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第一章 第三節

「あー、もう嫌だ」

 若い男の怠惰な声に、かえって場の空気が険悪なものになる。

 ここローエ侯領の都グリューネキルヒェンにある領主の居城、その中央にある一室では、明白すぎる対立関係が展開されていた。

 片や、やる気のかけらもない軟弱男。

 片や、殺気さえ漂う二人の男女。

 その両者の間にあるのは、敵意のみ。互いに引く様子はかけらほどもなく、ただただ不穏な空気が満ち満ちていた。

 先に仕掛けたのは、やはり敵意をむき出しにした側であった。

「どうしてそこまでいい加減なのですか、〝ローエ侯領唯一の選帝侯〟、ライマル閣下」

「ひとつの侯領にひとつの選帝侯なのは当たり前じゃないか、ばかめ」

 人のあげ足をとるその物言いに、体のラインが意外とよく出る礼服と長衣(ローブ)を見事に着こなした妙齢の女性は、まなじりをキッと吊り上げた。

「そこまでおっしゃるのなら、こちらにも考えがありますが」

「ほう、どんな考えだ」

「楽器という名の不要物をすべて処分いたします」

「よせッ!」

 初めて軟弱男の側が動揺を見せた。思わず椅子から立ち上がり、怒りのあまり震える指先を女に向かって突きつけた。

「お前、ニーナ! どうして、そんな非道なことをさらりと言ってのけられるんだ! お前に人のこころはないのか!」

「民を思う気持ちはありますが、領主を思いやる気持ちは微塵もございません」

「リーヌス、なんとか言ってやれ!」

「ははは、女性には逆らわないのが吉です」

「つ、使えない奴……」

 あっさりとニーナの側についた細身の男に、ライマルは毒づくしかなかった。

「まったく、領主をなんだと思ってるんだか」

「はて、ここに領主がおりましたでしょうか」

「…………」

「リーヌス、いるわけないでしょう。ここにいるのは、吟遊詩人(バード)志望のただのばかです」

「ごもっとも」

「――こいつら」

 ライマルの脳裏に二つのことがよぎる。

 ――こいつらを張り倒して逃走を図るか。

 ――寝室に行ってたぬき寝入りを決め込むか。

 後者を採ろうと決めかけたそのとき、リーヌスに先手を打たれた。

「ライマル様、冗談はともかく、例の件はあまり猶予がありません。遅れれば遅れるほど大事に至る可能性が高まってしまいます」

「そのとおりです。ローエだけのことならともかく、ことは帝国どころか周辺諸国にまで及びかねません。あなたの行動ひとつで、数十万の民の命が左右されることになるのですから」

「わかってるさ、だから嫌なんだよ」

 ――やらざるをえないからな。

 こういう状況は大嫌いだ。すべての責任が自分に重くのしかかる。そのくせ、こちらへの見返りは極少だ。

 ――フェリクスはよくやるよ。

 あの男は、こういったことを自ら進んで買って出ているところがある。それが苦難の道であることをわかっていても、自分がやるべきことだと判断すれば迷わず突き進んでいく。そこには明白な意志の輝きと同時に、幾ばくかの危うさもはらんでいた。

「俺にはできない芸当だ」

「できないではなくて、やるのです。それが、領主としての最低限の務めです」

「そういう意味じゃない」

 自分は臆病な男だ。何事からも、逃げて、逃げて、逃げて、ひたすらに逃げを打とうとする。物事に正面から向き合えない。それができるだけの意志も力もなかった。

 ――ま、今回はそのフェリクスのためか。

「いいから、すぐにノイシュタット侯の元へ行くのです。今、頼りになるのはあのお方しかおりません」

「うるせー、女のくせに(、、、、、)。出しゃばってんじゃねえよ、じゃじゃ馬め」

「――――」

 ニーナの目がすっと細められた。

「痛い思いをしなければわかりませぬか?」

「よせッ!」

 懐から取り出された鞭を見て、ライマルから余裕が一気に消え失せた。ピシッ、ピシッと不穏な音を立てるそれを、どこか怯えた様子で遠ざける。

「……まあ、冗談はいいさ。そんなことよりな、例の情報はどれくらい信憑性があるんだ?」

 あからさまにごまかしに入ったライマルであったが、リーヌスらはあえてそれに乗った。

「われわれが直接放った密偵からの報告です。ただの噂話ではありませんし、偽の情報を摑まされた可能性も低いでしょう。それに閣下自身、以前からあの国を怪しんでいたではありませんか」

「そうだけど、な」

 あまりぞっとしないことであった。

 今、帝国はかつてないほど揺れている。この状況で他の国が動いたら、どこまで対応できるのか不安があった。

「ダスク共和国、か」

 動くなら、東の大国メルセアだと思っていた。しかし現実には、西南の中規模国家ダスクだという。まだ確証があるわけではないものの、予想外の国が不穏な動きを見せていることに違いはなかった。

「なあ、ニーナはどう思う? なぜ共和国が動く必要がある?」

「あの国はよくわかりません。民のための国と称しておきながら民の意志を無視したり、あらゆる人々が平等と説いておきながら奴隷が数多く存在したりしています。立て前と中身に差がありすぎて、どうしてそれで平然としていられるのか理解しがたいところがあります」

「まあ、お前の頭じゃ無理だろうな」

「――閣下、私の料理をご賞味くださいますか?」

「……よ、よせ、それだけはやめてくれ」

 いやに怯えた表情で、ライマルは座っていた椅子ごとわずかに後ずさりした。

 わざとらしい咳払いをひとつしてから、本題に戻る。

「共和国は、俺たちにとっては意味不明なところが多い。国政は多数者の意志によって決定されるというから、内部の関係者でもなんでそうなったのかわからないのかもな」

 王政ならば、王とその側近たちの性格を考えればおおよその行動パターンは読める。しかし、これが無数の人々が寄り集まった群衆となるとまったく見えない。

 一方で、群衆としての意志は確かに存在するのだ。

「多数者の意志とはなんでしょうね」

 リーヌスが問う。

「そんなもん、ただの幻想だ」

「幻想?」

「ああ、そんなものは机の上にだけ存在するものだ。多数決原理に基づいているわけだから、多数者の意志が全体の意志であるわけではない。それに多数者といったって、ウミウシとは違うんだ」

「ウミウシ……」

「ひとつの生命ってわけじゃないってことだよ。それぞれに別々に独立している人間なんだ。二、三人でも考えを合わせるのが難しいのに、何万っていう人たちの思いがまったくひとつになるわけないだろう。おおよそのところで同じ方向を向いているというだけの話だ」

「では、民主主義とはなんです?」

「さあな。だいたい、賛成者の多いことが正しいことかどうかなんて誰にもわからない。案外、王政よりも一度変な方向へ走り出したら歯止めがきかないかもな」

 なまじ多数派の意志が正しいと信じ込んでいると、少数派の貴重な意見を無視するようになる。一度そうなってしまえば、もはや道を修正する術はない。

 その点、王政のほうは単純だ。代表はひとりなのだから、その人物が明らかに間違ったことをしていると判断したなら、他の者に譲位させるか、王そのものを打倒すればすむ。責任の所在が明らかな分、その処分は意外にやりやすい。

 逆に共和制では、多数決によって意志決定がなされたということは、ある事項が大失敗に終わった場合、代議士や現場での執行者だけでなく、それに賛成票を投じたすべての人々に責任があるということになる。

 だが、当然ながらその彼らは過半数以上の〝多数〟である。では、その多数派全員を罰することが妥当なのか。また、そもそも可能なのか。

「不可能だろうな。俺はそう思うぜ」

「いえ、可能でしょう。問題のあったことに賛成してしまった全員に賦役を課すなり、一時的に税を上げてやればいいのです」

「リーヌスは無邪気だなぁ」

「同感です。単純に考えすぎます」

 ニーナが、珍しく主君に同意した。

「考えてみなさい。仮にそうしたとしても、次から大衆はどうすると思う?」

「ふうむ、より慎重になるでしょうね」

「それだけじゃないわ。自分に責任問題が降りかかるのを嫌って、より無難なほうへ流れていく。その行き着く先は何なの?」

「はて?」

 ライマルが変わりに答えた。

「停滞と退廃だな」

「そうです。常に当たり障りのないことを選択するなら、ある問題に対して思いきった改革ができるはずもありません」

「なるほど、リスクのない政策などない。だから、リスクをおそれてばかりいたら、そのうち何もできなくなるということですか」

「ああ。たぶん、共和制というやつの未来は大衆の腐敗化(、、、、、、)だろうよ」

 責任問題をあいまいにする組織は必ず歪んでいく。それは自明の理であった。

「じゃあ、民主主義とはいったいなんなのです? 失敗した多数派を罰することができないなんて、裏を返せば正しい少数派が常に割を食うということではないですか」

「そうだよ。民主主義なんてものはな、多数の愚物が少数の賢人を虐げる〝新しい奴隷制〟なんだよ」

「それは言い過ぎです。ただ、私もあの共和国に関しては疑問だらけですが」

 ニーナが肩をすくめる。

 一方、リーヌスは呆れ果てていた。

「だったら、なんで民主主義を信奉できるのです。共和制以前に、多数決原理そのものに問題があるということですし、腐敗に陥る可能性が高いというのに」

「だから、〝幻想〟なんだよ。そう表現するしかないだろう」

 世の中、何が正しいのかなんて誰にもわかりゃしない。しかし皆、何かが正しいと信じて生きている。それが宗教であり、政治であるのだろう。

 ただし、それが本当に正しいかどうかは誰にも証明できないのだ。すべては、薄い霧に包まれている。

 いわば、この世界そのものがひとつの虚構なのかもしれなかった。

「だから、王政や帝政だって問題点だらけのはずさ」

 ライマルが、椅子からゆっくりと立ち上がった。

 そこに、ニーナが噛みついた。

「私は、そうは思いません。王政の場合、責任の所在が極めてはっきりとしているではないですか。それに王は王になるべくして生まれてきた、いわば専門家です。鍛冶屋の息子がパン屋の息子より鍛冶について詳しいように、王の息子はそれゆえに政に精通できます」

「どうかな? 俺みたいに、まるでやる気のない奴もいるけど」

「それは、あなたが領主としての自覚がないからです! それに、もし王としての能力が足りなくても、家臣団がそれを支えればいい話です」

「だったら、初めからその有能な家臣が領主になればいい」

「閣下!」

 ニーナの一喝に、ライマルは久しぶりに真剣な眼差しを彼女に向けた。

「王の子が王に向いているかなんて誰にもわからないさ、多数派が正しいかどうか結局はわからないのと同じでな」

「ですが――」

「帝王学を教え込んでも同じだ。王の子が帝王学に馴染むかどうかも別問題だ。それに、本人にやろうという意思があるかどうかは余計にわからない」

「…………」

 ライマルは窓の外へ視線を移した。そこでは、数羽の鳥が優雅に空を舞っていた。

「無能な王に支配された民は悲劇だ。少数派が多数派を虐げているんだよ」

「…………」

「革命権を民に認めたところでどうなる? 誰にそれを実行する余力がある? 結局は、やるとしても中流以上の連中だけだ。下層の民からしたら、頭がすげ替わるだけなんだよ」

 リーヌスが得心した。

「だったら、代議制も同じなのでは? 民による投票によって代表を選ぶにしても、毎回、上の人間が替わるだけでしょう」

「おお、そうだな。そのとおりだ」

 ライマルがうなずいた。

「つまりはあれだ、どれもこれも限界があるってこった。か弱き人間が考えることなんて、しょせんたかが知れている」

 羽付きの派手な帽子をかぶり直しながら、部屋の扉のほうへ向かう。その背中は、一切の追及を拒んでいた。

 しかし、あえてニーナは言葉を放った。

 鋭い矢として。

「それでも、あなたはローエ侯領の(あるじ)なのです」

「…………」

 振り返らぬままに、ライマルは答えた。

「本人の意思にかかわりなく王にさせられるなら、その王はただの奴隷だ」

「――――」

「王政も共和制も、少数派の犠牲を前提とする制度なのであった――なんつって」

「閣下……」

 ニーナとリーヌスが脱力して肩を落とす。

「フェリクスには、俺から直接伝えるさ。もし例の〝意味不明共和国〟が動くなら、もっとも影響を受けるのはノイシュタットだからな」

「他の件はどうします? ローエも盤石ではないのですよ。たとえば、カセルへの支援をするにしたって――」

「よきにはからえ」

「例の組織との話し合いは――」

「よきにはからえ」

「それに――」

「よきにはからえ」

「…………」

 ニーナは納得した。

「わかりました。あなたを徹底的に調教いたします」

「待てッ!」

 逃げようとした主君を、リーヌスがその細身に似合わぬ膂力ではがいじめにし、そこをニーナがあっという間に縛り上げた。見事な連係である。

「お前ら主君をなんだと思っている!?」

「犬です」

「そうね、本人も奴隷と言っていたことだし」

「こらッ!」

 グリューネキルヒェンの城に悲鳴がこだました。

 ローエは今日も平和である。

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