第四章 第五節
「なんということだ、まったく」
頭を抱えて叫びたくなる。ついでに椅子を蹴飛ばし、書類をぶちまけ、窓から飛び出してしまいたい。
試しにそうしてみるか、となかば本気で考えそうになる自分が怖い。
ノイシュタット侯ことフェリクスは、山積する問題にずっと頭を悩ませていた。
「最近天災が多いのはわかっていたが、まさかこうも各地でうまくいかなくなるとは」
「うまくいっているところは非常にうまくいっているのです。オスターベルクが典型ですな。しかし、悪いところは徹底して悪い。その差が領内を全体としておかしくしているようです」
と、オトマル。
「どこもつながり合っているからな。人間の体のように、一部が狂えば他も狂ってくるさ」
フェリクスは椅子に背を預けた。自分がこれまでやってきたことを振り返る。
領民のためを思い、がむしゃらに突っ走ってきた。これがいい、これでいいはずだといろいろなことを行い、そして是正してきた。
だが、人には限界というものがある。すべてを完璧にはなしえず、かならずどこかにぼろが出る。人のためを思ってやったことが、よもや人を苦しませることになろうとは。
――これでは、ゴトフリート殿と変わらぬではないか。
頭が痛くなってきて、フェリクスは強引に髪をかき上げた。
「私が行った政策は、結果的に富を一部に集中させただけだったのか」
「かもしれません。ですが、血の巡りをよくすれば均されてくるはずです」
「血の巡りか……」
しかし、その方策が思いつかない。
とりあえず過度の交易を防ぐために増税はしたものの、効果のほどは薄い。領外からの入領を一部禁じたのだが、こちらもどこまで効いたかは疑問だった。
一方で、各地からの切実な陳情はあとを絶たなかった。場当たり的でしかないと知りつつ、今はその都度、個別に対応するしかなかった。
「そういえば、ユーグはどうした?」
「また姫のお守りです。思えば、奴にもかわいそうな役目を押しつけてしまっているかもしれませんな」
「ううむ、ユーグの処遇か……確かに、アーデに付けておくだけでは、もったいない気がするな」
「しかし、アーデ様を御せる者は他におりません」
「御しきれているかどうか疑問だが」
あの暴走娘のことだ、きっと体よくユーグを利用しているのだろう。
二人をどうしたものかと二人がそれぞれ別の方向へ考えだしたとき、執務室の外から声がかけられた。
「よろしいでしょうか」
「ああ、入れ」
従者のひとりが、恭しく部屋に足を踏み入れた。
「どうした?」
「それが、商人がまた陳情にやってまいりまして……今、謁見を待っております」
オトマルが激昂した。
「なぜ、すぐに追い返さなかった!? いちいち商人どもの相手をしていたら、きりがないだろう!」
「そ、それが、百人以上の商人の連名で彼らを代表して来た者でして、無下に追い返すわけにもいかず……」
「百人だと!?」
オトマルとフェリクスが顔を見合わせた。
尋常ではない。こんなことは前代未聞だった。
「仕方がない、通せ」
「はっ」
従者はすぐに引き下がり、扉が静かに閉められた。
「どういうことでしょうな」
「さあな。まあ、会えばわかるだろう」
だが、おおよその察しはついていた。増税や街道の通行禁止にしびれを切らせたのだろう。
確かに今ここで行っていることは、商人らにとっては酷なことだ。文句を言いたくなるのもわからないではない。
それにしても、多くの商人が連携してきたとなると、厄介なことになりそうだった。
「共和国の商人、ダミアンと申す者が参りました」
扉が開き、当事者が中に入ってきた。
相手を見たとき、フェリクスは内心首をかしげた。
商人という感じがまるでしない。こざっぱりとした服装を身にまとい、髪は短くまとめ、口ひげは目立たない程度に切りそろえられている。
こちらの不興を買わないようわざとそうしているのかもしれないが、商人というより職人のような雰囲気の男だった。
「帝国を初めとして各地で商いをさせていただいているダミアンと申します」
「複数の商人の連名で何かあるそうだな」
「はっ。バルテル隊商同盟を初め、数多くの同業者を代表して参りました」
「お互い、多くを語る時間は惜しい。そちらの要件はわかっている。交易税の増税と街道の通行制限のことだろう?」
「はい、お察しのとおりです。我々は――」
「答えは否だ。議論するまでもない。まず交易に関しては、過度の物資の流れがかえってこの地の均衡を崩してしまった。そのことは、そなたたちがもっともよく知るところと思うが」
「…………」
「それから通行制限はなおさら解除できん。交易だけが理由なのではなく、治安上の問題があるからな」
「治安上?」
「フェリクス様、それは……」
「いや、いい」
焦って割って入ったオトマルを、手を挙げて制止し、フェリクスはつづけた。
「最近、この領内で一部の翼人が暴れている」
「それは……聞き及んでおります」
「それが、帝都を襲った者たちと同類かどうかはわからん。だが、領外からやってくる翼人は確実にいるようだ」
「おそれながら、それと街道の封鎖は関係がないのでは」
「まあ、最後まで聞け。いいことか悪いことか、翼人たちに協力する人間がいるらしい」
「なんですと?」
「あくまで噂だがな。しかし、私はおそらく真実だろうと考えている」
「なぜでしょうか」
「なかなかこちらの網にかからないのだ。あちらこちらに仕掛けをつくっているというのに、見事なまでにかいくぐっている。人間側のやり方を熟知しているということは、その協力者がいるとしか考えられん」
だから、とフェリクスはつづけた。
「今は、うかつに外部の者を領内に入れるわけにはいかんのだ。現実に翼人襲撃による被害が出ているだけにな」
「……カセルの残党のような者たちがまだいると?」
「かもしれん。私はすでにその可能性は低くなったと考えているが、否定はできん。我々としては、最大限の対策をとるしかない」
ダミアンは、心中でうなった。
よもや、ここでまた翼人がからんでくるとは思わなかった。自分自身がすでに翼人の襲撃を受け、親友までもが同様の目にあっているだけに、ノイシュタット侯の言い分を言下に否定することも無視することもできなかった。
「――ノイシュタット側の事情、承知いたしました。実はわたくしも、カセルとの境付近で翼人の集団に襲われまして、侯のおっしゃることに嘘偽りなきことは身をもって知っております」
「なんだと!?」
「しかも、わたくしの友人も同様の被害にあっております。この帝国が未だかつてない事態に混乱していることはわかるのですが、ただ、それはわたくしども世の末端で生きる民も同じ。特に商いをしている者は屋外を出歩くことが多く、ただでさえ狙われやすいもの。しかも翼人は、商人の荷を狙い、奪ったそれを他の人間に施しているようなのです」
「……オトマル」
「聞いておりませぬ。少なくとも密偵から報告が上がってきていないということは、確認はとれていないのでしょう」
「そなたの言うことは真か、ダミアン」
「はい。はっきりと申し上げられるのは、私が襲われたとき、なぜか翼人らは荷物まで奪っていったということです」
「ううむ」
体よくあしらってさっさと下がらせるつもりが、思わぬ展開になった。
商人がどうこうという話はさておき、一部の翼人が本当に人間に施すようなことをしているのだとしたら、これから予想外の展開があるかもしれない。帝国内の統治がうまくいっていないだけに、そのうち翼人を信奉する民も出てくるだろう。
それが広がりだしたら――と思うと、暴動とはまた違った懸念が心中にわき起こってくる。
「まあ、よい。その件はまた別の話だ。今は、商いにまつわる税と街道通行の問題だろう」
「ですが、フェリクス様。我々商人は、危険を承知してでも仕事をつづけなければなりません。現状のまま、翼人の襲撃と商いの制限という二重苦では、通常の業務を行うこともままなりません」
「だが、これまでたっぷり貯め込んだのではないか。利益が出ていないということはないはずだ」
「それは人によりけりでございます。確かに大成功を収めている商人もいることにはいるのですが、そもそもわたくしがここに参上したのはさまざまな立場の者を代表してなのです。成功した者もいれば、失敗したり賊に襲われたりした者もおります。うまくいった商人だけを基準に決められては、生活さえ成り立たぬ者まで出かねません」
「うまいことを言うな。そのように指摘されては、私としても無下にはできん」
「……実を申しますと、わたくし自身、現状の交易に行き過ぎの面があることは自覚しております。周りの反感を買ってまで、これ以上利益を上げる必要があるのかと疑問に思う部分もあります」
「実直なものだ。しかし、うまくいっていない仲間、同業者のためにということか」
「いえ、それだけでもないのです。フェリクス閣下であるからこそ、直截に申し上げます」
ダミアンは、真剣な表情にさらに真剣なものをのせた。
「構わぬ、申してみよ」
「はい。同業者の中には、このまま御領が締め付けをつづけるのなら、共和国の力を借りるべきだという意見が根強くあります」
「ほう」
「もしそうなれば、ことはノイシュタットだけの問題にとどまりません。共和国との外交上の軋轢が生じ、今後、御国にとって不要なしこりを残しかねないかと存じます」
「なるほど、共和国を使って牽制しようというわけか」
フェリクスは、苦笑にも似た笑みを浮かべていた。ダミアンはそれに畏怖するどころか、安心感のようなものまで覚えていた。
――ノイシュタット侯とは、こういう人物なのか。多くの民に慕われるのもわかる気がする。
「そういうことならいいだろう、そちらの作戦に乗ってやる」
「フェリクス様?」
「いいんだ、オトマル。この者の話を聞くかぎり、すべて一理あることだ。捨て置くわけにもいくまい。領内の現状を鑑みるに、通商許可証の再発行は認められんが、関税を一部引き下げ、臨時の関所では商人の通行を許可しよう。我々が譲歩できるのはここまでだ。これでお仲間を納得させてくれ」
「はっ、ありがたき幸せに存じます」
ダミアンに異論があろうはずもなかった。何かひとつでも成果をと考えていたのに、ここまで考慮してもらえるとは思わなかった。
つまらない駆け引きなどせず、正直にすべてを話したのが功を奏したのだろう。自分の信念が間違っていなかったと再確認できた瞬間でもあった。
そのダミアンが恭しく礼をして部屋を出ていくのを見届けてから、フェリクスはオトマルのほうに向き直った。
「オトマル、どう思う」
「驚くほどまっすぐな商人ですな。あのような者に今まで会ったことはありません」
「そういうことじゃない。あの男の言っている内容についてだ」
「いえ、だからこそ信用できるかと。まあ、共和国の話を持ち出してきたときは一喝してやろうかと思いましたが」
「それより、翼人の件のほうがよほど問題だ。翼人が人間に施しをしているだと? もしそれが真実なら、これからとんでもない事態になりかねんぞ」
「……これまでずっと我々が経験してきたのは、〝人間対人間〟という構図でした。それが帝都騒乱以降、〝人間対翼人〟という形が加わり、さらに〝人間対翼人と人間の連合〟となったら」
「想像したくないことだ。人間同士の権力争いだけではすまされない。翼人が人間の支配を目論むかもしれないし、逆に翼人を利用しようとする人間も出てくる」
「翼人の戦闘能力はずば抜けておるでしょうからな」
そこでふと、フェリクスはいつもの副官のほうに目を向けた。
「なんでしょう?」
「あまり驚かないのだな、オトマルは。てっきり『そんなことは有り得ない』と否定するんじゃないかと思っていたんだが」
「まあ、これまでにもいろいろありましたからな。帝都騒乱にいたる一連のことだけでも、この年寄りめの価値観を揺さぶるには十分すぎるほどでした」
「そうだな、あのゴトフリート殿が翼人と結んだくらいだ」
フェリクスは納得したようにうなずいた。
オトマルとしては内心気が気ではなかったのだが、悟られずにすんだ。
『実はアーデ様が翼人と一緒にいます』などと言おうものなら、疲れがたまっているフェリクスのことだ、本当にそのまま卒倒してしまいかねない。
「いずれにせよ、厄介事だらけだ」
「フェリクス様、あまりお気になさいませんよう」
「いや、この領内のことはいいんだ。ここのことは、自分ですべて解決できる自信がある。だが、帝国は……」
諸侯による会議の紛糾を思うと頭が痛くなってくる。
それぞれが自領のことしか考えず、他領のことを牽制することしかしない。
しかも先の騒乱によって各侯軍が打撃を受けたため、どこも防衛上のことに不安を抱えている。結果、他領のこと、ましてや帝国全体のことなど考える余裕がなかった。
「帝国の分裂が現実味を帯びてきた気がする……」
「怖いことをおっしゃらないでください。もしそうなったら、周辺の狼どもにいいようにやられてしまいますぞ」
「だろうな。しかし、本当にその事態を想定しておかなければならないのかもしれない」
窓から不意に吹き込んできた風に、机上の書類が音を立てて揺れた。外の空は大いに青さをたたえていたが、今日は風の精霊が不機嫌なようだった。




