第四章 第九節
ノイシュタット侯領の都、シュラインシュタットの一角、数々の商館が立ち並ぶタマーラ通りでは、日々無数の人々が行き交っている。
商人だけではない、職人や農民、そして一般の主婦までもがさまざまな品物を取り引きするために、昼夜と関係なく集っていた。
そこは活気に満ちた場所、中央広場とは別の、もうひとつの町の中心といえた。
しかしその中でも、もっとも立地条件のいい場所に建つ商館の内側では、剣呑な声が響き渡っていた。
「なぜだ、カール!? なぜ、他の者たちを説得してくれなかった」
憤懣やるかたない様子で叫んでいるのは、いつもはきちんとした髪が今は乱れに乱れてしまっている商人のダミアンであった。
そんな彼の様子を意に介した風もなく、カールは開いていた帳簿をゆっくりと閉じた。
「説得も何も、あんな条件では納得がいくはずがない」
「何を言ってる! あれが限界に決まってるだろう! ノイシュタットの現状は君もよく知ってるはずだ。あれ以上の譲歩を引き出せるはずがない!」
「だが、交易税がそのままだ」
「こちらのすべての要求が受け入れられるものか! カール、自分の立場をわかってるのか? 我々のほうが王様というわけじゃないんだぞ」
「いいや」
カールは、見た者がぞっとするほどの不敵な笑みを浮かべていた。
「私がなってやるさ、本当に王にな! フランベル公国のマルセルでさえ、元は一介のしがない商人だった。これだけ力をつけているバルテル隊商同盟に不可能なんてない!」
「……本気で言ってるのか?」
「なあ、ダミアン。実は、すでに目星をつけてるんだ。我々が支配する地域の目星を」
「まさか、メルセアの北にあるフォーラ王国じゃないだろうな」
「おお、ダミアン! さすがだ、私と同じことを考えていたか。そうだ、あの小国なら本当に近いうちに支配できるかもしれん。老王は病弱、唯一の跡取りはまだ若すぎるミレナ姫のみ。最初は慈善として支援を申し出て、少しずつ国の資産を買っていく。その後、王族や貴族と養子縁組を積極的に行って、俺はのし上がっていくんだ!」
「カール」
いつにも増して、冷静な声音でダミアンは告げた。
「冗談だとはわかっているつもりだが、あえて言わせてもらう。フォーラは、あのメルセアがまさに狙っているところじゃないか。ミレナ姫とメルセアの第二王子との婚約話も進んでいると聞く。それに、うまくあの国に入り込めたとしても、メルセアが黙ってはいない。すぐに介入してくるぞ」
「否定的なことばかり考えるのは、お前の悪い癖だ」
「私は現実を見ているだけだ」
「現状にとらわれていては、その限界を打破できない。そう言ったのはダミアン、昔のお前じゃないか」
「それはそうだが……君の考えは危険すぎる」
「だが、マルセルは絶対に不可能といわれることを覆した」
「君はマルセルじゃない」
「そう、私は帝王カールだ――というのは、まさに冗談だ。それはさておき、ノイシュタットの件だがやはり納得はできん」
「なぜ?」
「お前は勘違いしている、ダミアン。ひょっとして自分はうまくいってるから気づいてないのか?」
「どういうことだ」
やれやれといった様子で、カールは額に手を当て大仰に首を振った。
「ノイシュタット侯から通行の許可を引き出せたのは大きい。しかし、なぜ交易税のほうを優先しなかったんだ」
「なぜって、関所を通れて、しかも関税が引き下げられるならそれで十分じゃないか」
「やはり、君はわかってない。いいか、よく考えてみろ。資金に不安のある商人にとっては、通常の税こそがもっとも厄介なんだ。今回の場合でいえば交易税だ。関税は、一度品物を通してしまえばあとは関係ない。だが、交易税はノイシュタットで商いをするたびに取り上げられる。つまり、がんばってもがんばっても自分たちの実入りは少なくなるということだ」
「あ……」
「ようやくわかったか、鈍い奴め。そう、ただでさえ資金が乏しいのに大量の税を巻き上げられたら、交易を行うリスクばかり負うことになる。それじゃあ、継続的に商売をやるのが厳しいだろう? 前の話し合いのとき、若手の奴らが強硬な態度だったのはそういう理由があるんだよ。あいつらは、豊富な資金も信頼できる後ろ盾もないから、たとえ危険であってもノイシュタットを牽制するしかないんだ」
今になって、自分のうかつさを呪った。ついつい、自分の状態を基準に考えてしまった。
自身の主張に間違いがあるわけではない。しかし、カールの言い分にも一理ある。状況や立場が違えば、ことの良し悪しが変わってくることの典型であった。
「残念だが、ダミアン。君の言うとおりノイシュタット側としては可能なかぎりの譲歩をしただろうから、これ以上の交渉は無理だろう。よって、共和国を利用するしかなくなった。約束どおり、その交渉役を担ってもらう」
「…………わかった」
「じゃ、私は失礼する。すぐに帝都のほうへ向かいたいんでね」
返答も待たず、カールは上着を羽織りながらさっさと自身の商館を出ていってしまった。
なんだか無性に疲れたダミアンは、侍女がお茶を勧めるのを拒否して、部屋の椅子にどっかと腰かけた。
そのためか、大柄な男が扉を開けて近づいてくるのにまったく気づかなかった。
「ダミアン」
「ん? ああ、モーリッツか、いつの間に」
「今来たところだ。カールは?」
「行ってしまったよ。なしのつぶてだった」
モーリッツに一連のことをかいつまんで説明した。
事情を聞いても大男は表情をまるで変えなかったものの、長い付き合いのダミアンにはそこに幾ばくかの嫌悪があるのを感じ取った。
「カールの言い分のすべてが間違っているわけではないが、やはり無茶だ」
「ああ、わかっている。だが、こうなったからには、もはやどうしようもない」
「それで、どうするつもりなんだ」
「共和国へ行くしかないだろう」
「本気か?」
「みんなの前でそう約束したし、今回の件は私の責任もある。それにな、モーリッツ」
ゆっくりと立ち上がりながら、巨漢の友人に告げた。
「もし、あのカールや若手の連中に交渉を任せたら、後先を考えずにとんでもない条件を共和国側へ提示してしまうかもしれん。それだけは防がねばならない」
「……それもそうだな」
いつも血気にはやった〝過激派〟のことを思い起こす。もっとも、中でも一番危険なのは、その首領格たるカール自身だろうが。
「ダミアン、俺にできることがあったらなんでも言ってくれ。協力は惜しまない」
「ありがとう。それなら――」
「なんだ、遠慮なく言ってくれ」
少し言いよどんだダミアンを促した。
「私にもしものことがあったら、ドミニクとルーク、そしてイルマのことを頼む」
「何を大げさな。戦に行くわけでもあるまい」
「だが、今回の件は何か嫌な予感がしてならないんだ。命にかかわるようなことにはならないだろうが、ひょっとすると責任をとらされるかもしれない。人を利用しようとする者は利用されるものだからな。私がどうしようもなくなったときは、あとのことは頼む」
関係者の処遇と資産の管理はすべてモーリッツに任せるとの一筆をしたためておく、とダミアンは硬い表情で言った。
「ダミアン、共和国は難物が多い。くれぐれも気をつけて行ってきてくれ。あとのことは、まったく心配いらん」
「ありがとう。まあ、なんとかしてくるよ」
無理に笑顔をつくろうとしたものの、それは苦笑にしかならなかった。
商館の外は、まだまだ活気があった。




