第四章 第十二節
川のせせらぎの音が耳に心地よく響き、山から下ってきた水の冷たさがほてった体を静かに冷やしてくれる。
たまには水場で遊ぶのも悪くはなかった。今日は雲が多いのが難点だが、ささくれ立った気分が自然とほぐれてくる。
アーベルら〝虹〟の一団は〝狩り〟を終え、川のほとりで休憩しているところだった。清浄な水で不要な血と汗を洗い流し、不快な感情をも取り除く。
久方ぶりに、落ち着ける時間だった。静寂を邪魔するものもなく、頭を思い悩ます問題も眼前には存在しない。今ばかりは仲間のことさえも考えたくはなかった。
――僕は逃げてるのかな。
と、反射的に考えてしまい、首を振って意識をいったん閉じる。今は、自分を責めるようなことなんて考えたくもなかった。
逃げたっていいじゃないか。それの何が悪い――問題の核心を避けようとすればするほど深みにはまることに、若いアーベルは未だ気づいていなかった。
いつの間にか揺れる水面をじっと見つめていたアーベルの耳に、上空から何かの音が届いた。
それは、翼の羽ばたきの音。
偵察に出ていた仲間のひとりが帰ってきたようだった。
そのカルはややあわてた様子で大地に下り立ち、用件を口早に告げた。
「例の〝極光〟が動いたらしい」
そのたった一言に、場の空気ががらりと変わる。直接対峙したことがあるのではないが、誰もが気にかけていた存在だった。
それは、アーベルも例外ではなかった。
「動いたって何をしてるんだ?」
「仲間のひとりが、西へ向かうのを見かけたらしい。かなりの人数で、しかもけっこう急いでいたと」
「部族ならともかく、他のはぐれ翼人の集まりが僕たちの領域を堂々と……」
相手にも言い分はあるのだろうが、自分たちの大事な縄張りが侵されているようで納得がいかなかった。
「何をするつもりなんだ?」
灰色の翼のヌアドが、洗った剣を布で拭いながら近づいてきた。
「さあ? 狩りかもしれないけど、わからない」
「狩りだったら――」
ヌアドの声に、アーベルをはじめ全員がはっとした。
「奴ら、また人間を……!?」
「元々、それを始めたのはあいつらだ。狩りをつづけていたとしても不思議じゃない」
「だとしたら、もし僕たちが守っている集落が襲われたら――」
「とりあえず様子を見に行こう。違うなら引き返せばいい。守るべき人間が狙われているなら、俺たちは死ぬ気で戦うだけだ。そうだろう、みんな?」
仲間たちに異論があろうはずもなかった。
〝極光〟のほうが数が多いとしても、戦いで命を落とすことを恐れるほど臆病ではない。生きたいという気持ちに変わりはないが、それと戦士としての誇りを捨てることとは、まったく別次元の問題だ。
たとえ、人間を狩りながら人間を守るという矛盾を犯しているにしても、戦士の気概だけは忘れたくはなかった。
一同はすぐに身支度を調え、飛び立った。今からでは手遅れの可能性もあるが、西へ向かって急ぎ進んでいく。
「――アウローラは、どうして人間の都を襲ったんだろう」
アーベルも同じはぐれ翼人として、彼らの苦しい立場はわかっているつもりだ。そうはいっても、心臓を得るためだけならそこまでしなくてよかったはずだった。
「さあな。欲深い人間と結託していたという噂もある」
「…………」
ヌアドの答えはそっけなかった。
人間と協力する。
それが本当に可能ならば、どんなことができるのだろう。自分たちはいくつかの人間の集落を守っているものの、それは協力と呼ぶべき類のものではない。
支配と被支配。
そもそも、人間と手を結ぶ価値などあるのだろうか。その時点で疑問だった。ただ、〝極光〟の連中の意見を聞いてみたい気持ちも正直あった。
「なあ、カル」
「うん?」
「人間は、僕たちに管理されたほうが幸せなのかな」
アーベルの素朴な疑問に、親友のカルはわずかに間を置いてから答えた。
「何を幸せと思うかは人それぞれだから、俺にはわからないな」
「それはそうだけど、僕が聞きたいのは全体としてどうかってことだよ」
「それもわからないけど、俺たちは人間の世界の矛盾を見た。物をため込む奴らがいる一方で、何もかも足りなくて苦しんでいる人たちがいた」
「うん、放っておいたら大変なことになっていたかもしれない」
「翼人の世界にだって、力の差はある。でも、みんな同じように苦しんでる。でも、人間の奴らは恵まれた人とそうでない人の差が大きすぎる」
「確かに」
と、それまで黙って二人のやりとりを聞いていたヌアドが言った。
「だが、俺たちの世界もヴォルグ族が変えてしまった」
「――――」
「あいつらは、すべてを根こそぎ奪う。掟も誇りも関係なく、自分たちのためだけに戦い、そして他を滅ぼしていく。それが、翼人の世界の均衡を明らかに崩した。でもな」
「何? ヌアド」
「奴らのやり方はひょっとすると、一部の人間がやっていることと同じなのかもしれん」
私利私欲のために最大限のことをする。そして、他に与えるということを知らない。結果、全体のバランスは著しく崩れ、部族ごとに大きな差が出てくる。
――人間的な翼人。
それがもたらす未来はなんだろう。不均衡が新たな均衡をもたらすことがあるのだろうか。
アーベルはその不自然な現実に、嫌悪感を覚えることしかないのだった。
そんな話をしている間にも一行は西へ進み、もうかなりの程度飛んでいるはずだった。しかし一向に目的の相手が見えてこないことに、焦燥感がつのってきた。
「どうなってるんだ……」
普段は冷静さを崩すことのないヌアドも、苛立ちを隠せない。そろそろ追いついてもいい頃合いなのだが、未だ手がかりすら見つけられなかった。
〝極光〟は、こちらの予想とは違う方向へ向かったのだろうか。それとも、単独行動に切り換えて、それぞれがどこかに潜伏したのか。どちらにしても、今からでは対応のしようがなかった。
「一度ばらけて――」
それぞれ手分けして捜すかとヌアドが言いかけたとき、わずかに耳に届く異音があった。彼だけではない、他の全員もそれを察知し、動きを止めて静まり返った。
「剣の響き……」
アーベルの感覚は間違ってはいなかった。
確かに、剣と剣とがぶつかり合う金属音が聞こえてくる。その中に交じる怒号や悲鳴が、それが本当の戦いであることを如実に物語っていた。
「行くぞ!」
言われるまでもない。ヌアドにつづきアーベルらも、剣戟の音のするほうへ急ぎ向かった。
森を越え、丘を越え、一本の川を横切ったとき、ひとつの集落が眼下に確認できた。遠方には、より巨大な人間の町がかすんで見える。
しかし、下で繰り広げられている光景は、シュラインシュタットの威容など吹き飛ぶほどの衝撃を一同に与えた。
「なんだ、これは……」




