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第八章 序曲

 ビーレフェルトの一画にたたずむ館の空間は、不気味なほど、しん、と静まり返っていた。

 いつもは黙れと言ってもしゃべりつづけるほど口達者な連中が、皆、しかつめらしい顔をして誰も発言しようとしない。

 こういったときに場を取り仕切る、年長のグスタフさえもそのきっかけを失っていた。

「まさか、本当に戦になるとはな……」

 ダミアンが、まさに独りごちるようにして言った。

 それに反応する者は少なかったが、しばらくしてようやくモーリッツが論駁した。

「まさかではない。こうなる可能性は最初からあった」

「ああ、見込みが甘かったとしか言いようがない」

 二人のやり取りに、カールが机を叩いて言った。

「だ、だが、戦が起きても需要が落ちるわけじゃない。帝都騒乱のときだってそうだった」

「一時的には、特需でそうなるだろうがな。長期的に見れば確実に落ち込む、それもかなり」

「そして、帝国を拠点にする我々は大打撃を受け、他の地域の商人から足元を見られるようになる」

 モーリッツ、ダミアンに立てつづけに否定され、さすがのカールも押し黙った。

「浅はかだった。最悪の事態も想定しておくべきだった」

「しかし、それはバルテル隊商同盟の総意として決めたはずだ!」

「そうだ。ここにいる全員の責任だ」

「こ、このっ……!」

「お二人とも」

 それまで語らずを貫いていた古参のグスタフが、やや呆れた調子で諫めた。

「仲間同士で言い争っているときではありますまい。モーリッツ殿がおっしゃることにも一理ありますが、今はどう対応をとるかが寛容ですぞ」

「しかし、グスタフ殿! このわからずやが――」

「カール殿も落ち着きなされ。焦っていいことなど何もありませぬ」

「私は冷静だ!」

「真に冷静な者は、そのようには言いませんよ」

「確かに」

 と答えたのは、ダミアンだった。

「こんな状況、初めてのことです。私も、自分が平常心なのか自信がない」

「誰もが同じなのですよ、カール殿。それを隠す必要はない」

「……わかりました」

 思うところあったのか、カールは意外なほど素直にグスタフの言葉を聞き入れた。

 だが、他の若手商人らは苛立ちを隠そうともせず、声を荒らげた。

「精神論はいいのですよ。それより具体的な対応ですが、資産の移転を急ぐべきでは?」

「帝国から逃げろというのか? いくらなんでもそれは――」

 さすがのカールも鼻白んだ。彼、ユルゲンの気持ちはわからなくもないが、拙速にすぎる。

「我々が動いたら、他の商人や貴族もいっせいに同じことを始めるぞ。もしそうなれば、この地域の経済は破綻しかねない」

「そんなことは、我々が関与すべきことではありません。国のことを考えるのは、領主たちの役目でしょう? 商人は商人の仕事をすればいいのです」

 正論ではあった。

 それでも、場に納得した空気はまるでなかった。

「自分には関係ない、か」

 と、モーリッツ。

 その声に険はなかったが、ユルゲンはすかさず言い返した。

「実際そうでしょう? 常日頃からきちんと税を支払い、商人としての責務はまっとうしている。我々が文句を言われる筋合いはない。違いますか」

「違うとは言わない。だが君自身、帝国が大変なことになれば困るんじゃないか」

「それは……」

 落ち着いた指摘に、ユルゲンは言葉に詰まった。

「活動拠点を移すのは容易なことではない。もし失敗しようものなら、そのときこそ我々は根底から基盤を失うことになる。そのほうが余程、致命的だ」

「仮定の話は好かないが、きっとモーリッツ殿の言うようになるでしょうな。メルセアを中心に商いをしている私でさえ例外ではありませぬ」

「ことは、ノルトファリア一国の問題にとどまらない。ひょっとすると、周辺諸国まで巻き込んだ事態に陥るおそれもある」

 はぁ、とダミアンはあからさまにため息をついた。

「帝都騒乱のような内紛ではありませんから、共和国が本当に動いたとしたらあそこも今後どうなるかは不透明です」

「そして、この場には共和国に自宅のある者が多い、と……」

 グスタフの低い声に、場の空気は再び沈んだ。

 今のままではどうしようもない現実を痛感し、もはや打開策を考えることすらできない。

「黙ってうつむいていても意味がない。今、やれることはなんだ」

 普段は無口なモーリッツが、あえて周りを叱咤するようにして言った。

 答えたのは、渋面のままのダミアンであった。

「立場上、帝国やノイシュタット側においそれと事情を伝えるわけにもいかない。我々がきっかけだったなどと知れたら、処罰されても文句は言えないだろう」

「しかし、間接的にはやれるのではないですかな?」

 グスタフの意見は妥当だった。

「そうですね。実は、すでに少し手は打ったのですが……」

 共和国でたまたま出会ったあの青年は、もうノイシュタットに戻っただろうか。

 しかし、それだけに期待するのは、あまりにも無策だった。

「それなら、私もすでに試しておいた」

 モーリッツは、ため息混じりに言った。

「知り合いにカセルの貴族がいる。例の一件で今立場が危ういようだが、ノイシュタット侯とのつながりが深い。『共和国にくわしい者からの確かな情報』として、侯に近い人物に直接伝えてもらうつもりだ」

「しかし……それはノイシュタットの準備が整うというだけであって、戦そのものを回避する可能性を高めるわけじゃない」

 それまで黙り込んでいたカールが、おもむろに口を開いた。

「共和国が考え直さなければ、どっちみち大混乱だ。そうだろう? ダミアン」

「ああ。ノイシュタット側が黙っているはずもない。カセルが破綻した今、ノイシュタットの軍は帝国最強だ。共和国はただでは済まない」

「回り回っても、誰も得をすることがない。しかし、戦を起こそうとする、か。本当にどうしたらいいんだッ!」

 もう一度机を激しく叩いたカールをとがめる者はいない。誰もが同じ気持ちだった。

 再び口を開いたのは、やはり巨躯の男だった。

「策がないことはない」

「なんだ、モーリッツ!?」

「共和国側を説得することだ」

「だから、それが不可能だから悩んでいるんだろう!」

「可能性が低いことはわかってる。だが、他に方法がないなら、なんとかするしかない」

「ううむ……」

 ゆっくりと腕を組み直し、グスタフは眉間に刻まれたしわをなおいっそう深くした。

「ノイシュタット側も本気で応戦することと、先ほどの話ですな。戦いが起これば、共和国側も無傷ではいられない。商人が他の地域へ逃げてしまう不利益と、共和国自身、他の国から狙われる危険性を伝えれば、ひょっとしたら……」

「そううまくいくでしょうか」

 ユルゲンは鼻で笑い、口の端をゆがめた。

「皆さん、ダスクが単独で動いているかのように話しておられるが、あの小国が本当にそんな大それたことをするでしょうか。他国に狙われるどころか、その他国と裏でつながっていたとしたらどうするんです。それこそノイシュタット、引いては帝国の危機ですよ」

 カールは三度、机を殴りつけた。

「いい加減にしろ、ユルゲン! お前はまだ、いざとなったら逃げればなんとかなると思っているようだが、世の中そんなに甘くはない! 戦の混乱の中では、どんなに冷静に振る舞っても、どんなに綿密に計画を立てても、ほとんどなんの役にも立たんのだ! 戦を知らないお前たちは、考えが甘すぎる」

 ダミアン、そしてモーリッツにもカールの思いはわかった。この三人はそれぞれ戦争に巻き込まれ、実際に悲惨な経験をしてきた。

 だが、ダミアンはそのことよりも、別のことを気にかけていた。

「君の言うとおりだ、カール。しかし、彼の真意はともかく、言った内容は看過できんぞ」

「何?」

「よくよく考えてみれば、共和国の行動は不自然な点だらけだ。ひょっとしたらひょっとするぞ」

「では、帝国、共和国だけでなく周辺地域も含めて、安全なところはどこにもないということじゃないか」

 グスタフは、大きくうなずいた。

「鋭いですな、カール殿。私も同感です。例の帝都騒乱が、この辺り一帯の均衡を崩してしまった。ダスク、ゴール、メルセアだけではない。あらゆる国を巻き込んで、すべてが動いていきますぞ」

「もはや、逃げる場所もないということだ」

 モーリッツの一言に、若手の商人たちははっとさせられた。

「逃げられないなら、我々も現実と戦うしかない。やれることがまだ残っているなら、たとえ悲しいほど確率は低いとしても試してみるべきだ」

 もはや反論の声も、皮肉の声も上がらなかった。一同は、ようやく現状を深く理解した。

「問題は、誰が共和国へ行くかだが……」

 ダミアンの問いに即答したのはモーリッツだった。

「今度はカール、君が行くんだ」

「なっ、なぜ!?」

「君は共和国の籍を持っていて、しかも執政官のアランをはじめ、国の幹部に知り合いが多い。他に適任者はいないだろう」

「し、しかし……」

「もう、あとがないんだ、カール。可能性のかけらを拾い集めるためには、少しでもよかれと思うことをやるしかない」

 カールはまだ何か言いたげに口を開け閉めしたが、しばらくうなったあとに出した言葉は承諾の意を示すものだった。

「――わかった、仕方あるまい。だが、ひとつ条件がある」

「なんだ?」

「少なくともここにいる全員で共和国の首都ブランへ行くんだ。直に陳情する者が多ければ多いほど、相手に与える印象は強くなる」

「なるほど、それはそうだ」

 異論は出なかった。若手はまだ何か言いたげであったが、口をつぐんだままだった。

「とりあえずの対策が決まったなら、すぐに動きましょうぞ」

「そうですね、グスタフ殿。全員でダスクへ行くとなれば、それぞれ準備も必要でしょう」

 ダミアンとグスタフがさっそく立ち上がると、他の面々も次々と席を立って館を出ていった。カールも少し青ざめた顔で、足早に自身の馬車へと向かう。

 その馬蹄の響きは、すぐに遠ざかっていった。

 あとに残ったのは、いつものとおりダミアンとモーリッツの二人だけだった。

 少し疲れた様子のダミアンはしかし、不安や焦りよりも不可解な色をその顔に浮かべていた。

「モーリッツ」

「なんだ?」

「なぜ、カールにあえて任せたんだ。君の考えは理にかなっているようで、実際にはひどく危うい。彼のことだ、共和国側からあからさまに反発されたら、感情に流されて暴走しかねんぞ」

「それでいいと思ってる」

「モーリッツ?」

「ダミアン、君が理路整然と説得しても駄目だったそうじゃないか。ならば、別のやり方で当たるしかない」

「それはそうだが、裏目に出るかもしれん」

「ダミアン……」

 モーリッツは、あからさまに嘆息した。

「すでに状況は追いつめられている。そんなときに正攻法だけでなんとかなると思うのか? 君まで冷静さを欠いているぞ」

「…………」

 そうなのかもしれない。自分でも、平常心をどこまで保てているか自信がなかった。

「モーリッツ、君はどこまで予想している?」

「――私は、常に最悪の事態を想定している。だから、最初からノイシュタットに拠点は置かなかった」

「以前から共和国との関係が危ういと感じていたのか!?」

「ジークヴァルトの時代からいろいろあったろう? その前から、共和国の人間にとってはかつて帝国に奪われた領土を取り返すのが悲願らしい」

「悲願って……いったい、いつの話だ」

「二五〇年前だ」

「リヒター帝の御代か!?」

 ダミアンは、思わず叫んだ。

「そうだ。そのとき、ノイシュタットは今の半分の領土しかなかった。それをリヒター帝が共和国の前身である王国時代にダスクから奪った。帝国側の人間はすっかり忘れているが、共和国では庶民でもそのときの恨みを未だに持っている」

「信じがたいな……」

「何ごとも奪った側はすぐに忘れる。だが、奪われた側の痛みはずっと消えない。私だってそうだ」

 そんな台詞を残して、モーリッツはその巨体に似合わぬ静かな足取りで去っていった。

「…………」

 ダミアンの胸中では、いろいろな思いが交錯していた。

 ――まさか、またこんな事態に巻き込まれるとは。

 アイトルフ騒乱。

 大切なものを失うことになったあのときと似た状況へ追い込まれようとしている。

 再び、自分は何かを奪われるのだろうか。

 ――いや、そんなことには絶対にさせない。

 あの頃と今とでは、まるで異なることがある。

 己の力だ。

 少なくとも、自分の手の届く範囲にいる存在は守れるだけの自信があった。

 そのためには、すぐに行動に移らなければならなかった。こんな風に感傷にふけっている場合ではないと思い直し、急ぎきびすを返そうとした。

「うん?」

 そこへ乱暴に扉を開け、けたたましい足音を立てて駆け寄ってくる影があった。その音の原因、女性のものにしては無骨なブーツは泥にひどく汚れていた。

「ダミアン様!」

 荒く息をついているのは、侍女のイルマだ。常に男よりも泰然としている彼女が、今は珍しく顔に余裕がなかった。

「どうした? 雨が降ってきたのか?」

「そんなことより、ダミアン様――」

「悪いがあとにしてくれ、イルマ。立て込んでいてな、今日中に済ませてしまいたい仕事がある」

「ダミアン様」

「これが終わったらすぐに――」

「ダミアン様ッ!」

 すっかり人気のなくなった一室に、女の鋭い声が響き渡った。

「……どうした?」

 イルマが人前で声を荒げるなど、これまでにないことだった。異常事態を感じさせるには、それだけでも十分すぎた。

「大変です、ドミニクとルークが……」

 一度呼吸を整えてから、はっきりと告げた。

「今、シュラインシュタットにいます」

 一瞬、ダミアンは相手の言葉の意味を測りかねた。

「――なんだと!? カセルのデューペにいるはずじゃなかったのか!?」

「それが、二人で勝手にシュラインシュタットに戻ったようで。さっき、店の者から連絡がありました」

「ばかな! これでは意味がない!」

 万が一のことを考えて、ノイシュタットの外へ出したというのに。

 ――よりによって侯都とは!

「イルマ、君はすぐにシュラインシュタットへ向かってくれ。二人をできるだけ遠くに……そうだな、ローエのほうへ逃がしてくれ。費用はいくらかかっても構わん」

「ダミアン様は!?」

「私は、共和国へ行く」

 太い鉄棒を握りしめたイルマは目をむいた。

「どうしてこんなときに!?」

「全員で共和国に改めて陳情することになった。最後の賭けだ。だが、残念ながら失敗する可能性のほうが高い」

「…………」

「子供たちのことは頼んだぞ、イルマ。私のことなら心配はいらない。いざとなったら、共和国でも帝国でもない:第三国へ逃げておく」

「――わかりました」

 不吉な予感が胸をよぎったが、イルマは素直に首肯した。

 外の雨は、徐々に強さを増していた。

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