第四章 第七節
晩春というより初夏といったほうがいい季節なのに、今日は風が冷たく、屋外では過ごしにくい日だった。
雨が降っても雨ざらし、風が吹いても吹きさらし、人間にとっては酷な環境ではあったが、周囲の翼人たちは平然としていた。
やっぱり、元から違うのかな、とも思う。しかし、姿はほとんど同じだし、言葉も通じる、考え方もそんなには変わらない。ならば、互いにわかり合えるものと信じたかった。
しかし、ずっと屋外というのは体に堪えた。自分で小屋のようなものをこさえたが、雨漏りとすきま風がひどく、とても耐えられたものではなかった。
それにしても、どうして自分は生かされているのだろう――と、ジャンは我がことながら首をひねった。アーベルという名の翼人にさらわれたときは、さすがに最期を覚悟し、その痛みを想像して震えていた。
だが、あれからゆうに数日は経っているというのに、これといって変化はなかった。てっきり他の翼人からも虐げられるかとも思ったのだが、反対にほとんど無関心でほったらかしの状態がつづいていた。
さすがのジャンもしびれを切らし、自分のほうから接触しようかと考えはじめていたところへ、アーベルが上空からやってきた。
ほとんどこちらを見向きもしない。意を決して、というよりおそるおそる、ジャンは白い翼の少年に声をかけた。
「あ、あの……」
相手がぴたりと動きを止めた。その背中を見てもわかる、不機嫌なのは誰の目にも明らかだった。
「なんだ」
「あの、俺そろそろ帰りたいんだけど」
自分でも変なことを言っているなと思うが、それが今の正直な思いなのだからしかたがない。
「――駄目だ」
「じゃあ、俺はなんのためにここにいなきゃいけないの?」
「人質だ」
「翼人は戦いのために人質をとるの?」
と言ったとたん、周囲の空気ががらっと変わった。
「卑怯な人間どもと一緒にするな! 僕たちは相手が誰であろうと、正面から堂々と戦う」
「でも、今――」
「それは言葉の綾だ!」
顔を赤くして怒るアーベルを見て、ジャンは畏怖するよりもむしろ懐かしさを感じていた。
――幼いヴァイクって感じだな。
出会ったばかりの頃の彼に、面白いほどよく似ている。本当は笑いたいのだが、そうすると何をされるかわかったものではないので必死にこらえた。
「ねえ、ちょっといい?」
「なんだ、まだあるのか」
「いや、ちょっと気になってて」
「何が?」
「君、アーベルくん? その、自分の存在をそんなに悩まなくてもいいと思うよ」
ジャンはたださりげなく言ったのだが、その一言の効果は予想をはるかに上回っていた。
アーベルは目を見開き、口を開けて呆然としている。
「誰にだって存在理由はあると思う。それに苦しんだり、悩んだりしているのは君だけじゃない。だから、すべてを自分の中で解決する必要はないよ」
「……なんでだ」
「へ?」
「なんで、お前はそこまでわかる」
「なんでって、ただなんとなくそう感じたから――まあ、強いて言えば君のようにまっすぐすぎて苦しんでいる人が身近にいたからかな」
「翼人か」
「うん、あの白い翼の彼、ヴァイクだよ」
「……あの人でも、昔は苦しんでたのか」
「昔は? 勘違いしちゃ駄目だよ。彼だって、今も悩みを抱えてる。そのせいで、ときおり君のように激昂することだってあるよ」
「…………」
「特に彼はね――」
「もう、聞きたくない」
「いや、君は聞くべきだ。いろいろと勘違いしてるみたいだからね」
「…………」
ひとつ間を置いてから、ジャンは静かに語りだした。
「彼はね、同族の心臓を狩ることにひどい葛藤を抱えてる。他の翼人よりもずっと」
「苦しんでいるのは、あの人だけじゃない」
「それはそうだけど、彼の場合、事情が違う。――アーベル、君は翼人のジェイドを狩らない決断ができるか?」
「そんなの……できるわけがない。俺は生きたいし、これまでもそう思って生きてきた。翼人の運命は、誰も抗えない」
「抗えるんだ。逃げちゃいけない」
「抗えるわけがないッ! だって、そんなことしたら――」
「そう生きていけない。だけど、それでもそう決断した翼人の少女がいた」
「なっ……!」
アーベルは言葉を失った。『そんなばかな』と口にすることさえできない。ジャンの声と表情に、冗談ではすまされないものが含まれていたからだ。
いつしか、ジャンの声を周囲の者たちも聞きはじめていた。それを意識しないまま、ジャンはアーベルの目をひたと見すえてもっとも重要な真実を告げた。
「その子、リゼロッテは生きていくために自分の母親が与えようとしたジェイドを拒否した。そして、それ以降も一度も同族の心臓を口にすることなく……一生を終えたよ」
「そいつは自殺志願――」
「ふざけるなッ!」
ジャンの激怒がひとつの大波となり、若い翼人を一瞬のうちに圧倒した。
それは、幼なじみが見たら腰を抜かすほどの覇気であった。
「あの子が、リゼロッテが、どれほどの勇気をもってそれを決断したと思ってる! あの子は生きようとしたんだ、必死に! 最後まで! その生は短かったかもしれないけど、あの子の人生はどの翼人のものよりきれいで尊かったはずだ!」
目を潤ませたまま、ジャンはアーベルの肩を両の手で強く摑んだ。
「君に同じ決断ができるか!? 自分の一生が短くなっても人の命を奪わない決断をできるのかッ! ヴァイクでさえ、それはできなかった。だから、彼は他の翼人とは比較にならないくらい苦しんでる。理想を知ってしまったがために苦しんでるんだ」
ジャンは、静かにひとつの事実を告げた。
「だけど、彼はつまらない言い訳もしないし、泣き言も言わない。逃げてないんだよ、翼人の苦しい現実から。それがどれほどのことか、君たちにわかるのか?」
辺りが、水を打ったように静かになった。今は、不思議と風もやんでいた。
「最初から感じていたことだけど、君はヴァイクに似てるよ。強がるくせに寂しがりやのところもそっくりだ。だから――君ならいつかわかるはずだ」
「うるさい!」
ジャンの手をはねのけ、アーベルは背を向けた。
――こういうところもそっくりなんだけどなぁ。
静まり返った周囲に言いすぎたかと気まずさを感じながらも、ジャンはずっと伝えたいと考えていたことを伝えられてすっきりとしていた。
アーベルはまだ、すべてを受け止めきれないかもしれない。しかし、いつか自分なりに自分なりのやり方でわかってくれるはずだと信じたかった。
とはいえこの沈黙は、自分が原因とはいえ耐えがたいものがあった。誰かが罵ってくれたほうがありがたいくらいだ。
そんなジャンの思いを知ってか知らずか、突然の変化が当人のすぐ横で起こった。
「……ヴァイク……」
よく知る彼の名が、しかも若い女性の声で聞こえてきたというのだから驚くしかない。
打たれたように振り返ると、そこにはどこか儚げな雰囲気の少女が人形のごとく立っていた。
「あ、白い翼……」
「マリーア!」
ジャンを押しのけて、アーベルがすぐに駆け寄った。
しかし、当の彼女はそのアーベルを見るというよりも、ジャンのほう、ひょっとしたらそのさらに後方に目を向けているのかもしれなかった。
「あの、ヴァイクを知ってるの?」
「ヴァイク……ごめんなさい……」
そうつぶやいたきり、白翼のマリーアは糸が切れたように倒れてしまい、アーベルが急いでその華奢な体を抱きとめた。
彼女が最後に言った〝あなたを苦しませてしまう〟という言葉は、本人以外の誰にも届いてはいなかった。
「アーベル、この子は――」
ジャンの問いにもいっさい答えず、アーベルはマリーアを抱え上げて背を向けた。
別の人物の声が天から降ってきたのは、彼が一歩踏み出そうとしたときのことだった。
「マリーアッ!」
黄色の翼のカルが、体が木々の枝に叩かれるのも構わず、上空から急降下してやってきた。
「どうした!?」
「わからない……。そこの人間が例の白い翼の奴のことを話してたら、マリーアが急に……」
「貴様、何をした!?」
「いや、今アーベルが言ったとおりだけど」
他に説明のしようがない。ジャンからすれば、事情を教えてほしいのはこちらのほうだった。
「とにかく、どこかで休ませないと」
アーベルはマリーアを一度抱え直してから、森の奥へ向かって歩きだした。
――またヴァイクという男か。
腹立たしいことに、このところ、事あるごとにこちらにからんでくる。
マリーアと同じクウィン族。
互いを知らないはずがないだろう。かの部族は、そんなに大きなところではなかったと聞いている。
彼女が自我を示しはじめたことを喜ぶ気持ちがある一方で、複雑な思いが胸中を駆けめぐっていた。
――僕の名は、まだ呼んでくれないのに。
ジャンという男もヴァイクという男も、好きになれそうになかった。




