んで暮らせるし、好きなところにも行けるのに。それに、いつか騎士になることだって――』

 確か、そんなことを話していた。

 笑いながら話していたことからして冗談半分なのだろうが、重要なのは金を稼げば遊んで暮らせるという点だ。そのときはなんのことだかさっぱり意味がわからなかったが、エリーゼから説明を受けた今ならわかる。

「大方、ここへよく来るあのいけ好かない野郎もそうなんだろう。人間の世界には自分で働きもせずに偉ぶっているとんでもない奴がいるようだな」

 アセルスタンの視線には、明確に軽蔑の意が込められていた。

 働かないのに生きていける、しかも遊んでいられるというのは翼人からすれば信じがたいことであった。人としてこの世に生を受けた以上、誰もが何かしらの役目を負っている。

 何も大きな成果を上げろということではない。子供は子供のやれることをやればいい、年寄りは年寄りのやれることをやればいい。

 それぞれがそれぞれのできる範囲内でやる。それこそが〝己の役割を果たす〟、すなわち〝働く〟ということであるはずだった。

 しかし現実には、著しくバランスを欠いていた。

「お前は働き過ぎだが、怠け過ぎの連中もいる。それが人間というものか」

「…………」

「だが、わかってきたぞ。要は、働かん連中のために他の奴等がその分働かされているんだな。差し引きはゼロというわけだ」

 しかし、それは片方が片方を犠牲にする最悪の関係だ。しかも、一方が常に得をしている。

「そういうのを翼人の世界でなんと言うか知ってるか」

「…………」

傀儡師(くぐつし)というんだ。他を操っているだけで自分は何もしようとしない。翼人の間では最低の蔑称だ」

 ヴォルグ族に古くから伝わる奇談がある。

 ある男が、湖の岸辺に打ち捨てられていた操り人形を手に入れた。それは恐ろしくよくできたもので、動かし方をよく知らなかった男でさえ、指先を少し揺らせば思いのとおりにできるほどであった。

 やがて男は、どんなことでも人形にやらせるようになっていく。炊事、洗濯、あげくは友人と遊ぶことさえ自分ではしようとはしない。人形に魅入られたその男は、周りの苦言に耳を貸すこともなかった。

 その末期は、すべてを人任せにして自分でやろうとしなくなった結果、やがて足腰が立たなくなり、肉の塊となって腐っていくという悲惨なものだった。

「操られるほうも愚かだが、操るほうはもっと愚かだ。互いが互いを駄目にしていくということになぜ気付かないんだ」

「なら、翼人はどうだっていうの」

 それまで黙っていたエリーゼが、やや強い口調でアセルスタンに詰め寄った。あからさまに眉間にしわが寄っている。不機嫌そうなその顔は、なぜかアセルスタンとよく似ていた。

「私は聞いたことがある。翼人は殺し合う宿命を負っているって。もしそれが本当なら、翼人だって人間と変わらないじゃない」

「違う」

「違わない。自分たちのことだけ詭弁を弄するのはよして」

「違うんだ。俺たちは――嫌でも戦わなければならない明確な理由がある」

 アセルスタンは顔をしかめつつ上体を起こした。

「お前は同族の、人間の心臓を喰えと言われたら喰えるか」

「え……」

「俺たちは喰わなければならない。嫌でも、吐きそうでも。ジェイドと呼ばれる同族の心臓がなければ、俺たちは自分の命をつなぐことさえできない」

 わずかな沈黙。

 それを破ってエリーゼから出てきた言葉は陳腐なものだった。

「嘘……」

「嘘じゃない。こんな嘘をついても意味がない」

 アセルスタンは、ひとつため息をついた。

「信じる信じないはお前の自由だがな。俺たちが負った定めを、人間の世界のよくわからん関係と同じにしてもらっては困る」

「……うぬぼれないで」

「何?」

「同族の心臓が必要だなんて誰が決めたっていうの」

「だから――」

「今は確かにそうかもしれない。けれど、他に方法があるかもしれないじゃない。あなたは、それを探すことをしたの? あらゆる可能性を試してみたの? それをしてもいないのに、偉そうなことを言わないで」

「――――」

「人間だって必死に生きてる。どんなにつらくても生きようとしてる。操っているほうは知らないけど、操られてるほうだって頑張ってる……」

 そう言ったきり、エリーゼは再び机に突っ伏した。

 ――泣いているのだろうか。

 奇妙な罪悪感が腹の底から込み上げてくる。

 自分は間違ったことを言ったのだろうか、彼女を結果として追いつめてしまったのだろうか。

 しかし、そのことよりもずっと、今はある思いがこころを支配していた。

「ショックだ」

「……え?」

 エリーゼが顔を起こした。目が潤んでいるような気もするが、泣いてはいない。これくらいで折れる玉ではなかった。

「お前の指摘は鋭すぎる。しかも、俺がこれまで考えてもいないようなことだった」

 心臓(ジェイド)を得なくても生き延びられる可能性。

 それを夢想することはもちろんあった。しかし、これまで真剣にそれを模索したことがあったろうか。

 大半の翼人は『無理だ』と言う。それが、翼人の世界での〝常識〟だった。

 だが、逆に|なぜそう言いきれるのか《、、、、、、、、、、、》。ある可能性を完全否定することを許されるのは、それを最大限調べ、最大限やってみた存在だけだ。

 ――情けないのは翼人のほうだったのか。

 現状に甘え、安穏とした生を送ってきたのは人間ではなく翼人のほうかもしれなかった。翼人という種族全体が、〝仕方がない〟という諦念に支配されていた。

 だが、中にはそうでない奴もいる。

 おそらく、〝あの男〟はもがきつづけている。

 だからこそ、強い。

 体が(うず)いてきた。こんなところで寝ている場合ではないという思いが、強烈に体を内側から突き動かす。

 久しぶりに剣を振ってみようかとも思う。軽く右腕を動かすくらいなら問題ないだろう。

 だが、それは思わぬ形で遮られた。

 エリーゼがベッドに飛び込んできた。

「もう寝る」

「…………」

 この狭い家にはベッドがひとつしかなく、他に寝られそうな場所もない。よって、こうして共有(シェア)するしかないのだった。

「――お前は俺の知らないことをいろいろと知っているようだ。それに、気づかないことに気づく」

 返事は、ない。

「もう寝たのか」

 なかば呆れ、なかば苦笑する。

 強い女なのか弱い女なのか。そのどちらもか。

 それこそが人という存在かもしれない。

 不思議な女だった。

 寝相は悪いが。

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