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第九章 第九節

 厚い雲が重くたれ込み、やや湿り気を帯びた風が鎧をまとった兵士たちをなぶっていく。

 ノイシュタット侯軍の陣では、準備を終えた騎士たちがそれぞれの持ち場で警戒を怠ることなく、主からの指令を待った。

 フェリクスは幕舎から出ると、憂鬱な顔で天を仰いだ。

「急に天気が怪しくなってきたな」

「怪しいのが天気だけならいいのですが」

 背後に控えるユーグが、わざとらしくため息をついた。

「確かに敵軍は怪しい。相も変わらず暴徒と正規兵が混在しているようだ」

「いえ、ほとんどが正規兵と考えてよいかと。こちらを攪乱するためにあえて庶民の格好をしているのでしょう」

「ご苦労なことだ」

 フェリクスはさして興味もない様子であったが、ふと背後の不遜な騎士を振り返った。

「怪しいといえば、敵方だけではないだろう?」

「と言いますと?」

「アーデも十分怪しいと思うがな」

 突然のクリティカルな指摘にぎょっとした。

 動揺を覆い隠すようあわてて取りつくろおうとするものの、すぐに追い打ちをかけられた。

「出陣前、あのアーデとオトマルの言い争い、憶えているか?」

 ――聞こえていたのか!

 驚くなどというレベルのものではない。どうごまかしたものかと、内心、冷や汗が止まらない思いだった。

 だが、フェリクスのつづく言葉は意外なものだった。

「アーデは、私などよりずっと大きいことを考えているようだ」

「え?」

「器の差だな。最近、それを痛感させられるよ。私は、一地方の一領主が関の山だ」

「フェリクス様……」

 自分に『ノイシュタットなど滅びてしまえばいい』と世界のために(、、、、、、)叫ぶことができるだろうか。

 ――いや、けっしてできない。

 立場上の問題ではない、そもそもそんな考えなど夢想したことすらなかった。

 自分はこれまで、ひとりよがりな他の諸侯を批判してきた。

 だが、オトマルと同じく、ノイシュタットに拘泥している自分に、周りをとやかく言う権利などどこにもない。それを強く思い知らされた。

「ユーグ、お前はどこまでかかわってるんだ?」

「さあ……? どうも、オトマル卿のほうがよくご存じのようですよ」

「何?」

「最近、アーデ様とよく話し合っておられるようです。あのときもそうだったでしょう?」

「うぅむ、オトマルまで……」

 卑怯なユーグは、老将に丸投げすることで逃げた。

「ということは、私だけのけ者か」

「アーデ様のお気持ちを察してあげてください。フェリクス様のことを思えばこそです」

「どうだか」

「しかし――」

 と、ユーグは表情をより真剣なものに改めた。

「状況が変わって、すべてが明らかになるのは時間の問題でしょう。これだけ世の中が揺れ動いているのです。そのうちノイシュタットもなし崩し的に巻き込まれて、世界を変えるどころか、自分たちのほうが変わっていくしかなくなるなるはずです」

「今がまさにそう、か……」

 こちらに他国と争うつもりなど毛頭なかった。しかし、一方的にダスク共和国が仕掛けてきて、今や全面対決の様相だ。

 確かに、今の世が変化する流れは異常なまでに速く、かつ強烈だった。

「どうやら、こちらも状況が変わったようだ」

 視線の先で、赤い旗が動いているのがわかる。それは他ならぬ、急使を示すものだった。

 ノイシュタットの紋章を背負った兵士は馬に乗ったまま主の直前までやってくると、飛び降りてひざまづいた。本来なら無礼に当たる行為だが、礼儀より実をとるフェリクスはそれを許可していた。

「どうした?」

「報告します……その……」

「なんだ?」

「できれば、お人払いを」

「わかった、私の天幕へ来い」

 中へ向かうフェリクスのあとに、ユーグも従った。

 天幕に入ってすぐ、再び問いかけた。

「どういうことだ?」

「その、大変申し上げにくいことなのですが」

「急を要するのだろう? 早く言え」

「それが……我が軍の寝返りが発覚いたしました」

「今さらだ。前々から部分的に起きていたことではないか」

「いえ、お待ちください、フェリクス様」

 妙なものを感じたユーグが割って入った。

「今度は、誰が(、、)裏切ったんだ?」

「――フィズベク南方守備隊の長、ロラント卿にございます」

 一同に激震が走った。

「本当、なのか」

「はい。敵方に入り込んでいた密偵複数が、直接はっきりと確認いたしました」

「…………」

 言葉を失ったユーグにかわり、フェリクスが問うた。

「理由は?」

「わかりません。ただ、ロラント卿が共和国軍の一隊をみずから率いているのは事実です」

「ユーグ」

「……そんな人物ではないはずなのですが……。しかし、これでつじつまが合いました」

 おかしいとは思っていたのだ。精鋭集う南方守備隊がそうそう簡単にやられるわけがない。

 指揮官が捕らえられたというのも不自然だった。将として何をすべきかわからない人物ではない、もし危機的状況に陥ったのなら、自身が生き残ることを最優先しただろう。

 なぜなら、それを教えてくれたのが他ならぬロラントであったからだ。

「フェリクス様……」

「ノイシュタットですら一枚岩ではないか。ここにオトマルがいなくてちょうどよかった」

 裏切りは、あの老将がもっとも嫌い、もっとも軽蔑するところ。この場にいたとしたら、怒り狂って単身敵陣に乗り込んでもおかしくはなかった。

「フェリクス様、ここは私に任せてくださいませんか」

「ユーグ?」

「おそらく、この情報は真実でしょう。しかし、みずからの目で確認したいのです」

「――いいだろう、お前が決着をつけてこい」

「はい」

 天幕から飛び出し、用意されていた馬に乗って駆け出した。

 その後ろ姿を見つめたまま、フェリクスは独りごちた。

「最初からこんな調子か――」

 先行きの危うさを思い、無意識のうちに剣の柄を握りしめた。

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