第九章 第十五節
どうしていいかわからない。戸惑いとやるせなさを感じ、新部族は戦いの最中だというのに、ひどい混乱のうちにあった。
指揮官がひとりいないというだけで、まともに動くことさえできないでいる。それだけですでに、危機的状況であった。
そんななか、ヴァイクは不可解な思いを抱えたまま、上空を飛び回りながら状況を確認していた。
――いったい、どうなってる。
新部族の連中は、帝都で見せたあの連動性はどこへやら、全体が明らかにおかしくなっていた。
不快感をあらわにしたヴァイクは、近くにいる萌葱色のナータンに怒るようにして問うた。
「なんで中途半端な戦い方をしてるんだ!?」
「みんな、アーデを捜しながら戦ってるんだよ! だから、集中できてないんだ」
「ばかな! こんなときに二つの目的を追ってどうする!」
混沌とした状況ではひとつだけでも対応するのが難しいというのに、複数のことを同時にやろうとしたらうまくいかなくて当たり前だ。
「長がいないなら、他の奴が代わりにそれをすればいい。ヴァレリアは?」
「いない。彼女は一度ここを離れたから……」
「あの灰色をした翼の男は?」
「ゼークは、アーデを捜すことに専念している」
ベテランだけあって、やはり己のすべきことをわかっている。さすがではあったが、リーダーとなるべき人物がいないというのは明らかに痛かった。
「じゃあ、あの背の高い人間の男はどうした?」
「ユーグのことかい? 彼はフィズベク――南へ出征してる。こんなときに限ってレベッカまでいないし、僕らではどうしたらいいかわからないよ……」
情けなくも眉じりを下げて、泣きそうな顔をしている。
ヴァイクは、激しく舌打ちすると言い放った。
「いったん、引かせろ」
「え?」
「こんな風に戦っていてもじり貧だ。なぜだかわからないが、〝虹〟の奴らは〝極光〟よりもずっと戦い慣れてる。このままじゃ、全滅しかねないぞ」
「わ、わかった」
うなずくと、あわてて飛んでいった。
その後ろ姿を見届けることもなく、ヴァイクは戦況を見極めながらも内心、戸惑いもあった。
――なんで俺がこんなことを。
本来はかかわりがないというのに、妙なことになったものだと思う。
今回だけだ――そう自分に言い聞かせ、視線を移した。
ナータンから伝令が飛んだか、少しずつではあるが空の戦局が変化していく。相手が深追いしてこないのは、戦いでの定石をよくわかっているからだろう。
程なくして、少しだけ顔色のよくなったナータンが下から戻ってきた。
「ヴァイク」
「ナータン、隊をひとつにまとめて敵を各個撃破していくんだ」
「なんで?」
「相手は、お前たちを倒すことが目的じゃないらしい。この町の全域にまんべんなく広がっている。たぶん、最初は人間を襲うつもりだったんだろう。理由はわからないが、お前たちの存在は想定外だったはずだ」
「そうか、わかった」
帰ってきたナータンがそのまま止まらず、すぐさま取って返した。
その背中を見送りながらも、ヴァイクはあえて口にしなかったリスクを考えてもいた。
――懸念もある。
今は、相手が地上のことを重視しているからいいものの、真正面から互いがぶつかり合うことになったらどうなるか。
あまり想像したくない状況に陥るだろう。相手も新部族のことは頭になく、そして新部族は指揮官を失っている。
混乱が混乱に拍車をかけ、仮に互いが撤退をしようとしても大きな困難をともなうはずだ。そうなれば、いたずらに被害を拡大することになってしまう。
――それにしても。
ヴァイクは、また別の面での感慨があった。
――全体を見る、というのはこういうことなのか。
今は上空から、戦況のほぼすべてを把握できる。これまでは自身の眼前にある戦いに拘泥するばかりであったが、こうして俯瞰してみると〝全体の流れ〟を明確に感じ取れた。
兄もマクシムも、皆を率いるときは常に全体を意識しろと口酸っぱく言っていた。
これまで指揮を執ったことのない自分にはそれが今ひとつピンと来なかったが、今になってようやくわかってきた気がする。
――確かにこれは、すべてを見るようにしなければ的確な指示など出せない。
小規模な戦いならともかく、戦士の数がわからないほどの大戦では個々の状況よりも全体の趨勢のほうがよほど重要だ。
それを見誤ったら、犠牲者の数は一気に増える。それは味方にとって、そして長にとって、とてつもなく恐ろしいことであった。
眼下の様子を見てひとり、さまざまな思いを抱えたまま思案していると、ふと黒い翼が見えた気がした。
「!?」
男にしては小柄な体躯。はっきりと確認できたわけではないが、あの見覚えのある少年の姿に思えた。
その直後、汗だくになったナータンが再び地上のほうから戻ってきた。
「ヴァイク……」
「何を疲れてる。また伝令に行ってもらうぞ」
「も、もうこれ以上は酷だよ……」
「敵と実際に剣を交えるよりはましだろう? そんなことより、みんなに『アーデを救出した、彼女からの命令は〝このまま押し切れ〟だ』と伝えろ」
「え? でも――」
ナータンの反論の声を遮り、ヴァイクは言い切った。
「お前たちの実力なら、少なくとも負けることはないはずだ。あの女の心配がなくなれば、いつもどおりに戦える。嘘でも貫き通せ。そうしなきゃ、逆にめちゃくちゃになるぞ」
「けど、このままヴァイクが指揮を執ってくれれば――」
当然とも思える懇願にも、容赦がなかった。
「俺は行かなきゃならない。やることができた」
「そ、そんな……」
「いいな、絶対に余計なことは言うな、余計なことをするな。それさえ守っていれば、かならずお前たちは勝てる」
「あっ、ちょっと!」
ナータンが呼び止める声も聞かず、ヴァイクは一度虚空を叩くかのように大きく強く翼を羽ばたかせると、そのまま前方へものすごい勢いで飛びだした。
後ろで何か文句を言っているのが風を切る音にまぎれて聞こえてくるが、相手にしない。
元より新部族にはかかわりのない身。他にやることがないならともかく、別の目的ができたからには、立ち止まっている場合ではなかった。
――どこだ。
すでに、黒翼の姿は見えなかった。砂塵舞う乱戦の中では、ひとりの人物を見つけ出すのは困難を極める。
ふと、視界の端に異質な存在を見た気がした。
――檸檬色の翼?
珍しい色だった。しかし、それゆえに憶えている。 以前、確かアーベルの近くにいたはず。
――行ってみるか。
とりあえず追ってみることにした。今は、わずかばかりの手がかりでも欲しかった。
突如として大きな煙が前方に立ち上ったのは、相手が城の方角へ向かいはじめたときのことであった。
――しまった。
舌打ちしつつ、いったん西側へ逃れたあとにはもう、目的の翼の影はなかった。
わざとなのか、それとも偶然か。どちらにしても、もはや現実は手遅れだった。
これで一からやり直し。軽くため息をつきつつ、再び手がかりを探して視線をさまよわせた。
背後に気配を感じたのは、直後のことであった。
「!」
とっさに最速で横へ飛び、体を反転させて向き直る。
前方には、すでに抜き身の剣を持った、見慣れた顔の男がいた。
「お前は――」
灰色の翼、頬のこけた細い顔。
ヌアド、そう呼ばれていたはずだ。
「この件、お前が率いているのか」
「そんなことは、貴様には関係のない話だ。そっちこそ、なぜこんなところにいる? なぜ人間にかかわる?」
質問を質問で返されるとは思っていなかったヴァイクは、それでも律義に、少し思案してから言葉を選んで答えた。
「同族の卑劣な行為を止めるためだ。翼人の世界の論理に人間を巻き込むことを見過ごすことなんてできない」
「まだそんなことにこだわっているのか。人間を〝餌〟にして何が悪い」
「全部だ。翼人と人間の全面的な争いを起こしてもいいのか?」
ヴァイクの糾弾にも、ヌアドはにやりと人の悪い笑みを浮かべた。
「望むところだ」
「なんだと?」
「たかが人間、全面対決になろうが大した問題ではない。というより、奴らを一掃できるいい機会になるというもの」
――どこまでが本気なんだ。
その鉄面皮からは、相手の真意をうかがい知ることはできない。
「アーベルは、お前の本当の狙いを知っているのか」
「……それこそ、貴様には関係のない話だ」
「やっぱり、騙して体よく利用しているみたいだな」
「ふざけるな。我々があいつを必要としているように、あいつも我々を必要とした。それだけのことだ」
「どうだか」
その〝必要〟の中身が互いに一致しているようには、とても思えなかった。
であるなら、それは片方が騙しているに等しい。少なくとも、正常な関係とは言い難かった。
「だが、ひとつはっきりしていることがある」
ヌアドは、己の剣を握り直した。
「貴様に会うたびにアーベルの奴は不安定になっていく。貴様という男は、我々にとってもアーベルにとっても不要な存在だ」
「お前は何もわかってないようだな。あいつは元から思い悩み、苦しんでいた。それさえ気づけないなんて、やっぱり本当の仲間なんかじゃない。いや、お前の底の浅さが知れる」
「……黙れ」
予想どおりというべきか、話し合いの通じるような相手ではなかった。
皮肉にも、その思いだけはヌアドも同じだったろう。剣を構え、半身になって臨戦態勢に入る。
「ここで後顧の憂いを絶っておく。前々から貴様は、どうも気にくわなかった」
「俺がクウィン族だからか?」
「何?」
「お前があのとき、あの場にいたことは知っている。なぜか、紅色の翼をしていたけどな」
相手からの返答はない。だが、眉根を寄せて目を細めたその表情が、すべてを物語っていた。
ヴァイクとしては、単純にかまを掛けただけのつもりだった。だが、これでマリーアの見たものが間違いではなかったことがはっきりとした。
「お前、あそこで何をしていた。いや、それ以前に貴様は、本当はヴォルグ族なのか?」
「――お前は、実に厄介な野郎だ。その見た目も、白い翼も何もかも」
「なんだと?」
「お前は邪魔だということだ」
ヌアドの声音は低く、わずかな冷気さえ帯びているように感じた。
相手が翼に力を入れ、反対に、剣を握る右腕から余計な力を抜いたのがわかる。
――来る。
刹那、思ったとおり武器を片手に突っ込んできた。
すぐさま己の大剣〝リベルタス〟を抜いて迎え撃つ。
喧噪に包まれる大地の上空で、金属同士が打ち合わされる激しい音が響き渡る。
直後、ヌアドの剣の刀身が上下に、複数に分裂した。
――知ってるさ!
とっさに相手の得物を打ち払い、回避する。あの剣は、つばぜり合いになったときにこそ本領を発揮するものだと、以前からわかっていた。
だが、ヌアドもかわされることは予想していたらしく、すぐさま体勢を立て直して向かってくる。
今度は、最初から五枚の刃に分かれ、扇のように広がっている。
「くっ」
とっさにどの刀身に狙いを定めればいいかわからず、わずかに躊躇した。
その一瞬が、相手に先手をとらせることになった。
広がっていたはずの刃があっという間にひとつに戻り、高速で襲いくる。
ヴァイクはとっさに身をよじり、後退しつつ回避を試みるが、その動きに遅れた翼の先端が相手の剣の軌道に残ってしまい、ぱっと羽の数枚が散った。
痛みはない。それよりも、体勢を崩されたことのほうがよほど問題だった。
ヌアドがこの隙を逃すはずもない。翼を力強く羽ばたかせ、すかさず間合いを詰めてきた。
――まずい。
かわしきれないとみたヴァイクは、剣で受け止めるしかなかった。
直後、ヌアドの剣〝ハーデス〟が分裂し、そのうちの一枚がヴァイクの右腕を浅く切り裂いた。
そして、次の刃が同じように対象をとらえる、はずだった。
だが、他の刀身はすべて空を切った。
なぜなら、そこにはもう対象はいなかったからだ。
ヴァイクはあえて翼に力を入れず、相手の勢いに押されるに任せた。その結果、距離が開くと同時に下へ落ち、間合いを広げることに成功した。
――危なかった。
相手の剣の特性を知らなかったら、軽傷ではすまなかったろう。
それにしても、複数の刃をひとつに戻すことも一瞬でできるとは。それによって動きが高速化した分、こちらの対応がわずかに遅れてしまった。
一筋縄ではいかないことはわかっていたが、思いのほか厄介だった。
「どうした、偉そうな口をきく割にはたいしたことないじゃないか」
「まだ本気を出してないんだから当たり前だ」
はったりではない。あえて敵の攻撃を受けていたのだが、おかげで相手の力量はほぼわかった。まだ秘策があるのかもしれないが、ひとつだけはっきりとしたことがある。
――アーベルほどじゃない。
純粋な剣の扱いは黒翼の少年のほうが上。ヌアドがこれまで強硬手段を採れなかった原因は、そこにもあるのではないか。
少なくとも、恐れるほどの相手ではなかった。
――マクシムや兄さんとは比べるべくもない。
「今度は、こちらからいかせてもらう」
言いざま、剣を腰の位置に構えて飛んだ。
まばたきするほどの刹那、一気に間隔を詰め、下段からの高速の一撃を見舞う。
ヌアドはあえて、それを受け止めてみせた。
だが、そこからが予想外の事態だった。
ヴァイクは剣がぶつかり合った直後、あえて剣を戻して突っ込む勢いのまま相手の真横を通り過ぎた。
そしてすぐに取って返し、また同じようにして攻撃を加える。それをくり返し行っていくうち、徐々にヌアドを圧倒しはじめた。
一撃離脱をくり返していれば、相手の剣の特性は活かせない。それがヴァイクの狙いだった。
剣を振るいつつ、防戦一方のヌアドに言い放った。
「お前は闇の精霊だ」
「なんだと……!?」
「奈落の底へいやおうなく周りを引きずり込んでいって、誰も戻ってこれない。それをするのがお前だ」
「だが、人は闇を必要とする! 弱い存在は、強い光の中では生きられない!」
「!」
――確かに、そうだ。
強烈な輝きは、ときに白き刃となって照らす対象を傷つけていく。
自分だって、闇を欲したことはこれまで幾度となくあった。人が休む場所はいつも、人間であろうと翼人であろうと暗がりの中だ。
だが――
「お前の好む闇の中に希望はあるのか?」
「…………」
「そうは思えない。お前たちは、自分の利己のために闇を利用しているだけだ。そんなところに、周りを巻き込むんじゃない」
ヌアドから反論の声はなかった。
一瞬の奇妙な沈黙。
だが、しばらくしてかわりに疑問の言葉が投げ返された。
「なぜ、見ず知らずの奴にそこまで入れ込む。今回の件もアーベルのことも、本来貴様にはなんら関係はないはずだ。どうして己の身を危険にさらしてまで動く?」
「お前のような奴には一生わからないだろうさ」
――人を手段としか考えないような奴には。
自分としては、当然のこととしてやっているだけだった。特別なことは何もない。
あえて理由をつけるとすれば、単に『気になったから』。
理解できないとばかりにかすかに首を振ったヌアドは、再度、前がかりになって襲いかかってきた。所詮、話をする気など毛頭なかったようだ。
上段から来る高速の一撃を今度は受け流す。
狙いあやまたず、相手の刃が広がる前にみずからの剣を外し、横をすり抜ける。
ヌアドの側面はがら空きだった。
ここぞとばかりに、愛剣リベルタスを一閃する。
振り切った直後、ぱっと血しぶきが飛んだ。ヌアドは体が回転し、きりもみしながら落ちていく。
だが、すぐに体勢を立て直し、何ごともなかったかのように攻撃が可能な位置へ移動してみせた。
――速さはたいしたことはないが、やはり戦い慣れている。
これは、一筋縄ではいきそうになかった。
改めて気を引き締めたヴァイクが剣を構え直した直後、そこで思いもしないことが起きた。
下から高速で極細の何かが飛んでくる。
二人はあわててかわし、そちらへ向き直った。
見ると、ノイシュタットの正規兵と思われる男が、厳しい表情で弩弓を構えている。
問題は武器そのものよりも、〝飛んできた物〟のほうだった。
――なんだ、あの矢は?
やけに細く、短かった。威力の程は知れないが、翼に当たれば厄介な物に違いない。
周りに目を向けると、すでにその得物の犠牲者が出はじめていた。通常の数倍はあろうかという速度で針のような矢が飛び来り、回避の遅れた翼人たちを次々と貫いていく。
――速い。
先ほどはとっさにかわせたものの、容易に対応できるような代物ではなかった。
――なるほど、そういうことか。
どんな弓の名手が矢を放ったとしても、動きの速い翼人にはかわされてしまう可能性が高い。風の抵抗を極力減らし、軽くすることで、矢の速度を劇的に上げてみせたのだ。
翼人にとっては厄介で腹立たしいものではあるが、これは技術として見事だった。
だが、感心している場合ではなかった。
――どうする?
横を見ると、ヌアドも動けないでいる。
わずかに互いの目が合った。
顔をしかめた灰色の翼は、少しして周囲を警戒しつつ去っていった。
一瞬躊躇したが、追いかけるのはやめておいた。今は、アーベルを捜し出すことのほうが先決だ。
ヴァイクは、みずからも早く離脱することにした。上空の翼人が敵味方問わず次々と落とされていくのをしり目に西へ向かって飛んだ。
地上の虚しき騒擾は、まるで収る気配はない。




