第九章 第十六節
侯都シュラインシュタットの混乱ぶりは、常軌を逸したものであった。
方々で逃げ惑う人々が互いにぶつかり合い、混乱がさらなる混乱を呼び、局所的に沈静化する気配すらない。
現状、暴動の広がりを止めようがなかった。暴徒による蛮行はなおいっそう過激さを増し、この混乱に巻き込まれる人々の数は際限なく増大していく。
――はたして、これを暴動と呼んでいいものか。
オトマルは城の高い位置にあるベランダから全体の状況を見下ろし、ひとり思案していた。
このままではらちが明かない。被害は確実に拡大し、兵士も民も倒れゆく人々があとを絶たない状況だ。
本来は、こうして眺めている場合ではなかった。
「ええい、どうしたらいい!?」
苛立ちまぎれに、ベランダの手すりを拳で叩いた。
歯ぎしりをして思わず己の剣を摑みかけたオトマルに、部屋の中に控える従者の誰も声をかけることができない。
そんな場に突如として現れた大柄な男に、周囲は目をむいて驚いた。だが、未だいきり立つ老将は気づかない。
「オトマル卿」
「お前は――」
背後からの声に、はっとして振り返る。
そこにいたのは、かつての部下、騎士を辞したはずのヨアヒムであった。
「どうしてここに?」
「危急を聞きつけて駆けつけました。それより、この状況は……」
「うむ、我らの見込みが甘かったようだ」
「ある程度、予想はしていたということですか」
「翼人の襲撃はな。しかし、よもやここシュラインシュタットで暴動が起きようとは――」
考えたくはないことであった。とはいえ、現にそれは起き、すでに激化している。
かねてより翼人への対策は進めてきたものの、侯都で暴徒が暴れることへの対応はさすがにしてこなかった。
予想できなかったという言葉は言い訳にはならないだろう。
各地の貧困。
リファーフ事件。
そして、フィズベクでの叛乱。
〝何か〟が起きる条件は、以前から十分に揃っていた。対応が後手に回ったのは、すべて侯領を統べる側の責任だ。
もっとも、
――これさえも、共和国が裏で糸を引いているとしたら……
ダスクのやり口を思えば、現状起きていることは容易に想像がついたのかもしれない。しかし、すべては結果論だ。
とにもかくにも、今、対策を進めなければノイシュタットに未来はない。
「少しでも早く沈静化させなければ。だが、混乱がひどすぎて動くに動けん」
「ひとまず、暴徒らを隔離してはどうでしょうか。特定の場所に追い込んで取り囲んでしまえば、対応がしやすいはず」
「ううむ……」
顎に手を当て、オトマルは思案した。
突然、部屋の奥の扉が勢いよく開かれたのは、老将が決断しようとしたまさにそのときのことだった。
「駄目よ!」
見れば、肩で荒く息をしたアーデがそこにいた。
いったい何があったというのか、足は土にまみれ、豪華なはずのドレスのスカートはその裾が破れ果てていた。
「殿下、どこで何をしておられたのです!?」
当然とも思える疑問にも。アーデはまるで答えようとしなかった。
「そんなことはあと! すぐに暴徒の逃げ道を用意して、そちらへ追いやるのよ!」
「逃げ道? 逃がしてどうする――あっ」
ようやく気づいたオトマルは、はっとしてベランダから眼下を見た。
「そう、私たちの役割は暴徒を殲滅することじゃない。この混乱を収めさえすればそれでいいの」
今城下では、侯都に三つある門を守備隊が封鎖しているがゆえに、暴徒も民も行き場を失っている。
帝都騒乱のときと同じ状況。まさに町の壊滅を狙う側の思うつぼであった。
わかったからには、オトマルが迷うことはなかった。すぐさま配下の兵に号令を発し、暴徒を外へ誘導すべく、守備隊の一角を動かすことにした。
何をすればいいかわからず、立ち止まっていた者たちが一気に走りだした。的確にそれぞれの役割をこなし、わずかな時間で展開していた軍が動きはじめた。
西側の門が徐々に開かれていくのがわかる。やがて街路に入り込んだ軍の各隊が、暴徒を市民ごと強引に押し出していく。
一時的に地上の混乱に拍車がかかるが、これで外への流れはできた。望むと望まぬとにかかわらず、あとは自然とそちらへ逃げていくことになるはずだ。
それにしても、と一連の成り行きを見守っていたヨアヒムはひとり、大きな衝撃を受けていた。
――アーデ様が戻ってこられただけでこれか。
以前から指導者としての資質を感じてはいたが、まさかこれほどとは。一連の出来事はあっという間であったが、実質、たった一言で戦況を変えてしまった。
オトマルはその事実に気づいているのだろうか。忙しなく指示を出しつづける老将の背中からは、疑問や驚愕の色はまるで見えなかった。
わずかな不審の影を含むヨアヒムの視線に気づかぬままに、アーデは思考を高速につづけていた。
状況は確実に変化を始めた。程なく、暴動そのものは落ち着いていくだろう。
たとえ、暴徒のなかに共和国の兵士が紛れ込んでいるにしても。
――でも、これは応急措置でしかない。
今ここで展開されている戦況は、より複雑であった。
領主に不満を持ち、侯都シュラインシュタットに押しかけた暴徒。
それに呼応した一部の市民。
それをけしかける共和国の兵士と密偵。
さらには、共和国を助け、ノイシュタットを狙うかのような翼人。
味方は――
ノイシュタット侯軍の守備隊。
新部族。
そして、
――ヴァイク。
なぜか、彼が鍵を握っているように思えてならなかった。彼が翼人だからではない、自分よりもずっと、周りの流れを変えてしまえるような〝何か〟を持っている気がするからだ。
事実、新参者というよりよそ者の彼を、曲者ぞろいの新部族の面々がすでに一目置いている。
ヴァイクと一緒にいたセヴェルスという青年だってそうだ。いつも対立しているように見えながら、どこかで彼を認めている節があった。
城の高い位置にあるこの執務室から見るかぎり、新部族のみんなはあわてることなく的確に動いていた。ひょっとしたら、これさえも彼が助力してくれたおかげかもしれない。
――それは考えすぎかな。
と思いつつ、その翼人同士の戦いに注目する。混戦にはなっているものの、総じて〝予定どおり〟ではあった。
だが、放っておいていい状況でもない。敵の得体は未だ知れず、予断を許さない状況はつづいている。一刻も早く、新部族のみんなと連絡をつけなければならなかった。
「〝虹〟か……」
「アーデ様?」
「オトマル、翼人への対策はできているのでしょう? このまま暴徒を町の外まで押し切るしかない。あとは任せたから」
「あっ、アーデ様!」
止める間もなく、姫は糸の切れた凧よろしく部屋を飛び出していった。
――あんなところじゃ指揮を執りづらい。
いくらオトマルには新部族の存在を知られているとはいえ、まだすべてをさらけ出すわけにはいかない。ノイシュタット関係者の目から、ある程度離れておく必要があった。
急ぎ、自身の部屋がある塔へ向かう。長く走りつづけてきた足はもう感覚が乏しかったが、泣き言を言っている場合ではなかった。
現場で戦っている仲間たちはもっと危険で、もっとつらい思いをしているのだから。
――私だけ安全なところにいて申し訳ないくらい。
城の者たちが心配の声を上げるのも構わず、石製の廊下を突き進む。程なく、塔の門までたどり着いた。
――ここからが憂鬱なのよね……
上階にある自室まで、異様に長く感じられる階段がつづく。誰かに引っ張り上げてもらおうかなどと甘いことを考えて〝獲物〟を探すべく周囲を見回すものの、この非常事態に兵として駆り出されているのか、いつもの門番はいなかった。
自称淑女の誇りはどこへやら、行儀悪く舌打ちしたアーデは、それでもみずからの足で駆け上がった。
いつもなら、どこかこころ落ち着く見慣れた塔の景色も、今ばかりは焦燥感を癒してくれることは微塵もなかった。反対に一段一段がいつもの倍に感じられ、上げようとしている足が鉛のごとく言うことを聞かない。
それでも己の体を叱咤し、先を急いだ。ようやく見えてきた自室の扉が恨めしく思えたのはなぜだろう。
そこを乱暴に開け放ち、中に駆け込もうとした瞬間、基本的に硬いがやわらかい感触もある何かにぶつかった。
「痛っ」
いったい何が、と目を向けると、そこには女性ながらに体格のいい赤い翼の女がいた。
「レベッカ……」
「アーデ――」
激突してきた猫を認識した女戦士は、怒りの形相になってすぐさまその肩を強く摑んだ。
「いったい、どういうことなんだ!? どれだけみんなが心配したと思っている!」
「怒りたい気持ちはわかるけど、話はあと! 今は、すぐにこの状況に対応しないと!」
釈然としない思いは残ったが、悠長に話している場合ではないというのは確かにそうだ。窓際に駆け寄ったアーデに従い、眼下の状況を改めて確認した。
「仲間はよくやってくれている。今のところ、特に問題はない」
「レベッカが指示を出してくれたんでしょ? ほとんど被害が出てない」
「違う、私じゃない」
「じゃあ、ゼークか。あいつはいけ好かないけど、実力だけはあるし」
「それも違う。私とゼークは、アーデを捜すことに専念していた」
窓から身を乗り出して見ていたアーデが、怪訝な表情で信頼する仲間のほうを振り仰いだ。
「じゃあ、誰? ユーグはいないし、まさかナータン?」
「ナータンは伝令役で飛び回っていただけだ」
「じゃあ、誰?」
「ヴァイクだ」
「!」
――やっぱり。
驚かなかったと言えば嘘になるが、半分以上、予想どおりではあった。
「じゃあ、今も?」
「いや、どこかへ行ってしまったと、泣きそうな顔でナータンが捜し回っていた」
「ナータンはともかく、それでどんな指示を出したの?」
「気になるか?」
リスのようにこくりとうなずく少女に、レベッカは淡々と答えた。
「単純だ。アーデは無事だからいつもどおりに戦えと言ったんだ」
――なるほど。
理にかなった判断だ。要は味方の動揺を抑え、ふだんと同じように行動できればそれでいい。たとえそのきっかけが、ただのはったりであったとしても。
世の中、真実が常に正しいとは限らない。ときには、嘘が周囲を救うこともあった。
――真実を覆い隠す虚構が、将来何を生み出すかはわからないけれど。
「だが、アーデ」
「何?」
「上空の我々はともかく、地上のほうはだいぶ混乱している。このままじゃ被害は大きくなるぞ」
「……わかってる」
当面の対応はできたが、この苦しい戦況が改善されたとは言いがたい。
そして、状況の変化のほうがずっと早かった。
「えっ」
眼下の街で、商館の多い区画から立ち上った炎が、次から次へと縦横につながってく。それらは、やがてひとつの巨大な炎の塊と化し、あらゆるものを容赦なくのみ込んでいく。
ただの火事ではない。混乱した現状では火の勢いを止めようもなく、見る間に街は赤く染め上げられていった。
「私の……私たちの街が……」
さすがのアーデも呆然となり、一歩も動くことができなかった。
商館が、文字どおり焼き討ちされたのがそもそもの原因だった。暴動からたまたま出火したのではない。まさに狙い撃ちにしたのだ。
人々の憎悪の炎は凄まじく、これこそが止めようもない危険極まる混乱の元凶であった。
――でも、こんな……!
無差別の敵意が向かう先は、破壊と自滅でしかない。それが、なぜわからないのか。
「誰しも、追いつめられれば暴走する。それだけ、状況が逼迫していたということだろう」
「でも、私は――」
絶対に許さない。
けっして容赦することはないだろう。
助けを求めるならともかく、周りを傷つけてまであえて拳を振り上げるというなら、それはもはや我々の〝敵〟でしかない。
総力をもって、殲滅するのみだ。
「暴徒への攻撃を許可する」
「アーデ……しかし、それでは――」
「構わない。軍が対応しきれないなら、私たちがやる。武力を使うことがどういう意味か、連中に思い知らせてやる」
「確かに、こういった状況で思いきったやり方はむしろ必要だが、私たち翼人が人間を攻撃するという形に変わりはない。そうなったら、あとが――」
「あとのことを考えている場合じゃない! 今拳を振り下ろさなければ、次はないのよ!」
怒りに燃える戦姫は、珍しく反論する盟友から目を外し、窓のほうに向き直った。
「ナータン、いるんでしょう!? 今すぐに指示を伝えて!」
「で、でも……」
出る機会を逸していたか、萌葱色の翼が窓枠からひょっこり顔だけを出した。その表情はレベッカと同様に複雑で、両の眼にはどこか非難の色を含んでいた。
それがなおのこと、今のアーデを苛立たせた。
「何をしているの! 迷っているときではないでしょう! 早くなさい!」
「アーデ、ちょっと落ち着いて」
「奴らを葬り去らなければ、このシュラインシュタットが駄目になる! さあ、早く!」
「そんな……」
「黙りなさい! だったら、私が直接――」
「待って!」
背後からかけられた不意の声に、時間が止まったかのように一同は動きを止めた。
部屋の扉付近に立ち尽くし、肩で荒く息をついていたのは、細身の女性だった。
彼女は、少しだけ息を整えてから言った。
「それが、あなたの望みなの?」
「ベアトリーチェ……」
「あなたの理想は、もっと大きいものじゃなかったの? 翼人と人間の融和をはたして、この世界を変えるのが目的だって言ってたじゃない」
その口調は静かであったが、正面から糾弾されたアーデは何も言い返すことができなかった。
元々は神官であった女性の瞳は、ただ真摯であった。
「アーデ、あなたはみんなの希望だと思う」
「…………」
「みんながあなたを慕って、自分の夢を託してる。アーデはリーダーであると同時に支えなのよ」
「ベアトリーチェ……」
「だから、あなただけは純粋なままでいて。本当に汚れ役が必要なときは――私たちがするから」
覚悟を秘めた言葉とは裏腹に、年上の女性はやさしく微笑んでいた。
そのたった一言に、侯妹は衝撃に打たれ、我知らず一歩後ずさった。
――自分は、そこまでの覚悟を持ったうえで決断しようとしていただろうか。
ただ怒りと憎しみに任せ、またしても自分を見失った。一連のことで混乱していたなどという言い訳は、あまりに陳腐だった。
――私はばかだ。
これでは、リーダー失格の烙印を押されても文句は言えなかった。
「ありがとう、ベアトリーチェ。私、自分が見えなくなってたみたい。また、ひとりで背負い込もうとして――」
「アーデ、本当は私にこんなことを言う資格なんてない」
「え?」
「純粋であることと無知であることをはき違えて、しかも何度も自分が見えなくなった。こんな状況でも周りに指示を出せるあなたは、やっぱりすごい人だと思う」
「ううん、私は状況に対応できていない。振り回されているだけ。あなたの言葉がなかったら――いえ、リファーフの村のときだってヴァイクがいなかったら、私は間違った道へ進んでた。今のベアトリーチェのように、レベッカやナータンが止めてくれたから、ここまで来れたの」
そう言って微笑む姫の隣で、赤髪の女戦士はわずかにつぶやいた。
「確かにそうかもしれないが……」
「うん?」
レベッカには、小さな棘のごとき引っかかりがあった。
――本当に、私たちはアーデの支えになれているのか。
今もそうだ。もしベアトリーチェが訪れなかったとしたら、自分は完全に我を失ったアーデを止めることができていただろうか。
ヴァレリアならできただろう。しかし、今はいない。
――ベアトリーチェ、彼女はいったい……
その疑念にわずかな嫉妬が含まれているのだろうかと自身で不安に思いながらも、興味とも警戒心ともいえない奇妙な感覚にレベッカはさいなまれていた。
だが、より大きな焦燥に駆られていたのは、開け放たれたままの扉の陰で、呆然とたたずむ老将であった。
――まさか……こんなことが……
年甲斐もなく、流れ出る冷や汗を抑えきれない。
そんなばかな、あるわけがないとこころの内で叫びつつも、あの顔、あの姿が他人のそら似だと思い込もうとする感情を軽々と打ち破った。
――なんという因果だ。
なぜここにいる、と疑問に思う前に、その数奇な運命に天を呪う他なかった。
今ばかりは、老騎士のなかに戦場の主君を思いやる余裕はまったくなかった。




