第七章 第三節
久しぶりのカセルはどこかすべてが懐かしく、それでいてひとつひとつが新鮮だった。
以前はよく訪れていたというのに、気がつくと遠ざかってしまい、思えばもう四年以上もこの地に足を踏み入れたことはなかった。
そんなに経ったのか、という感慨が今さらながらに込み上げてくる。ノイシュタット侯を引き継いでからというもの、毎日が矢のように行き過ぎ、知らず知らずのうちに昔は当たり前のように行っていたことでさえできなくなっていった。
――これが大人になるということなのか。
だとしたら、大人とはなんと退屈なものなのか。本来したいこともできず、ただ似たような日々をくり返していく。
そうして、気がついたときにはもう、老いている。
「漫然と日々を過ごしていると、時間が経つのが早いものだな」
「どうしたのです? 急に」
椅子に座ったまま大きく伸びをしたフェリクスに、斜向かいにいるオトマルが驚いた。
「なに、退屈な毎日だと老けるのが早いと思ってな」
「年寄りじみたことを。私からすれば、フェリクス様はまだまだひよっこです」
「だろうな」
オトマルの厳しい物言いに笑った。そもそも、つまらぬ愚痴をつぶやいている場合ではない。
「そんなことより、カセルの現状が思ったほどひどくなくてよかった」
「ええ、もっと厳しい現実を覚悟してましたからな」
今、フェリクスらはカセルの侯都ヴェストヴェルゲンの城にいた。
前カセル侯の反乱以降、窮状が続き、大規模な暴動の気配が高まっているこの地へあえて選帝侯が訪れたのは、不穏分子を牽制し、帝国による復興の支援をアピールする意味合いがあった。
といっても、今回はブロークヴェーク侯とアイトルフ侯、そしてノイシュタット侯しか諸般の事情で来てはいない。この足並みの悪さが、現在の帝国の現状を物語っていた。
「全員で来てこそ意味があるのだが」
「まあ、そのとおりではありますが、一時しのぎに変わりはありませぬ。次のカセル侯を正式に決めないことには、混乱は収りますまい」
「違いない」
次期カセル侯という話で、フェリクスはふと思い出したことがあった。
「オトマルは、エルヴィーンについて何か知っているか?」
「継承権を持つはずの者ですか。名前は以前から聞いているのですが、よく存じ上げません。確か前カセル侯でさえ直接は会ったことがないのですから、今彼を知る者は少なくともこの帝国にはおらぬのでは」
「そうか」
帝国の騎士の中でもっとも古株のオトマルでさえ知らないのなら、どうしようもない。冬までに捜し出すという期限は守られそうになかった。
「存命かどうかもわからぬ者に期待してもしょうがないと思うのですが」
「私も同感だ。それより問題は、次の候補が決まるまでこの地をどうするかだ」
「ですな。アルスフェルトの復興は進んでおりませんし、カセル侯軍の立て直しもままなりませぬ」
フェリクスは、大きく、深く、息をついた。
「自分たちがまさに戦ったとはいえ、ここまで再編が遅れるとは」
「民兵の補充はともかく、離れていった騎士が多すぎるのが誤算でしたな」
「おそらくゴトフリート殿も、ここまでのことは予測していなかっただろう」
カセル、引いては帝国に失望し、騎士の立場を辞する者はあとを絶たなかった。ルイーゼも騒乱の責任を感じてか、無理に引き止めることはできなかったようだ。
「カセルに隣接する国がトゥルリアでよかったですな」
「ああ、あそことは友好関係が築けている。それにカセルに入るには、山脈越えをしなければならない」
ノルトファリア帝国とトゥルリア王国の国境沿いには、ヴェインゴルトと呼ばれる険しい山脈が東西に伸びている。ここを越えるのは地元の民でさえ困難で、冬は事実上封鎖されるといっても過言ではない。
「ということは、あとはカセル内部の問題ですな。物資や人材を一気につぎ込めば、それなりになんとかなりそうな気もするのですが」
「だが正直、我々もあまり余裕はない。カセルを援助したくても限界がある」
「どうにもなりませんな」
「ああ、だからこその現状だ」
画期的な解決方法があるのなら、とっくの昔にそれを実践している。他に打開策がないから、こうして苦しんでいるのだった。
「おや? 誰か来たようですな。では、フェリクス様、私はいったんこれで」
「ああ、例の情報収集も頼む」
「承知しております。ノイシュタットに直接かかわることですから」
頼れる副官は、一礼して退出していった。
それと入れ替わりに、黄金の髪の美しい女性がしなやかな所作で部屋に入ってきた。
「おお、ルイーゼ卿」
「ごぶさたしておりました、フェリクス様」
恭しく腰を折ったのは、ゴトフリートの元副官であり、現在カセルの復興作業を指揮しているルイーゼであった。
「元気そうで何より――と言いたいところだが、だいぶ疲れが出ているようだ」
彼女の秀麗な顔にはどこか陰があり、疲労の色が濃いように見えた。
「ご心配をおかけして申し訳ありません。しかし……これは疲れによるものではありません」
「強がらなくていい。誰だって、重責を担えばふだんよりも疲れがたまりやすくなるものだ」
「いえ……正直に申し上げれば、未だにあの方の面影が消えぬのです」
ルイーゼは、寂しげに微笑んだ。
「ルイーゼ卿……」
「情けない話です。もう割り切ったつもりなのに、少しでも油断すると思い出してしまう。しばらくは、こんな調子のようです」
「忘れる必要はない」
「え?」
「ゴトフリート殿のことは、卿にとって人生の重要な一部なのだろう? ならば、いつまでもその胸にしまっておけばいい。忘れることはできなくても、いつか思い出に変えられる」
「フェリクス様……」
それでよかったのか、とルイーゼはしっかりと頷いた。
反対に表情が曇ったのはノイシュタット侯のほうだった。
「ただ、今日は少し気の滅入る話もしなければならん。すでに聞いていると思うが、冬までに次期カセル侯を決めることになった」
「はい」
「だが、ルイーゼ卿を推薦しようとしたのは駄目だったよ」
「フェリクス様」
女騎士の気配がわずかに変わった。
「そのことでしたら、以前はっきりとお断りしたはずです。ですので、なんの問題もございません」
「そう怒るな。元より、そなたのためにそうしようとしたわけではない。今のカセルの状況を思えば、ひとりの指導者の下で継続的に復興を進めたほうがいい、そう思っただけなのだ」
「ですが、私では駄目なのです――加害者が救い主になれるはずがありません」
「ルイーゼ卿……」
フェリクスは、そっと息をついた。
「そなたがすべての責任を負う必要はまったくないと思うのだがな。ゴトフリート殿だって、そのためにそなたを残したのでは――」
「フェリクス様」
「わかった、わかった。睨まないでくれ。それより、わざわざここへ来たということは、何か他に話があったんじゃないか?」
「それなのですが……」
いったん口を開きかけ、ルイーゼは唇にそっと指を当てて言いよどんだ。
「水くさいな。どんなことでも忌憚なく言ってくれればいい。私は、遠回しに言われるほうが不愉快だというのは知っているだろう?」
「はい……実は、共和国の件なのですが」
「ダスクか」
フェリクスは、思わず身を乗り出した。
「実は、私の叔母はそのダスクの出身なのですが、最近、妙なことを伝えてきたのです」
「妙なこと?」
一拍置いてから赤い唇が告げたのは、不穏なものだった。
「共和国は、戦の準備をしていると。それも、かなりの戦力を整えていると」
「なるほど。それで、標的は帝国だから注意しろというわけか」
「いえ……」
「うん?」
「厳密には、狙いはノイシュタットだと。だから、そこには何があっても近づくなと言うのです」
「――そうか」
フェリクスは、目を伏せた。すべては予想どおり、か。
「お気を悪くしたのなら申し訳ありません。私はつい――」
「いや、そうじゃない。実は、もうわかっていたことなんだ」
苦笑しながらも、事情を真摯な女騎士に説明してやった。
「すでに国境沿いで小競り合いがあってな。表向きはただの暴動だが、その裏で動いているのが誰かは明らかだよ。捕らえた男がかなりのことを吐いてくれたんでね」
「さすがです。わたくしなどが心配申し上げる必要はありませんでした」
「いや、貴重な情報だ。本当に助かった」
義理で言っているのではない。そういった〝生〟の情報は信憑性が高く、ただの噂に比べればはるかに有用だ。感謝することこそあれ、邪魔に思うはずがなかった。
「ところで」
と、フェリクスは椅子に座り直して、居住まいを正した。
「ルイーゼ卿は、これからこの世界はどうなると思う」
「この世界、ですか」
「ああ。そなたも、ゴトフリート殿の思想に共感したからこそ協力したはずだ。今、人間の世界だけでなく翼人の世界も激しく動いているらしい。彼は、そこに自分なりの答えを出そうとした。そなた自身は今、どう思っている?」
しばらく返事はなかった。ルイーゼは自身の足元を見つめ、静かに思案している。
元より、すぐに答えを出せる類の問いではない。フェリクスも、何も言わずにただ待った。
「――私は、今の世界がよりよい方向へ向かうか、それとも逆なのかはわかりません」
「だろうな、私も同感だ」
「ただ、止まらないことだけは確実だと思います。これからの舵取りで、すべてが変わってくるのではないかと」
「それも同感だ。おそらく、対応しだいで吉とでも凶とでも出る」
理想郷を築くか、はたまたこの世の地獄と化すか。
それらはすべて、今後の自分たちの判断にかかっている。
「ルイーゼ卿、私の根本の考えはゴトフリート殿と同じなのだ。どうせ変わるというなら、やはりよりよい方向へ進ませたい。だが、本当は暴力によらない方法で行うべきなんだ」
「おっしゃるとおりだと思います」
「ただ、かく言う自分でさえ騎士団という武力を保持し、ときにそれを行使している。理想と現実の差は大きい。そして、いつも犠牲になるのは現実のほうだ」
「現実をよくするために活動しているはずが、現実を犠牲にしてしまう、と」
「ああ。ただの矛盾だが、大半の場合そうなってしまう。これからも、きっと似たような状況に自分たちも陥る」
フェリクスは、机の上にあった一通の書状を横へやった。
「そうなったとき、私はどうすべきなのだろうな」
若き女騎士から視線を外し、若き選帝侯は窓外に目を向けた。
その右手の下にある書状には、トゥルリア王国国王コルネリウスの名が記されていた。




