第五章 第四節
周りは暗く、目を凝らしたところで何も見通すことはできない。全身を覆う感覚は不確かで、どこか空気が重く感じられた。
――今の自分にはお似合いだ。
この暗闇も、冷気も、沈黙も、すべておのれの内面の実情にふさわしかった。自身が思い悩んでいる様々なことがばかばかしくなってきて、アーベルは自嘲的な吐息をもらした。
――どうして、僕は生かされているのだろう。
戦いに完敗した時点で、みずからの心臓を奪われる覚悟をした。元より、生半可な覚悟では剣を握れない。〝もしも〟のときのことは、常に頭の中にあった。
――けど、僕は生きている。
この生の感覚が理不尽にも思えた。
なぜ、終わらない。
なぜ、終わらせられない。
何もかもが幕を閉じてしまえば、もう楽になれるだろうに。
自暴自棄の螺旋の中、ふと浮かんだ、ひとりの少女の面影。
――マリーア。
望みのない人生の内にありながら、彼女だけが希望を与えてくれた。なんの取り柄もない自分を救ってくれた。
――彼女さえ幸せならそれでいい。
〝本当にそれでいいのか〟
喉の奥にある別の自分が問いかけてくる。
| 本当にそれでいいのか《、、、、、、、、、、、》。
いいはずだ。彼女が笑顔になれるのなら、今生にもはや未練はない。
《本当にそれでいいのか》
もうひとりの自分が、明確にヴァイクの顔になった。そして、無遠慮にこちらを問い詰める。
《お前は逃げてるだけじゃないのか》
――うるさい。俺に語るな、命令するな。お前に何がわかる。お前なんかに俺をなじる権利なんてない。
しかし、どんな言葉で逃げようとしても、白翼の男は容赦なく迫ってきた。
《自分のことくらい自分で決めろ。それすらもできないのか。だとしたら、お前はただの子供だ》
――うるさい!
こころの膜を裂く悲痛な叫びがこだました。それはアーベル自身の耳にこそ強く響き、反響に反響を重ね、いつまで経っても頭から離れてはくれない。
すべて、言われなくてもわかっていた。それを、ぶしつけにも真正面から糾弾されたことで混乱し、ひたすらに苛立った。
ただ、おかげで見えてきたこともあった。
――自分は素直じゃないのかもしれない。
どこかで、おのれの本音と逆のことをしようとしている。いろいろなことを考え、いろいろなことを悩み、結果的に自身の本心とはずれたことをしていた。
損な性格だと自分でも思うが、こればかりはどうしようもなかった。
この日、何度目かもわからないため息をついたとき、ふと通路の奥のほうから誰かが近づいてくる気配があった。
ろうそくの心細い明かりの中でも、夜目のきく翼人にはわかる。ひとりの人間のようだった。
その人物、ベアトリーチェは牢の前でゆっくりと止まった。
――女か。
アーベルは意外に思ったが、あえて表情には出さなかった。
「アーベル、ちょっと話をいいかしら」
こちらが黙っていると、女は勝手にしゃべりだした。
「さっきのヴァイクの言葉、怒らないであげてね」
なんだ、そんなこと――と思ったが、声には出さない。
「彼、あなたにわかってほしかっただけなの、かつて自分が経験してきたことを。彼も、ずっと悩みを抱えて生きてきたから」
こちらが怪訝そうな目を向けると、ベアトリーチェという女はつづけた。
「ヴァイクもね、何度も自暴自棄になりそうになってた。ううん、実際にそうなっていた。けど、そのたびに彼は自分の力で立ち上がってきたの、不死鳥のように」
女は、いったん言葉を切った。いつの間にか、その話に引き込まれている自分がいた。
「どうしてそれができたと思う? 理由は簡単。ただあきらめが悪かったから」
「…………」
「何度あきらめようとしても、あきらめきれなかったの。彼の中には、そうさせようとしない何かがあった」
「何かって?」
「たぶん、ひとつじゃない。あの人は――自分の兄の心臓を得た」
「!」
「それに、リゼロッテという少女の思いも受け継いだから」
「――その話なら聞いた、ジャンという男から」
「やっぱり」
暗がりの中でもわかる、ベアトリーチェは微笑んでいた。
「……なあ、リゼロッテという子はどうして決断できたんだ」
「それは、本人にしかわからない。でも、たぶんやさしかったから」
「やさしい?」
「意志が強いとか、勇気があるとか、そんなことじゃない。ただやさしかった、それだけなの」
ベアトリーチェは、服の上からリゼロッテから譲り受けたペンダントを握りしめた。
「あの子は、他の誰も傷つけたくなかった。悲しませたくなかった。もし誰も何も奪われないのなら、ジェイドのようなものでも食べていたでしょうね」
「……僕には、そこまでの決断はできない」
「そう、だからヴァイクも、いいえ、他のみんなもずっと苦しんでる」
つらいのはあなただけではない、と言外の意味を込めた。
アーベルは、再び視線を下に向けた。
「どうしてそのことを僕に?」
「こういう言い方は失礼になるかもしれないけど、あなた、以前のヴァイクに似てるのよ」
寂しがりやのくせに強がって、苦しいのに問題ないと言ってみせる。
それが結果的に自身を追い込み、やがて積もり積もってこころを重くしていく。
そして、いつしか自分でも内面を動かせなくなってしまう。
「彼だって、まだ乗り越えられていないところがたくさんある。でもね、彼の一番すごいところは、きっとあきらめかけても最後には立ち上がるところだと思う」
「…………」
「誰でも調子のいいときはやる気が出るし、何をやってもうまくいくでしょ? でも、逆のときは、たいていずるずると引きずって、最後には投げ出してしまう。ヴァイクには、それがないの」
すっと黒翼の少年に目を向けた。
「あなたも同じ」
「僕は……」
「本当にあきらめてるなら、そんな目にはならない。あなたの目に迷いはあるけど、曇りはないように感じる」
その瞳の奥には輝きすら見えた。それがわかるからこそ、おそらくヴァイクもあえて厳しく言うのだろう。
「あがくことも大切なのよ、アーベル。あがくことで見えてくることもある。反対に、待ってるだけでは見えないことは多いんだから」
アーベルは自分の手を見た。
――僕は、周りに流されているだけだったのかもしれない。
気がつかないうちに自分を見失い、みずからの中にある正直な思いを忘れてしまっていた。
それは、今でもはっきりとは思い出せない。水底に沈んでしまったかのように浮かび上がる気配すらなかった。
「僕にはわからないんだ、何が大切で何がそうじゃないのか……。もう、何も見えない」
「だったら、今から考えればいいのよ、改めて」
「今から……」
「そう、今から。あきらめることなく、ね」
明確な変化があるわけではないが、アーベルなりに感ずるところがあるようだった。いつの間にか、その表情は真剣なものになっていた。
しかし、それだけにアーベルが次に発した言葉は、ベアトリーチェにとってあまりに意外だった。
「僕をここから出せ」
「えっ」
「ここから出すなら、あんたを僕たちの仲間のところへ――ジャンのところへ連れてってやる」
黒翼のアーベルに嘘を言っている雰囲気はまるでない。しかし、それだけにベアトリーチェは戸惑った。
「それは……できないわ、あなたの気持ちと同じで、仲間のみんなを裏切ることなんてできない」
「でも、僕は仲間の安全のためにも他の奴らに教えるわけにはいかない。あんただけだったら、連れてってもいい」
ベアトリーチェは迷った。アーベルの言い分はわかるのだが、自分が判断していいものかどうか決めかねた。
しかし、ここで決断しなければ、ジャンと再会する機会は二度と来ないような気もした。
「僕は、仲間たちにはジャンのことを何も伝えてない。急がないと何があっても知らないぞ」
その一言で、ベアトリーチェは意を決した。
自分ひとりが行ったところでたいしたことはできないかもしれない。だが、ジャンだけを放っておくわけにはいかなかった。
ベアトリーチェは、前に進み出た。そして、牢の錠前にその手をかけるのだった。




