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第一章 そして、これから

「ああっ、私はなんであんなことを!」

 けっして広くはない部屋に、妹姫の慚愧(ざんき)の声がこだまする。

「ああ……私はとんでもないことを……」

「殿下」

「どうしてあんな馬鹿なことを、どうしてよりによってお兄様に」

「アーデ様」

「罵詈雑言の相手がユーグだったらよかったのに」

「……アーデルハイト殿下」

 呆れたような疲れたような近衛騎士の声に、妹姫はキッと相手を睨みつけて摑みかかった。

「なんでそんなにのほほんとしてられるの、このスケトウダラ!」

「スケトウダラ……」

「まったく、お互いに緊急事態だというのに緊張感がないんだから!」

「…………」

 もはや返すべき言葉が見つからず、ユーグはゆっくりと首を横に振って口をつぐんだ。

 そんな目付役の気も知らず、傷んだぬいぐるみのごとく摑んでいた相手を捨てるようにして放すと、窓際へと駆け寄った。

 陰鬱な気持ちを吹き消すために、窓を思いっきり開け放つ。そこから清涼な風が吹き込み、アーデの長い髪が舞った。

 外には、小憎らしいくらいに青い空が広がっている。まるで唐変木(とうへんぼく)の近衛騎士を象徴するかのように、のん気な鳥が二羽、優雅に飛んでいた。

「ユーグ」

「はい?」

 おてんば姫の声に真剣な憂いを感じ、ユーグは居ずまいを正した。

「お兄様……怒っていると思う?」

「そりゃ怒っているでしょうね。だから、私はこうして牢に入れられている(、、、、、、、、、)わけですし」

 ここはアーデの居室でもユーグの私室でもなく、城にある牢のひとつであった。

 とはいえ、そこら辺の部屋よりも遥かに美しく、広く、そして快適なところだ。身分の高い人を捕らえたときのための高級な牢であった。

 ユーグはアーデの目付役でありながら、城からの勝手な外出を許し、あまつさえ混乱の起こる可能性の高かった帝都まで来させてしまった責を負い、牢に入れられてしばらくの謹慎処分を言い渡されていた。

 剣は一時的に取り上げられたものの、騎士団から除名されることだけは免れた。

 しかし、これくらいの処罰は初めからほとんど覚悟していたことでもあったので、さほど応えてはいない。この点に関しては、本人よりもむしろアーデのほうが衝撃を受けたくらいであった。

 もっとも、今となってはもう何も感じていないようだが。

「あなたのことなんかどうでもいいの! 問題は私のほうよ」

「何をしでかしたんです、私がいない間に」

 帝都から帰る直前、アーデがひとりになったときに事が起きたらしいことはわかる。しかし、この〝戦女神〟アーデルハイトがここまで取り乱す理由とはなんだろうか。

「実は、実は……」

「はい」

「お兄様と」

「はい」

「……喧嘩をしてしまって」

「喧嘩ですか」

 意外だった。ということは、アーデの側からもやり返したということだ。アーデがフェリクスに叱られるのは日常茶飯事だが、二人がやり合っているのは見たことがない。

「でも、それだけならそんなに落ち込むことはないでしょう。何がどうしたんです?」

「それが、それが……」

「はい」

「お兄様の」

「はい」

「……敵になると」

「――はい?」

 初め、言葉の意味がわからなかった。兄であり、もっとも大切な人物であるフェリクスの敵になるとはどういうことか。

「もしお兄様が道を誤ったら、私が敵になるって言っちゃったのよッ!」

「…………」

 アーデではないが、ベッドに倒れ伏して枕に顔を(うず)めたくなった。

「ま、まさかとは思いますが、我々のことを口走ったりはしていませんよね?」

「それを匂わせるようなことは言っちゃった」

 しばしの沈黙。

「何をやっているのですか、アーデ様! 我々のことは極秘に決まってるでしょう!」

「勢いで言っちゃったんだからしょうがないじゃない! それより、問題はお兄様よ! もし、もし、お兄様に嫌われたら……」

 まさしく絶望を体現するかのような表情で、アーデはふらふらとよろめき、壁に寄りかかった。

 一方のユーグは一時の混乱から立ち直り、徐々に経緯(いきさつ)を把握しはじめていた。

「さては、フェリクス閣下にかなり厳しく言われましたね? それで、つい口答えしてしまったと」

「…………」

 図星だった。

 あんなことは言うつもりはなかったのだが、まるでこちらの思いのすべてを否定されているかのようで、反論せずにはいられなかった――自分のためではなく仲間のために。

 兄の言い分はよくわかる。こちらのためを思って言ってくれているのも。

 しかし、仲間たちが必死に頑張ってくれて、しかも文字どおり命をかけてくれているのがわかるからこそ、兄の言葉を甘んじて受けるわけにはいかなかった。

「真面目な話、兄と私の道は違ってきてるのかもしれない」

「殿下……」

 大きく息をつくと、アーデは椅子に腰かけた。

「お兄様はノイシュタット侯で、私は新部族の者」

 兄は選帝侯として、そして今では大国ノルトファリアの最大勢力を統べる者として、大きな責任を負い、そのために最大限の努力をつづけている。

 一方の自分は、侯妹(こうまい)としてよりも〝新部族〟のリーダーとしての役割のほうが大きくなっているという自負がある。

 姫とはいっても、しょせんはお飾りにすぎない。そのことは、ここ数年で嫌というほど思い知らされた。

 しかし、新部族のほうは違う。

 こちらは、自分たちがやるしかなかった。他の誰にも任せられない。それをユーグもわかっているからこそ、無茶を諫めることはあっても、これまで一度として『やめろ』と言ったことはなかった。

 正直、この板挟みはずっと苦痛だった。それはこれからもつづくだろう。自分がノイシュタット侯の妹であり、新部族の一員であるかぎり。

「いつか決断しなければならない、ここから離れることを」

 そう語ったアーデの声は、もはや無邪気な少女のものではなかった。そこには幾ばくかの憂いはあるが、明瞭な意志を宿した強さがあった。

「ねえ、〝そのとき〟が来たらユーグはどうするつもりなの?」

「――――」

 それは将来、確実に訪れる。そういった絶対的な予感がある。なし崩し的にそうなるか、それともみずから決断を下すかはわからないけれど。

「ねえ」

「――――」

「なんとか答えなさい」

「……正直に申し上げれば」

 ユーグはアーデの目をまっすぐに見すえた。

「現段階ではなんとも言えません。そのときになってから考えます」

「あなたらしいわね。未来はどうなるか予測しようがないから、考えないってこと?」

「それもありますが、私にも迷いがあることは事実です。ここに残ってフェリクス閣下の力になるか、それとも――」

「まあ、勝手な男ね。ここまで面倒を見てきてあげたのに」

 いったい、いつ自分が姫の世話になったのだろうと疑問に思うが、口に出しては何も言わなかった。不毛だからだ。

「でも、実際そのときになってみないと、誰にも答えなんて出せないのかもしれない。誰だって、今のことで精いっぱいなんだから」

「それに、いたずらに先のことは考えるべきではないでしょう。未来というのは、考えてどうにかなるものでもありません。現在の積み重ねが未来というものなんです」

 先のことを気にするあまり、今を蔑ろにするようでは本末転倒だ。

 未来が現在の連続のうえに成り立つのならば、〝よりよい現在〟を実現しないかぎり〝よりよい未来〟が訪れるはずもない。

「また正論を。そんなユーグって嫌い」

「…………」

 姫のすげない一言に、さすがのユーグも顔をしかめる。いつものとおり、アーデにそれを意に介した様子はなかったが。

「未来、未来か……」

 もう一度窓際に歩み寄り、侯都シュラインシュタットの町並みを見つめる。あれだけの騒乱があったというのに活気にあふれており、人々の顔に(かげ)りはない。

 そんな民の様子を見ていると、あれこれ悩んでいる自分がばかばかしくなってくる。

 ――みんな、今を一生懸命生きてるのね。

 賢人ぶった学者連中よりも、こうしてひとつひとつのことをしっかりとこなしている庶民のほうが、よほど真の意味で賢いのかもしれない。

〝真の賢者は考えず、ただ生きる〟

 現世最大の知者、そして多くの謎をはらんだ人物、ショウはその著書の中でそう指摘していた。はじめて彼の考えに触れたときはどういうことかよくはわからなかったが、今ならはっきりとわかる。

 ――考えてもどうにもならないことをあえて考えるのは、愚か者のすることだ。

 他にやらなければならいことがあるなら、まずそれをやる。余計なことをあれこれ考えるのは、余裕のある人物にだけ許されることだ。

〝まずは立て。瞑想の世界は足元にある〟

 こちらはレラーティア教の開祖、ソウの言葉だ。今の自分は、『現実の行動が伴ったときにあらゆる思想が花開く』というふうに捉えていた。

「〝動は智を生み、知は霊を生む。されど、静を知らずば動は見えず〟――ですか」

「ユーグ……」

 いけ好かない大男が、いつの間にか真横に来ていた。その横顔には、騎士のものとも戦士のものとも違う、静かな気配がたゆたっている。

 ユーグが自分と同じことを考えていたことに驚くと同時に、うれしく思う気持ちもある。

 しかし、

 ――本当は、女としてもっと気がかりな未来もあるんだけど。

 こちらの気も知らぬままに、大男はぼんやりと外を見つめ、

「まあ、殿下は動くばかりで少し思慮が足りないかもしれませんけどね」

 などと、いけしゃあしゃあと言う。

 アーデは、さっと背を向けた。

「ばか」

 ユーグが眉根を寄せると同時に、牢の扉の外からは見張り番の盛大なため息が聞こえてくるのだった。

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