第九章 第十八節
『外へは出るな』
そんなアーシェラの言葉が耳に残りつつも、中規模といえる館のロビーでネリーはひとり、右往左往していた。
外から断続的に響いてくる地鳴りのごとき轟音が、己の体だけでなく魂までも揺さぶりつづける。それらの中に混じる無数の悲鳴が、なぜか刃のように鮮明になってこちらを斬りつけてくる。
それから耳を塞ぎたくて、さっきまでは自室のベッドで布団にくるまっていた。だが、何をしようとその凶器ともいえる音は、無情にもこちらの内側へ入り込んでくる。
――じっとしているということが、こんなに苦痛だったなんて。
何もできない自分。
何も見えない自分。
――いや、そうじゃない。
|何もしようとしない自分《、、、、、、、、、、、》。
きっとこんな状況でなかったとしても、自分から進んで何かをしようとすることはなかっただろう。昔からそうだ、仕事や母親の看病を理由に新しいことから逃げつづけてきた。
自分ががんばっても、どうせ周りに迷惑をかけるだけ。
それでさえくだらない言い訳でしかないことを知りつつ、未だ動けなかった。
早く状況が変わってほしいというよりも、早く時間が過ぎてほしいと強く願う。
突然の変化が訪れたのは、二階の窓に何かがぶつかったときだった。
「え……!?」
壁が力強く叩かれたような音。
――まさか、翼人?
〝極光〟のみんなだろうか。そんな薄い期待を自分で即座に否定した。
いや、そんなはずはない。味方なら、正面から堂々と入ってくればいいはずだ。二階で起きている時点で、すでに何かがおかしかった。
どうしよう、と思案するまでもなく、すぐにあのやさしい仲間たちの言葉が思い起こされた。
――有事の際は絶対に動くな。
ナーゲルの困ったような表情を思い出す。
戦えない者がへたに動き回れば、暴徒や敵にとって格好の餌食になるだけだ、と。
――そう、私は戦えない。
できることは何もなく、やりたいこともたいしてない。なぜ自分はここにいるのだろうと、再びあの疑問が浮かんでくるが、今ばかりは目の前の事態に他のことを考える余裕はなかった。
――でも、どうしよう。
動かないほうが得策だとしても、今この状況でここに留まっていることが、はたして本当に正解なのだろうか。
少なくとも状況を確認したほうがいいのでは、館の付近くらいは大丈夫なのでは、と次から次へと取り留めもない考えが浮かんでは消えていく。
そういった素人の発想が身を滅ぼすことになるとも知らず、ネリーはついに決断したわけでもないのに館から飛び出した。
「!」
わっ、と轟音が圧力となって押し寄せてくる。早くも後悔が胸をよぎるが、状況がわからないまま怯えているよりはましと自分に言い聞かせ、二階の音がした方向へ向かった。
「これは……」
窓の一部が薄汚れている。見れば、その直下に羽が数枚散っていた。
――鳥?
たまたまぶつかったのだろうか。それとも――
と考えた瞬間、外の光景の異様さにようやく気づいた。
「翼人……」
空を舞う無数の影。それは、まぎれもなく翼を持つ者たちの姿だった。
最悪の事態が脳裏をかすめる。
――また〝極光〟と新部族がぶつかることになってしまったというの?
過去の因縁は双方から聞いていた。それが不幸な衝突であったことも。
憎悪の炎が再燃したというなら、互いにまとまった被害は免れない。
それは、互いの仲間を失い、これまでの交渉がまったくの無に帰すことを意味していた。
――いけない。
このままでいいはずがなかった。ネリーは突き動かされるようにして、今度こそこころの底から決断した。
「止めなきゃ……私が止めなきゃ!」
あそこへ行ったところでたいしたことはできないかもしれない。しかし、それでも〝極光〟唯一の人間である自分ならば、わずかでも何かができるはずだという予感があった。
膝が震えながらも、確かな一歩を踏み出した――その直後だった。
「待て、ネリー!」
上空から降ってきた声に打たれたように振り仰ぐと、そこには見慣れた紅色の翼がいた。
「アーシェラ……」
「なんで外に出ている。中でおとなしくしてろと言っただろう」
「でも」
「でもじゃない。こんなときに外をひとりで出歩いていたら、襲ってくれと言っているようなものだ」
怒ったような口調で、しかしどこか心配の色を漂わせて言うアーシェラの表情は硬かった。
「今、街のほうで暴動が起きている。楽観視できる状況じゃない、少しは自重するんだ」
「どうして……」
「わからない。ただはっきりしているのは、ここなら安全ということだ。暴徒は、なぜか城のほうへ向かっている。ここのような外延部には興味ないんだろう」
「城へ?」
「大勢としては、あっちこっちで暴れているだけだが。暴徒の側に統一された意思はないらしい」
それが暴動というものだ――と、アーシェラの口調はいつものように淡々としていた。
「念のため、フーゴたちが崖下の道で見張りをしている。仮に一部がこっちへ来ても、上がってはこれないだろう」
「それは知ってる。新部族の方が教えてくれたから」
「新部族の?」
「アーシェラがさっき飛び立ってから、ひとり来たの。ヴァレリアっていう翼人の女性だった」
「ヴァレリア……」
――まさかな。
ふと思いついた人物の面影を脳内から消し去る。あるはずがないことを気にしても意味がない、今は眼前のことに集中すべきだった。
「それより、ネリー――」
「アーシェラ、あれ!」
鋭い声に示された方角をうかがうと、戦線の一角が崩れた。荒れ狂う人の波が、さらに街の奥へ奥へとなだれ込んでいく。
どちらが優勢かは、火を見るよりも明らかだった。
「どうして? 私は戦いの素人だけど、兵士さんたちのほうが押されている気がする」
「どうも、三対二の状況らしい」
「え?」
「暴徒対兵士、翼人対翼人。でも、暴徒のなかに妙に戦い慣れた奴らがいる」
「そうだ、あの翼人たちは? 新部族の人たちなんでしょう?」
「半分はそうだが、相手がわからない。少なくとも〝極光〟ではないが」
「そっか……」
その事実に安心しつつも、〝極光〟ではないという言葉に喜んでしまう自分が嫌だった。
――目の前で、確かに傷ついている人がいるというのに。
「どうした、ネリー?」
「ううん、なんでもない。じゃあ、人間のほうはどうなの? 傭兵も参加してるってこと?」
「さあな、どこかの国の兵士かもしれない。いずれにせよ、我々には関係のないことだ。いいか、絶対に近づくなよ」
「関係ない、か……」
うつむいたネリーの表情は、アーシェラの位置からは見えなかった。
「本当にそうなのかな」
「何?」
「目の前で苦しんでる、傷ついてる人たちがいるのに手を差し伸べないなら、暴力を振るう側と何が違うんだろう」
見て見ぬ振りをするなら、傷つけているのと同じではないのか。
それを聞いたアーシェラは、あからさまに眉をひそめた。
「きれいごとを言うな。世の中、できることとできないこと、やっていいことといけないことがある。それをわきまえずに正論を語るのは、それこそ無意味だ」
なぜか、アーシェラの口調はいつもより厳しいものをまとっていた。
だが、今ばかりはネリーも引き下がらなかった。
「やりもしないで、どうして『できない』ってわかるの?」
「…………」
「手を伸ばせば届くかもしれないのに試すことすらしないなら、たぶん人が傷つくのを笑って見ているのと変わりがない」
「それは違う。|やれる;ことをやらないのと、@bやれない《、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、》ことをやらないのとでは意味が異なるはずだ」
「じゃあ、なんであなたは私を気づかってくれるの? 意味がない、何もできないかもしれないのに」
紅色の翼を見るネリーの瞳は、どこか儚げだった。
「人を助けることを拒むなら、人から助けられる資格なんてない」
「――そうかもしれない」
「アーシェラ」
「私がお前に構うのは、たぶん私自身がお前に助けてほしいからだ」
無自覚のうちにも自覚していた真実。
自分はこころのどこかで、ネリーをよりどころとしていた。それを否定するつもりはないし、否定したらすべてが虚しくなってしまうような気がした。
「だからこそ、お前に何かあったら困る。無謀なことをやろうとする仲間を止めることの何が悪いんだ」
そう言われてしまっては、今度はネリーが答えに窮する番だった。
だが、二人に現実の選択が迫ってきた。
「あれは……」
視線を泳がせたネリーが見たのは、暴動に巻き込まれたらしい市民の一団だった。暴徒だけでなく兵士や衛兵らにまで押され、崖下の一角で右往左往している。
そんななかに巻き込まれたひとりの少年が圧力に負けて倒れ込み、人の波のなかに消えていった。
「いけない!」
アーシェラが止める間もなく、弾かれたようにネリーが駆け出した。
気がついたときにはもう、斜め前方にある樹木の間から飛び降りていた。
――何を……!
焦る暇さえなく、急ぎ飛び上がった。
華奢なネリーは、崖のあいだに這うようにして伸びる小道を滑るようにして降りていた。
――こんなところに道があったなんて!
今までまるで気がつかなかった。走るネリーを止めようにも、木々の枝葉が邪魔になってこれ以上降下できない。空が飛べることの思わぬ盲点だった。
対応を迷うあいだにも、ネリーはひとり駆けていく。下方の騒ぎは街の中央ほどではないにしてもひどいことには変わりなく、無防備に近づいていいはずがなかった。
――ネリーがこんなことをするとは……
別の面で、驚嘆の念を禁じえない。いつもみんなの後ろに控えて引っ込み思案だった彼女が、みずから危険な道を進むとは。以前は考えられないことだった。
心中の葛藤ゆえか、それともこれこそが彼女の本質なのだろうか。
だが、そんなことを気にしている場合ではまったくなかった。戦いは激しさを増し、方々で混乱が広がっている。
ネリーは、そんな予断を許さない状況の中へみずから飛び込もうとしていた。今一番近くにいる自分こそが、彼女を強引にでも止めなければならない。
それが〝極光〟の者たちへの、せめてもの償いと思えた。
下に降り立ったネリーは、倒れている子供の元へ一心不乱に駆けていく。
「止まれ、ネリー!」
一喝するものの、彼女が走る勢いを落とすことはなかった。周囲の暴れ回る男たちに弾かれるのも構わず、正面へ突っ込んでいった。
アーシェラは舌打ちをする暇さえなく、必死の思いで追った。何かがあってからでは遅い。取り返しのつかない事態になって後悔するようなことだけはしたくなかった。
焦燥感に駆られる翼ある女の視線の先で、ネリーはついに倒れている少年の元へたどり着いた。
「大丈夫!?」
「は、はい」
応える声は、意外なほどしっかりとしていた。
まだ少年といってもいい風貌の彼は、ネリーの手を借りて立ち上がると怯えた目で周囲を見回した。
「ドミニク……」
「え?」
「ネリー、後ろだ!」
低い女の声に急ぎ背後を振り返ると、目を血走らせた大男が、今まさに無骨な棍棒を振り下ろさんとしているところだった。
アーシェラが間に入って止める間は、ない。
――頼む、時間を稼いでくれ!
一目でわかる、あの程度の男など自分の相手ではないが、間に合わないのでは元も子もない。
しかし、厳然とした事実として相対距離はあまりに分が悪い。今からでは一撃目を押さえ込むのは難しかった。
――こんなところで……!
こんなところで、こんなことでネリーを失うわけにはいかない。
されど、どんなに最速で飛ぼうと、相手の棍棒に手が届きそうにはなかった。
アーシェラが目をつぶりたい衝動に駆られた次の瞬間、想定外のことが二つ起きた。
ひとつは、男があからさまによろめいたこと。
そしてもうひとつは、その男に突進したのが当の助けられた少年だったことだ。
――よし。
形はどうあれ、あまりにも貴重な時間をそれによって稼ぐことができた。
鈍い動きで体勢を立て直そうとする男との距離を一気に詰め、まだこちらを視認できてさえいない相手の首筋を柄頭でしたたかに打ちつけた。
男は口を大きく開けて声にならない叫びを上げながら、声もなく倒れていった。
だが、それで終わり、というわけではなかった。
剣を振る翼人を見て怯えるかと思いきや、周囲の暴徒たちはますますいきり立って、次から次へと襲いかかってくる。
ネリーが悲鳴を上げる間もなく、アーシェラは再び戦いに巻き込まれていく。
まるで獣のごとく猛り狂う暴徒をいなしては叩き、かわしては押し、どうにかして無数の暴力という名の風をかいくぐる。
それはまるで、敵意の嵐のなか翻弄される鷹のようであった。
――翼人と人間との関係はしょせんこんなものだ。
この暴動だけが原因なのではない。
以前から存在する根源的な忌避の感情。
それらが戦いの熱と、黒い狂気と相まって、翼人に対する圧倒的なまでの敵意を形成している。
――ネリー、見ているか。
アーシェラはなぜか、この光景をネリーにこそ見てほしかった。翼人と人間との共存を望む彼女にこそ。
ネリーに苦しんでほしいからではない。この世界の〝現実〟を知ってほしいのだ。
理想を追い求めるなら、かならず厚い壁にぶつかる。そうなってからあわてふためくのではなく、今のうちから状況をわきまえ、己がどうすべきなのか考えておいてほしかった。
だが、そんな悠長なことを思っている余裕などなかった。
敵の数は圧倒的で、押されることはないが、引く余裕もない。唯一の救いは、彼らが弓を使わないことだけだった。
さすがに、だんだんと息が切れてくる。剣を握る手が汗で濡れ、振るうごとに雫が飛ぶ。
――このままでは――
いつか体力が切れるであろうことは目に見えていた。
力量の差ではない、まさに物量の差であった。
――もう、やるしかない。
これ以上、〝不殺生〟を守りながら戦うのは限界だった。
武器を手に取り、戦いの場に赴いたからには、すべてを覚悟しなければならない。
そう、それこそが戦いの場に身を置く者の定めだった。
「駄目っ、アーシェラ!」
「!」
一気に殺意を高め、目の色の変わった彼女を押しとどめたのは、いつもの声であった。
不意のそれに思わず剣を取り落としそうになったアーシェラであったが、急ぎ体勢を立て直し、眼前の相手を押し返してからネリーを横目に睨んだ。
「無茶言うな、ネリー! みずから戦いを望む奴らに慈悲をかける必要なんてない!」
「違う! 私はあなたのために言ってるの!」
「――――」
ネリーの目は、この上もなく切実だった。
「もうこれ以上、あなたが苦しむ必要なんてない。暴力を振るったとき、傷つくのは相手だけじゃないの」
「ネリー……」
「もう、自分を傷つけなくていいよ、アーシェラ」
戦いの最中だというのに、紅色の翼は自身のこころがすうっと晴れていくのを感じた。
――ネリー、やっぱりお前はただのお人好しだ。
こんなときでも、こちらのことを気づかっている。ばかなくらいお人好しだった。
「私たちのことはいい、もう逃げて! それくらいならすぐにできるでしょ!? こっちは、自分たちでなんとかするから」
「そんなことできるわけ――」
「ドミニクッ!」
反論しようとしたアーシェラの声は、しかし、少年の叫びによって遮られた。
見れば、右手奥のほうに視線を落としている。
そこには、気を失ったらしいひとりの少年が薄汚れた顔で倒れていた。
――あの子の仲間か。
と、考えたのがアーシェラの運の尽きだった。
わずかに右へそれた視野の死角、すなわち左から、大男が棍棒を振り下ろしてきた。
「しまっ……!」
防御は間に合わない。そして、四方には目をぎらつかせた男たち。
素人のネリーが現状を認識する前に、アーシェラはすでに己の敗北を悟った。
――ここまでか。
自分でも嫌になるくらい冷静に、すべてを受け入れはじめた。
――ネリー、なんとか逃げろよ。
こんなときでも他者を思いやれるようになったなんて、少しでも自分は変われたのだろうか。
そうなのだとしたら、それはまさに彼女の存在のおかげだった。
〝誰かを守るために死ねるんだったら悪くない〟
昔、そう言っていたのは誰だったろう。記憶の片隅に残るわずかな思い出は稀薄で、その言葉の主を知らせてくれることはなかった。
現実の世界では一瞬ののち、視界があっという間に暗くなる――ことはなかった。
目の前を覆ったのは朱色の翼。それが羽ばたく間もなく、周囲の男たちは倒されていた。
大きなこぶはできているが、誰も血を流してはいない。
「大丈夫か?」
「お前は……」
新部族のレベッカ。アーシェラが最初に接触した女戦士であった。
「――私は問題ない。それより、あの子を。私はもうひとりの女をつれて飛ぶ」
「わかった」
今は時間が惜しい。一刻も早くここから離脱せねばならなかった。
アーシェラがネリーを、そしてレベッカが小柄な少年を抱えて飛び上がろうとしたときのことだった。
「あっ、ドミニクが!」
少年があわてて叫ぶが、レベッカにはなんのことかわからなかった。
しかし、奇しくもその少年の願いは叶うことになった。
「いたぞ、翼人だッ!」
鋭い声が上がる。それは、狂った暴徒たちの雄叫びとはまるで質の違うものだった。
「衛兵隊、集まれ! 弓を構えろ!」
統一された青い制服をまとった男たちが、表情ひとつ変えることなく隊列を組み直し、弩弓に矢をつがえた。
「待って! 私たちは敵じゃない!」
ネリーが今こそ自分の役割とばかりにレベッカらの前へ進み出て無実を訴えるが、訓練されすぎた衛兵らがぶれることはまったくなかった。
撃たれる。
その事実に、アーシェラはネリーを、レベッカは少年をかばうべく動いた。
「よせ! その者たちは敵ではない!」
弩弓の引き金に指をかけた衛兵らが、はっとして顔を上げた。
「これは……まさかヨアヒム卿!?」
そこに立っていたのは、衛兵のあいだでも有名な大柄な騎士、ヨアヒムに他ならなかった。
「よく見ろ、お前たち。彼女たちが本当に非道の者だったら、ああやって人間の子供や女性をかばうと思うか」
「あ……」
今のわずかな隙に、レベッカもアーシェラも背後の二人を完全に守れる位置に立っていた。その姿は、他者を救おうとする者のそれに他ならなかった。
「落ち着いて聞いてくれ。どうやら、我々に協力してくれる翼人たちも存在するようだ。無闇に彼らを攻撃するのはやめてくれ」
「そんなこと申されましても……」
「お前たちだって本当は気づいていたはずだ、いろいろな翼人がいることを。今だってほら」
上空を見上げれば、翼人同士での戦いをつづけている。見ようによっては、片方が襲撃者から侯都を守ろうとしてくれているように思えなくもなかった。
「しかし……」
「ともかく、ここは俺に預けてくれないか。お前たちは、暴徒の鎮圧に専念してくれ」
「わかりました、ヨアヒム卿がそこまでおっしゃるのなら」
まったく納得してはいない様子ではあったものの、近衛騎士にこうまで言われて反論するわけにもいかず、衛兵隊は渋々下がっていった。
その背中を見届けてから、レベッカが歩み寄った。
「助かった、ヨアヒム殿」
「……私だって、まだ混乱しているんだが」
「そんなことを言っている場合ではないことは、あなたならわかるだろう? アーデが無事だったんだ、あなたはこのまま新部族の地上部隊を指揮して、暴徒の鎮圧に当たってくれ」
「――わかった」
まだ何か言いたげではあったが、状況をよくわきまえているヨアヒムは指定の場所へ向かおうとしたが、ふと足を止め、振り返らぬままに口を開いた。
「それにしても」
「うん?」
「こう言ってはなんだが、フェリクス閣下の策は、ことごとく裏目に出るな。訓練されすぎた兵は、目の前にある現実が逆に見えなくなっている。民を守るための衛兵のはずが、迷わず君たちを攻撃しようとするなんて……」
「きっとアーデ……いや、アーシェラも同じ気持ちだろう。だからこそ、彼女は苦しんでる。我々は、そんな彼女の力になりたいんだ」
「それはわかっている。私も同様だからな」
ひとつうなずいてから、ヨアヒムは今度こそ去っていった。
後ろを振り返ったレベッカの視線の先にいたのはアーシェラだった。
「そうだ、君は確かア――」
「レベッカだったか。助太刀感謝する」
「もう仲間なんだから当然だ。その方は、我々新部族にとって重要な人物なんだ。何かがあったら、大変なことになっていた」
「知っている」
「ところで、君のその剣――」
レベッカの目は、血のあとのないアーシェラの細身の剣に向けられていた。
「これが何か?」
「いや、剣そのものではなくて、さっきの戦い方だ。踊るように剣を振るっていた」
上空から見たとき、それはまさに剣の舞と称してよいものだった。
ユーグのそれもすごいが、彼の剣は男らしい〝剛の剣〟。
彼女のそれは、まさしく〝柔の剣〟であった。
「マネ・ソルという名の部族を知っているか? 私が元いた部族だが、似たような動きをする技があった」
「――知らない。私は元々、ヴォルグ族以外の部族のことを知らなかった」
「そうか」
それっきり興味を失ったかのように、レベッカは不安げな様子を隠そうともしない少年のほうへ目を向けた。
「子供のことは任せてくれ。私の仲間に預けてくる」
だが、当の少年にレベッカの言葉は届いていなかった。
ドミニクの姿が、ない。
ルークは、呆然と周囲を見やっていた。さっきまですぐそこで倒れていたはずなのに、なぜかいなくなっている。
――まさか、連れ去られた?
嫌な予感が急速に増していく。その不安に後押しされるように一歩を踏み出そうとしたとき、肩を軽く摑まれた。
「少年」
「あ、はい……」
「もう行くぞ。名は?」
「ルークです。でも、自分の友達が……!」
「悪いが捜している余裕はない。今は、自分たちの安全をまず確保しないと」
「…………」
わがままを言える立場ではないことは重々承知していた。それに、自分がここにいてできることはないことも。
子供を抱えて飛び上がっていく朱色の翼を見上げながら、アーシェラはひとりこころを沈ませていた。
――やはりあの女、クー族の――
複雑な思い、苦しみが、どうしようもなく再び込み上げてくる。〝アイラ〟として初めて会ったとき、もしやとは思ったが。
いやおうもなく、昔日の思いが甦る。そして、あのときの光景も。
――ミランダ様、私は結局、間違った方向へ来てしまった。
視線を落とし、己のものであるはずの剣を見る。その本来の強みであるはずの軽さが、自身の空虚な内面を象徴しているかのようで憂鬱になる。
暗い表情のまま赤い柄の剣を鞘に収める彼女を、背後のネリーは心配げな目で見つめていた。




