第九章 第十四節
隣が戦場となった森の中は陰鬱で、木漏れ日と呼ぶのもおこがましい弱々しい光しか入ってこない。
それでも、そんなところを全力で進むしかなかった。
真相を少しでも明らかにするために。
風を切るように疾駆する馬の上で、いつもよりも念入りに鎧を着込んだユーグは、ずっとひとつのことを考えていた。
――なぜ、ロラント卿が裏切った。
理由がわからない。他の誰よりも忠誠心の高い騎士だったはず。
それがどうして? 推測しても答えは出そうにない。それくらい、本来ならば〝有り得ない〟はずのことだった。
――会ってみればわかるか。
やや薄暗い森の中で突然変化があったのは、さらに速度を速めようとしたときのことだった。
前方に見慣れた影があった。
「ユーグ様、お待ちください」
「ティーロか」
急ぎ手綱を引き、止まった。
やや小柄で若さを顔立ちに残しながらも、その所作から十分に鍛えられていることがわかる従士。
〝表〟だけでなく、〝裏〟でも頼りになる部下であった。
「この前方に、敵の部隊が展開しているようです。迂回したほうがいいかと」
「前と同じか」
「はい、おそらくは奇襲目的かと思われます」
「フェリクス様には?」
「伝令を通じてすでに報告済みです」
ユーグは周囲を見渡し、独りごちるようにして言った。
「だが、時間がない。ここを通らなければ、ロラント卿のところまで行くのに間に合わないだろう」
本格的に戦闘が始まれば、たぶんもう二度と彼に会うことはできない。そうなれば、真意を問うことすら難しくなる。
差し当たっては、危険を承知で行くしかなかった。
「しかし、他の策を検討したほうが――」
「他の策か。レーオはいるか」
「上にずっといるよ」
聞き慣れた声は、樹木の枝葉で覆われた上方から聞こえてきた。
「俺を運んで、敵陣の裏側に回り込むことは可能か?」
「無茶言うなよ。もうわかってるだろ? この周囲には翼人の部隊も展開してる。見つかったら、どうしようもない」
「低空を飛べばなんとかなるはずだ」
「だから、俺はいざとなったらひとりで逃げ出せるけど、お前はどうしようもないだろ」
「いい。ロラント卿のところへ行くのが先決だ」
「お前はよくても、新部族にはよくない」
「…………」
「何をそんなにむきになってんだよ。お前らしくもない」
言われて、はっとした。確かに、やや冷静さを欠いていたかもしれない。
――自分が感情的になる理由。それは、すでにわかっていた。
「だが、私は――」
「誰か来る」
と言ったとたん、レーオの気配がさっと消え、ティーロも念のため手近な木の陰に隠れた。
しばらくすると、ユーグも気配を感じはじめた。ゆっくりとした馬蹄の音が耳に届いたのは、その直後のことだった。
「あれは……」
馬上の存在が森陰から現れたとき、ユーグは目をむいて驚いた。
そこにいたのは誰あろう、捜し求めていたロラントその人であった。
「ユーグ、君ならこのルートで来ると思っていたよ」
「ロラント卿……」
見慣れぬ鎧をまとうその人物は、フィズベク南方守備隊の長であった男に他ならなかった。
「その格好、寝返ったというのは本当のようですね」
その胸には共和国の盾の紋章。その事実が、すべてを物語っていた。
「言い訳はすまい。君のように実直な男に対しては何を言ったところで虚言も同然。虚しいだけだ」
「どうしようもない理由があったかのような口振りですね」
「私にとっては――だが、もはやすべては過ぎ去ったこと。〝今〟は君たちの敵となったというだけだ」
「家族や友人を裏切っても?」
「…………」
ロラントの妻と子息、そしてもちろん血縁者は未だシュラインシュタットに留まっている。だからこそ驚いたのだ。
反逆者の血縁ともなれば、今後は厳しい境遇に陥ることを覚悟しなければならない。
「私には耐え難かったのだ、どうしてもあのことが」
「あのこと?」
「今は言うまい。だが、きっとお前たちもいつかはそのことに気づき、思い悩むことになる」
――なんだ?
嘘を言っている様子はまるでない。元より、冗談でも偽りを口にするような人物ではなかった。
だとしたら、清廉実直なロラントがどうして寝返ったのか。てっきりダスクになんらかの弱みを握られ、脅迫されているのかとも思ったのだが、その態度からしてそうではないようだった。
「どうも、その口振りからして言うのも憚れるようなことのようですね」
「私はノイシュタットを危機に陥れるつもりはない。だから――これ以上のことは話せん」
「ロラント卿……」
「もう戻れ、ユーグ。私はもう、ノイシュタットでは戦えない。それだけだ」
「――いいでしょう。あなたにはあなたの信念があるように、私にも譲れぬものがあります。いざとなれば、剣を抜くまでです」
今でも、自分を引き立ててくれた卿に感謝する気持ちはある。しかし、敵と味方に別れてしまったからには、もはや戦うしかなかった。
現在の自分にとって大事なのは、師との絆ではない。
本当に守りたいのは――
「ユーグ卿!」
後方、離れたところから鋭い声が上がった。
振り返れば、早馬が駆けてくるところだった。その鞍に縛りつけられている布は、明らかに急使を示す赤色だ。
視線を戻すと、すでにロラントは背を向けて去っていくところだった。
あえて声をかけることはせず、後方の使者から隠すように馬の立ち位置を変えた。
「どうした?」
「フェリクス様よりの急報です。今すぐお戻りください」
「わかった。お前は先に行ってお伝えしてくれ、時間をかけずに参ると」
「はっ」
馬首を巡らし、矢のように駆けていく。
その姿が見えなくなってから、近くの二人に呼びかけた。
「レーオとティーロは、このまま偵察をつづけるんだ。私は本陣へ向かう」
二人の同意の声を聞き届けてから、ユーグはフェリクスの元へ急いだ。
もはや、ロラント卿がどうこうという次元の話ではないらしい。いち早く引き返し、くわしい状況を確認する必要があった。
帰りの道程がやけに長く感じ、馬の走る速度が上がらずもどかしい。
ようやく本陣の端が見えてきたのは、西側から突如、鬨の声が聞こえてきたときのことであった。
――始まったか。
いけないとは思いつつ、焦る気持ちを抑えきれない。
方々で戦いが始まり、戦線があっという間に広がっていく。いきなり全面対決の様相を見せていた。
――フェリクス様。
さすがに本陣までは巻き込まれてはいなかったが、すぐにでもそうなってしまうのではないかと気が気ではない。
「ユーグ」
近くの大樹の陰から声がする。
「レーオ、どうした?」
「敵陣の後方に、別の翼人の集団が近づいてる。〝奴ら〟かもしれない」
「お前たちは予定どおり展開してくれ。迎え撃つんだ」
「でも、ノイシュタット軍に間違って攻撃されたら――」
「私がフェリクス様を説得して止めてみせる。〝例の準備〟はできているのだろう? とにかく、すぐに行ってくれ」
「――わかった」
音もなく、すっと気配が消えた。
そちらを見やることもなく、本陣の中央へ急いだ。
森を抜け、青草の生い茂る草原に出る。周囲では、敵味方ともに陣を大きく展開し、乱戦の状態に近づきつつあった。
馬が尋常ではない汗をかきだした頃になってようやく、主君の大振りな幕舎が見えてきた。
先遣の兵に誘われ、隊の間にできた道をようよう進むと、前方に目的の人物のシルエットが見えた。
フェリクスは幕舎の外に出て、次々と訪れる伝令に対応しているところだった。
急ぎ馬を降りて駆け寄ると、ようやく主君は気がついた。
「フェリクス様」
「ユーグ、戻ってきたか」
「ロラント卿ですが――」
「別のところからも情報が上がってきた。彼が寝返ったのは真実のようだ」
「はい……理由は判然としませんが」
「今、それを考えても意味はない。この戦いに集中するとしよう」
ほとんど意に介した様子もなく、フェリクスは淡々と答えた。
戦況は刻一刻と変化していく。余計なことをあれこれ考えている余裕はなかった。
様相が一変したのは、空の一画が黒く変色した瞬間であった。
敵味方ともに、動揺が波となって一気に全体へと広がっていく。
だが、青年侯があわてることはまるでなかった。
にやり、と口角を上げてつぶやいた。
「――出てきたな」
フェリクスの視線の先で、空中に忽然と現れた翼ある者たちが剣を振り上げた。
「弓兵を出せ! 前線の者たちにも弓を使わせろ!」
迅速に指令が飛ぶ。
――予想どおりだ。
準備に怠りはなかった。こういった事態を想定し、弓兵を多く配置し、それ以外の兵にも小型の弓を携帯させておいた。
これなら、翼人が敵として向かってきたとしても十分対抗できるはずだった。
だが、それをはっきりと止める声があった。
「フェリクス様、お待ちください」
「なんだ、ユーグ?」
「あれを」
指さす先に、新たな翼人の集団が飛んでくるのが見える。
それをはっきりと認識した瞬間、フェリクスは目をむいた。
「なっ……!」
その翼人らが持ち、灰色の空にたなびくは、黒地に白いラインがあしらわれた鷲の紋章。
それは、まぎれもなくメルセア王国の象徴であった。
「どういうことだ……!?」
「わかりません。ですが、先に来た翼人たちと戦うようですよ」
フェリクスが動揺を隠せない中、空中での戦闘はすでに始まっていた。翼ある者たちがそれぞれの得物を打ち合わせ、激しく刃を交えている。
まったく状況が読めない。ただ、ひとつだけ心当たりはあった。
「これまで我々を助けてくれた者たちと同一なのか?」
「どうでしょう。少なくとも、こちらを襲う気はないようです」
「相手の翼人たちと敵対しているのはわかるが、なぜメルセアと……」
東の大国メルセア。歴史上、これまで幾度となくこのノルトファリア帝国と衝突をくり返してきた古王国だ。
騒乱によって帝国が衰退した今、この地域ですでに最大の勢力になったといっても過言ではなかった。
それが、翼人の集団と結託したとなると――
しかし、ユーグは首を横に振った。
「意図はわかりませんが、あの旗印だけですべてを判断するのは危険でしょう。あの連中が勝手に使っているだけかもしれませんし」
「敵がこちらを攪乱するためにやっている可能性は?」
「あるとは思います。ですが、ここから見るかぎり本気で戦っていますよ」
戦いの中、ひとり、ふたりと下へ落ちていく。その様子は、とても演技しているようには見えない。
「少なくとも、メルセアの旗を持っている側は我々の敵ではないということか」
「そう考えてよいかと存じます。それよりも今は、地上での戦いに専念するべきでしょう」
「それはそうだ」
戦場で迷い、立ち止まることほど愚かなことはない。フェリクスは、すぐさま次の号令を発した。
「弓兵は空中への攻撃を控えよ。前線もだ。目の前の敵に集中するんだ」
素早く周囲に伝達されていく。その速さは見事の一言に尽きる。ノイシュタット侯軍が自慢できることのひとつであった。
兵士らは訳がわからないながらも、上空からの脅威が実際に訪れなくなったことを悟り、地上における目の前の敵に集中しはじめた。
ここから見るかぎり、どちらかといえば相手側のほうがその事実に動揺しているように思える。
不意に訪れた状況の変化になんとか対応できたものの、二人はこの戦という現実にこころを揺さぶられていた。
「本当に他国と戦線が開かれてしまったのですね」
「ああ。時間の問題だとは覚悟していたが、意外と早かった」
内部での翼人やロシー族とのごたごたは今後増えるだろうとは思っていたが、実際にはこうして外部の存在とぶつかり合うことになってしまった。
全体の見込みが甘かったのかもしれない。警戒はしてきたつもりだったものの、帝都騒乱が終結し、こころのどこかで気がゆるんでいた。
目を細めた主君のほうに、ユーグが向き直った。
「ところで、フェリクス様」
その顔には怪訝な色が浮かんでいた。
「私を急に呼び戻されたのはどうしてなのです? ロラント卿の件、確認はとれたあとだったので、いずれにせよすぐに引き返すつもりでしたが」
返答は、すぐには来なかった。
戦いの喧噪がやけに耳につき、長身の近衛騎士がわずかに焦れた頃になってようやくフェリクスは口を開いた。
「ユーグ、落ち着いて聞いてくれ」
「はい?」
「シュラインシュタットが攻撃されている」
初め、その言葉の意味がわからなかった。
フェリクスの表情は、なぜか静かだった。
「先ほど城から急使が来た。侯都のあちこちで暴動が立てつづけに発生して収集がつかなくなっているらしい」
「!」
「それだけじゃない、翼人も現れたそうだ」
――アーデ様。
ユーグは、二重の意味で驚いていた。
ひとつは、シュラインシュタットが襲われたこと。時機を考えれば、偶然ではないはず。
もうひとつは、翼人の襲撃についてではなく、|アーデがそれを事前に予測していた《、、、、、、、、、、、、、、、、》ことだった。
であるからこそ、以前からそれに対応するための準備を周到に進めてきた。
すべてを見通した上でのことだったのだ。
――恐るべきその洞察力。
けっして、誰にでもできることではなかった。たとえ、この国を統べる選帝侯でさえも。
侯都の混乱もアーデがいれば乗り切れるのだろうが、ただ、一定の被害は免れないだろう。
そのとき、強いようで繊細な姫のこころがどうなるか。そちらのほうが心配だった。
「ユーグ」
フェリクスが真剣な面持ちで告げた。
「このままでは――シュラインシュタットが、アルスフェルトや帝都のようになる」
「…………」
「私のせいだ。ここまでのことは想定しきれなかった。オトマルがなんとかくい止めてくれるだろうが、万が一の可能性もある。ここで勝っても、シュラインシュタットを落とされたら元も子もないんだ」
ノイシュタット侯は、己の部下をしっかと見すえた。
「お前は、侯都へ向かってくれ」
「しかし、それではこちらが手薄に――」
「なんとかするさ。私には精鋭のノイシュタット侯軍がついている」
不敵に笑う主君を見て、ユーグは決心した。
「わかりました。配下の兵を率いてシュラインシュタットまで戻ります」
「頼む」
一抹の不安が残ったが、今は侯の命に従うことにした。
突然、轟音が遠方から響いてきたのは、ユーグが一礼して退こうとしたときのことであった。
「なんだ……?」
フェリクスがそちらを確認すると、右翼前方で戦線が崩れはじめた。明らかにノイシュタット側が押されているように見える。
一帯はすでに、乱戦と化していた。
「なぜ、こんなに押されている!?」
理由がまったくわからない。どうして一気に戦況が変化したのか。
「フェリクス様、今はこの状況に対応するしかないようです」
「しかし……」
「この混乱を収めるのが先決かと。さすがにこの状況では、部隊のひとつを撤退させるのは危険すぎます」
「――――」
「私を前線へ行かせてください。なんとか立て直してきます」
フェリクスからの返事はしばらくなかった。だが、その間にも戦況は刻々と変化し、徐々にではあるがノイシュタット側の苦境が顕著になる。
侯は決断した。
「わかった。行ってくれ、ユーグ」
「承知しました」
間を置かず、すぐに馬のほうへ向かった。
配下の隊は、すでに準備はできている。あとは号令を発するだけだった。
「前線の友軍を救援する。行くぞ!」
号令一下、いっせいに動いた。一隊が、戦線の崩れかかったところへあえて向かっていく。
騎馬隊を先頭に、すでに展開中の自軍を迂回するように進む。
よく訓練された隊はよどみなく行軍し、目的の場所へ向かって疾駆した。
最前線は、程なくして見えてきた。
そして、驚愕した。
「どういうことだ……!?」
そこでは、異様な光景が展開されていた。
ノイシュタット側で、兵同士が争っている。胸の鎧に獅子の紋章を抱いた者たちが、ダスク共和国の兵士ではなく味方と剣を打ち合わせていた。
――いったい、どうなっている?
理解できなかった。部分的ならともかく、広い範囲で似たような状態にある。
「ユーグ様」
背後に人の気配。馬上ですぐさま振り返った。
「ティーロか! これはどうなっているんだ!?」
「どうも、一部の兵が寝返ったようです。現場の指揮官らも困惑しています」
その一言ですべて悟った。
――そういうことか!
敵は、ノイシュタット侯軍唯一といってもいい弱点を突いてきたのだ。
――またしても、一般の兵までそそのかすとは。
侯軍は、そのほとんどが民兵によって構成され、ノイシュタットではその比率が特に高い。
この地域では元々正規の騎士団が小さく、各地の自警団をまとめる形で先々代の選帝侯ジグムントの御代に結成されたのがきっかけであった。
相手はその特長を把握し、一部の将を寝返らせるだけでなく、事前に個々の兵士まで取り込もうとしていたのだ。
――ダスクはどこまで……
敵の卑劣さよりも、その徹底ぶりに不気味さを覚える。このままフィズベクだけの問題ではすまないように思えてならなかった。
だが今は、先のことを考えている場合ではなかった。理由はどうあれ、この状況になんとかして対応するしかない。
「いったん引け! 陣形を立て直すんだ!」
乱戦になりすぎてしまい、このままでは敵味方の区別のしようもない。一度、反逆者と同胞を分離して識別するしかなかった。
しかし意に反して、隊は思うように動いてくれない。現実に刃を交えながらも後退するというのは、確かに熟練の戦士にとっても至難の業であった。
貴重なはずの時間ばかりが過ぎていく。兵は消耗し、戦局はノイシュタット側に不利に動いている。
これまでの戦いの経験と勘が、危機を明確に察知していた。
――このままではまずい。
こちらの劣勢は明らか。早く手を打たなければ、手遅れになってしまう。
上空では新部族の仲間がよくやってくれているおかげで、むしろ優勢だ。反面、地上は敵味方ともにひどい混乱の内にあった。
逐一命令を発するが、隊は思うように動いてくれない。この混沌とした状況では、そもそも命令伝達が的確に行えるはずもなく、すべての反応が鈍かった。
――すでに手遅れなのか。
悪い予感がいやおうもなく増していく。少なくとも現状のままでは、この苦境を打開できそうもなかった。
――どうすればいいんだ。
内心、迷いが生じているのを自覚する。こうなったら、何か思いきった手段を採るしかないようだった。
ふと、アーデの声が聞こえた気がした。
〝混戦になったときは、もっとも非情と思える作戦を決断しなさい〟
人道を考えている余裕はないと、きっぱり言い切った。胸を張ってそう断言できるのが、アーデの凄さだった。
――もう、これしかないのか。
打開策がまるでないわけでもない。だが、それには一定以上の犠牲が確実に必要とされた。
〝戦場では最善の策を考えるな。次善の策で十分と思え〟
師匠の言葉も思い起こされる。きっとアーデと同じことを言わんとしていたのだろう。
共通することは、ひとつ。
――迷っている暇などない。
顔つきのかわったユーグは剣を振り上げ、命令を発した。
「騎馬隊、突撃せよ! 歩兵隊に構うな! 抵抗する者はすべて斬って捨てろ!」
乱戦になって同士討ちが増えることをおそれ、後ろに控えていた騎兵たちが動きだした。
周囲が人であふれ、進路がないにもかかわらず、兵士を敵味方問わず蹴散らすように突っ込んでいく。
無骨な騎士たちは、命じられるままに剣を振るった。前方を塞ぐ存在を問答無用とばかりに次々と斬り伏せていく。
罪のない同胞の兵にも犠牲は出ているはずだった。
それでも、これをつづけるしかない現状。どれだけ己の無力を呪おうと、その現実から逃れることはできない。
程なく、僚軍が少しずつ押し返しはじめた。
――これならもうすぐ立て直せる。
驚愕の知らせが届いたのは、葛藤しつつも手応えを感じはじめたときのことであった。
後方から見慣れぬ兵士が馬に乗って向かってくる。その者はユーグではなく、ティーロに書状を手渡し、忙しげにすぐ去っていった。
――なんだ。
妙に嫌な予感がじわりじわりと増していく。珍しく顔にどこか焦りの色をにじませ、ティーロが駆け寄ってきた。
「ユーグ様……」
「どうした? 本陣に何かあったのか」
「いえ、そうではなく――」
書状を渡して言った。
「問題は、シュラインシュタットのほうにあるようです」
怪訝な表情のまま、それを開いた。
「な、に……」
そこに記された内容は、まったく想定外のものであった。
――シュラインシュタットが陥落寸前。
そのまま本陣には戻らず、至急侯都の救援へ向かえ――フェリクスの名でそう記されていた。
――ばかな。
にわかには信じがたい。この事態を想定していたアーデがうまく対応しているはずではなかったのか。
しかもこの事態が示すのは、歴戦の勇士オトマルまで後手に回ったということだ。それだけに、なおさら疑念が深まった。
――急がなければ。
とにもかくにも、できるだけ早く対応する必要があった。手遅れになってからではすべてが無価値だ。
手綱を引いて、馬の向きを強引に変える。ユーグの顔に、焦りと苛立ちの気配が広がりつつあった。




