第七章 変化のとき
朝の森は静かで、全体がやわらかい空気に包まれている。吹き抜ける少し冷えた風が、まだ寝ぼけたままの頭を明瞭にしてくれる。
早めに起きたジャンはひとり、木々のあいだを縫うように散歩していた。
いつの間にか、〝虹〟の面々の警戒はゆるくなって、ある程度自由に行動できるようになった。といっても、あとが怖くてとても逃げ出す勇気はない。
もっとも、ベアトリーチェがあえてここに留まるつもりのようなので、どちらにしろ離れられなかったが。
それにしても、自然の森は意外と変化が多彩だ。野生の生き物たちも目覚めたのか、ちょうど周囲が騒がしくなりはじめた。
風に揺らされた木々がまだ弱々しい陽光を散らし、小川を流れる水がそれを受けてきらめいている。
故郷の村が恋しくなることもあるが、こういうところも悪くないなあと純粋に思う。
――あれ? ここ、どの辺だ?
と焦った頃になって、近くに人の気配を感じた。捕らわれの身だというのに、そのことにほっとしている自分が滑稽だった。
――あれは……
茂みの向こうに見えたのは、意外にもあの白い翼の少女だった。いつもの儚げな様子で――
「あれ?」
その瞳はまっすぐこちらに向けられ、その奥には明確な意志の輝きもある。そして、周りを気にしているようだが、足取りはいつになくしっかりとしたものだった。
こちらの近くまでやってくると、笑顔まで浮かべてみせた。
「ジャン」
「えっ、元に戻ったの!?」
ジャンが大きな声を出したために、マリーアは急いで唇に指を当てた。
「静かにして。まだみんなには気づかれたくないの」
「ええ!?」
ますます意味がわからない。しかし、声も口調も思いのほかはっきりとしていた。
「いったい、いつから……」
「ベアトリーチェに診てもらって、そのあと目が覚めたときから」
「このこと、彼女のほうは?」
マリーアは、かぶりを振った。
「今はどうしても知られるわけにはいかないの、ここのみんなのためにも」
「それはわかったけど、じゃあ、どうして俺に?」
「アーベルを救ってあげて」
マリーアの希望は、明瞭かつ端的だった。
「彼はずっともがいて苦しんでる、彼自身が悪いことばかりではないのに。ジャンなら、彼のこころの支えになってあげられる気がする」
「俺が?」
「うん、前のリゼロッテという子の話、私にも聞こえてたけど、こころに響くものがあった。あなたなら、何かを伝えられる気がするの」
「でも、人間の俺が言っても、彼はかえって反発するだけで逆効果だと思うけど」
「ううん、アーベルはちゃんと話を聞いてる。まだ素直にそれを認められないだけなんだよ。彼も私と同じで、まだ大人になりきれてないから」
「…………」
「あなたが大事なことを伝えつづければ、いつかきっと彼もわかってくれるはずなの」
ジャンは思案した。マリーアの言っていることは一理あると思う。しかし、自分に何ができるのだろうか。そもそも、伝えるべき何かがあるのだろうか。
ただ、アーベルの危ういくらいの純粋さは自分も気がついていた。それは、もしかしたらヴァイク以上かもしれない。
しかし、それゆえの、大きな可能性を感じてもいた。
「わかったよ。何を伝えられるかはわからないけど、いろいろと話してみる」
「ありがとう」
マリーアが満面の笑みを浮かべた。それはまさに、屈託のない少女らしいものだった。
「ところで――」
「うん?」
「今、ヴァイクはどうしてるのかな?」
頬を赤く染めてもじもじとしている。
かわいいと思うと同時に、ジャンは別のことに思いを馳せていた。
――アーベル、浮かばれない奴……
「ヴァイクだったらね――」
「あ、誰か来たみたい。お願い、ごまかしておいて。アーベルのこと頼んだよ」
「あっ」
という間に、その姿は森の奥へと消えていった。
――身体能力、高そうだな。
道があるとはいえ獣道。その悪路をものともせず、白翼の少女は颯爽と走り去った。
――誰か来たって……
周りには、人どころか獣の気配もない。
どちらから来ているのだろうと、目を凝らして周囲をうかがっていると、しばらくしてからようやく後方に人影が見えた。
「あ、アーベル」
「あまりうろちょろするな」
不機嫌を体現したかのような顔をして、黒翼の少年は近づいてきた。
「どうしたの?」
「……マリーア見なかったか?」
「さっき見かけた気がするけど、何か用?」
「用ってほどのことがあるわけじゃ……」
と、視線を外してうつむいてしまった。
やや気まずい沈黙が二人の間に下りた。
それを打ち消すように、ジャンはあえてマリーアのことを問うてみた。
「最近、マリーアはどう?」
「前と変わらない。でも、少し動き回るようになったかもしれない」
「そうか、元気ならそれでいい」
ジャンがほっとした顔をすると、アーベルが物言いたげな視線を向けてきた。
「何?」
「お前は、どうして人間なのに翼人の心配をするんだ」
「まあ、知り合いだからね」
「でも、種族が違う」
「でも、逆を言えばそれだけでしかない」
アーベルが、不可解な思いをその瞳に浮かべた。
「でも、そういう考えは普通じゃない」
「だったら、普通じゃないままでいいよ、俺は」
「…………」
「俺はかなり独特の考え方をするからね、子供の頃から変人だって周りから思われてた」
理不尽な思いも何度もした。しかも、その相手はほとんどが大人だった。
「でも、あるときから自分はそれでいいと思えるようになったんだ。正しいことを正しいと言うのに変人扱いされるなら、むしろ光栄だって」
「どうして?」
「他の連中が間違っていることを自分たちで証明してくれたからさ。それから実際、周りの俺を見る目は変わった」
村を襲った大飢饉。その原因は、危ういといわれる作物をあえて栽培してしまったためだった。
自分は当初から反対していた。過去の経験や、名人と謳われるような農家から情報を集め、リスクが高いことがはっきりとわかったからだ。
しかし、村人は数少ない成功例を引き合いに出し、反対するこちらを糾弾した。どう考えても、他の村人のほうがおかしいのに、こちらがおかしいと言い出した。このときばかりはセヴェルスまで敵に回ったがために、一カ月近く口をきかなかったほどだ。
はたして、その作物は病気に弱く、最初の年にほとんど全滅してしまった。反対に自分の畑は無事で、そこからの収穫とカセル侯からの援助でその冬をしのいだのだった。
「自分が正しいと思うことは、徹底的に貫けばいいんだよ。そうすれば、自分が間違ってないかぎり、いつかそれが証明される」
「――でも、自分にはそれがない、信じるものが」
「そうか……だったら、考えつづけるしかないよ、答えが出るまで」
「やってる。でも、何をしたらいいか、何を信じたらいいかわからない」
「じゃあ、もっと考えるんだね。みんなだって苦しみながら、考えながら生きてるんだ。君くらいの歳で、疲れたとか嫌だとか言ってる場合じゃないよ」
ジャンの言葉は手厳しい。しかし、アーベルはそこから逃げようとはしていなかった。
マリーアの言うとおり、彼には大きく伸びる可能性があるのかもしれない。
「ちなみに、君にとって彼女はどういう存在なの?」
「どういう存在って……」
「まともに生活できない彼女を支えてるのは、何か思いがあるからなんじゃないの?」
「――それもわからない。僕がマリーアを支えてるんじゃなくて、彼女に僕が支えられてるのかもしれないし」
「そうか」
ジャンは、あえてそれ以上は何も言わなかった。
二人のそばで、木の枝から伸びた新芽が揺れていた。




