第九章 第十七節
方々から立ち上る不穏な土煙はあたかも狼煙のようでもあり、それが見えるだけでいやおうもなくこころが騒ぐ。
――状況は変わらず、か。
ノイシュタットにとっての戦況は思わしくない。ただの暴徒と思っていた相手はその大半が正規兵で、異様に士気が高いという現実が前線の兵士たちを戸惑わせている。
無理もない。他国との戦ともなればそれなりの〝覚悟〟が必要だというのに、その準備がまるでできなかった。いや、させてやれなかった。
万全を期したつもりが、この体たらく。戦というものの恐ろしさを思い知ると同時に、自分への失望が込み上げてくる。
「己という指揮官はこの程度か――」
「何をおっしゃいます、フェリクス閣下!」
元気のいい声が横から飛んだ。
青鹿毛の馬上にいるのは、近衛騎士でありながらいつもは最前線にいるゲルトであった。いくら現在ではその位が名誉職化しているとはいえ、ノイシュタット侯軍のなかにおいても希有な存在であった。
「ゲルトか」
「御身はノイシュタット――いえ、帝国の希望。我々にとっても大事な支えなんです。お気を確かに」
「気は確かなんだが」
思わず苦笑してしまうが、当の本人はどこ吹く風、すでに抜いた剣をブンブンと振り回している。
いつもこうだ。ゲルトと一緒にいると、下を向こうとする己の弱気がばかばかしくなってくる。
「じゃあ、ゲルト。お前は現状をどう見る」
と、問いを投げかけたとたん、すっと表情が変わった。
「――左翼、右翼では健闘していますね。だが、中央が動かない」
「ああ。結果、両翼も押し切れないでいる。膠着状態なんだ」
「でも、空には翼人……」
見上げれば、翼を背に持つ者たちが手に手に武器を持ち、それらをぶつけ合って真正面から戦っている。
「我々への被害は減った、が」
「どちらも信用できませんね。なんせ翼人です。何をしでかすかわかりませんよ」
「帝都でのことを思えばな。しかし――」
翼人への偏見。
これまでの一連のことから、それらが引き起こす問題を痛いほどに思い知らされた。かつての自分を振り返り、今を思う。
複雑な思い、苦い感情が込み上げてくると同時に、ふと隣の青年騎士に聞いてみたくなった。
「お前はどう思うんだ、翼人という種族そのものを」
「さあ? わからないことはわからないままにしておきます。自分は自分の目で見たものしか信じません」
「今までいくらか見てきたんじゃないのか?」
「遠くから見ただけでは、その中身はわかりませんよ、大将」
「違いない」
てっきり毛嫌いするものかと思いきや、ゲルトは正論をかましてみせた。
――まっすぐな彼らしい意見だ。
「だが、少なくとも直接戦う必要はないだろう?」
「敵の敵は味方ですか? ぞっとしねえ」
「味方の味方が敵かもしれないが」
「帝国なんてみんなそうですね」
「常にやり合っている選帝侯同士では、そもそも味方が敵である可能性も高いからな。今回の一件もひょっとしたら」
「まさか。誰かが裏で取引でもしたっていうんですか?」
「そのまさかが起こる時代だ。つい昨年までは、まさかカセル侯が翼人とつるむなんて誰も思わなかった。聖堂騎士団もな」
「ううむ……」
「おっと、話なんてしている場合ではなかった」
気を取り直して前方を見やれば、まさに翼人の一団がこちらへ向かって飛んでくる。
その様子は、友好的には程遠い。
さしてあわてることもなく、無言のままゲルトは背負っていた弓を取り出し、三つの矢を同時につがえた。
それらを一度に放ったのは、敵の集団が間近にまで迫ったときだった。
三つの影が、それぞれ甲高い風切り音を響かせながら、影も残さず飛んでいく。
狙いあやまたず、見事、それらはほぼ同時に標的を刺し貫いた。
生き残った者たちは射手を怒りに満ち満ちた視線で睨みつけるが、撃ち抜かれるのを恐れてかそれ以上近づいてこようとはしない。
表情を変えることもなく、ゲルトは弓を構えたまま主君のほうを見向きもせずにつぶやいた。
「閣下、下がっていたほうが」
「……お前は、剣にはこだわらないんだな」
「武器にこだわるなんて愚か者のすることですよ。効果が出るならなんでも使います」
「なるほど、オトマルに聞かせてやりたい言葉だ」
「ま、口うるさい年寄りほど放っておけってね。うちの家訓です」
と、戦いの最中にあるにもかかわらず、口の端を吊り上げてみせる。
――傭兵出身のエルトラント領家らしい言い分だ。
その出自ゆえに侯領内には彼らを軽く見る向きもあるが、そんなくだらない風評などどこ吹く風、彼らはすべてを実力で否定し、現実を覆してきた。
少なくとも今の騎士団に、ゲルトを恐れることはあっても、彼を侮る者などひとりとしていない。
「どうした!? 来いよ!」
動こうとしない相手に、騎士らしからぬ短気な男は苛立ちを隠そうともしなかった。
「なんか妙ですね。奴らもそうだけど、どうも全体的にすっきりしねえ」
「膠着状態だからな。おそらく、敵も似たようなことを感じているだろう」
「いや、そうじゃないんですよ。なんというか、こう……とにかく引っかかるんです。もちろん、相手も本気で攻めてきてることはわかる。でなきゃ、俺たちがとっくの昔に叩いてます」
「それはそうだ」
「ユーグやヨアヒムの奴だったら、この違和感に気づけたんだろうけど」
「長引かせたいのかもしれない、共和国は」
「そうですか? いくら隣り合っているからって、長引けば不利になるのは向こうのほうだと思うけどな。補給の面からしても」
「待つ甲斐のあることも他に考えられるだろう?」
ゲルトは、はっとした。
「――まさか援軍が?」
「可能性は想定している。オトマルも『敵は共和国だけとは思わないほうがいい』と言っていたよ」
「現に翼人が現れた、か……」
敵の味方は確実に敵だ。敵の狙い以前に、そもそもなぜ戦況が膠着しているのかという根本的な部分の原因が未だ判然としないが、それを気にしてばかりもいられない。
今まさに、戦闘はつづいているのだから。
――だが、確かに嫌な感覚ではある。
先ほどのゲルトの言葉が思い起こされた。
〝効果が出るならなんでもいい〟
――私に最後の手段を使わせないでくれよ。
万が一、決断しなければならない状況に陥ることへの恐怖に怯え、フェリクスは我知らず手綱を握る手に力が入った。
「そういやあ、どうしてユーグを戻したんですか? あいつがいれば、もう少しましだったのに」
「ただの勘だよ。オトマルがいるから大丈夫だとは思うが、侯都だけは万が一のことが起きてもらっては困る」
「万が一?」
「杞憂で終わりそうだがな。いつも私の勘は最悪な方向に外れる」
言っているそばから、眼前で優勢であったはずの左翼が崩壊した。相手の勢いを止めることすら叶わず、なし崩しに後退させられていく。
そこは、本来ならユーグが担うべき戦域であった。
「我々、本陣で対応するしかないようだ。ここからは、お前の戦いぶりに期待しているぞ」
「姫の奴隷騎士と老いぼれ騎士の分、合わせて三人分働いてやりましょう」
「頼もしい限りだ」
青年騎士の自信に満ちた言葉とは裏腹に、戦況は確実に悪化していく。
いても立ってもいられないとばかりに、ゲルトは手綱を握り直した。
「俺が行きますよ。前線で指揮を執ります」
「わかった」
フェリクスが頷きを返すと、さっそく馬首を巡らせ、裂帛の声とともに駆けていった。
――ユーグ、お前たちには何もないことを祈る。
意識を眼前に集中させようとしても嫌な感覚が消えないことに、フェリクスの指先はかすかに震えていた。




