第四章 第三節
初夏だというのにやけに冷たい風が、頬を撫でていく。
いつもは爽快に感じる上空の風が、今は厄介なものに思えてしまう。少しでも急ぎたい、少しでも進みたいという気持ちが焦りを呼び、周りの状況を確認する余裕さえ奪っていく。
このままじゃいけないと思い直し、ヴァイクはあえていったん制止した。
――俺はどの辺まで来たんだ?
街道沿いの上空をひたすらに飛んできたが、あまりに集中していたがために、自分がどれくらいの距離を進んだのか把握しきれなくなっていた。
セヴェルスは、ここの都まではアルスフェルトから帝都までのおよそ二倍と言っていた。途中、情報を得るために何度も道を外れ、定期的に休憩を挟んだが、もうそろそろ着いていい頃合いのはずだった。
しかし、暗くなってしまったのが痛い。いくら夜目がきく翼人とはいえ、昼間に比べて見える範囲は極端に狭くなる。これでは、ジャンや〝虹〟の者を捜すことも、帝都で会った連中のことを調べることもできない。
都の近くまで来ただけに、このまま闇雲に進んでも意味がない気がしてきた。今日はそろそろ休もうかと考えはじめた頃、前方からの気配を察した。
反射的に上空へと飛び、そこから相手の様子を探る。
――あれは。
暗がりの中でもわかる特徴的な萌葱色の翼。それを認識したとたん、帝都での出来事が瞬間的に頭に甦ってきた。
翼人に囲まれた勝ち気な人間の娘、その近くに確かあの色をした翼の者がいたはずだ。
相手がこちらに気づいた様子はない。ヴァイクは互いの距離を一定に保ったまま、その翼人を追った。
こちらが呆れるほどに無警戒な様子で、相手の男は進んでいく。常に命を狙われる宿命にある翼人のくせに何を考えているのだろうかと思う。
気持ちよさそうに、わざと蛇行などしている。そんな様子を見ていると、だんだんと腹が立ってきた。
――いっそのことここで締め上げて、洗いざらい吐かせてやろうか。
そうやってヴァイクがなかば真剣に検討を始めた頃になって、萌葱色の翼に変化があった。小高い山の近くで旋回を始め、徐々に高度を落としていく。
相手が下り立ったのは、崖になっているところの洞窟の前だった。その出入り口付近には、翼人伝統の三角錐の形をした天幕があった。
男はそちらではなく、洞窟の中へと消えていった。周りに他の人の気配がないことを確認してから、ヴァイクは音もなくゆっくりと着地した。
自分はどちらに行くべきか迷う。普通なら洞窟を探ってみるべきなのだろうが、もし何かあったとき逃げ場がなくなる恐れがある。
一方、三角テントのほうは外から中をうかがい知る術がない。
そもそも、相手は敵ではないかもしれないのだ。そんなに警戒する必要はないだろうと、とりあえず洞窟のほうへ足を向けたときだった。
「止まれ、翼の息子よ」
背後からかけられた低いしわがれた声にぎょっとする。それはテントの中からのものに違いなかった。
「こちらへ来るがよい、若き翼」
なぜ、自分が若い翼人だとわかったのか。疑問に思いつつも、その声にたいして反射的に信頼できるものを感じ取っていたヴァイクは、わずかに逡巡したあと静かにテントへ近づいていった。
その白い幕を通して、内側から明かりがもれてくる。
意を決して出入り口の幕を開け、中へ入った。
まず初めに、中央に揺らめく炎が目に飛び込んできた。小さな焚き火が光明を発し、周囲を柔らかく照らし出している。
その横に座るのは、深いしわが年輪のごとく顔に刻まれた、目を閉じた老爺だった。元は鮮やかであったろう羽も今は色あせ、灰色がかった緑にしか見えない。
「来たか、〝天空の大鷹〟よ」
「……なんだ、それは」
「お主のあだ名のようなものだ。気にすることはない」
「気にする。俺はそんな大層なものじゃない。兄さんたちじゃあるまいし」
「お主の気持ちなど関係ない。だが、ファルクやマクシムなら納得するだろうよ」
「……なんでも知っているという感じだな」
「わしの知っていることなど、この世のほんの一部だけだ。この歳になってもわからぬことだらけ。だが若い翼よ、そもそもすべてを知る必要もない、知るべきでもない」
「それはわかる気がする」
世の中には知らないでもいいこと、むしろ知らないほうがいいことはけっこう多い。知ってしまったがゆえにおかしくなった、知らなければよかったと思うことは誰にでもある。
「知るということは、ときに人を狂わせる。そのことをお主はわかっておるようだな」
「それでも、人は知ろうとする」
「そうだ。人は禁じられた遊びほどやりたがる。だが、それは誰にも止められん」
「じゃあ、人が知るべきはなんなんだ?」
「時と場合による。だが、人の悲しみ、人の喜び、人のやさしさを知れば、誰もが天空への階段を一歩昇れるのかもしれん」
「天空の階段……それを昇りきった先には何があるんだ」
「お主の求めるもの」
「俺の……」
「〝天空の大鷹〟よ、お主は今、何を求めておる」
「俺は剣を――いや、そんなことじゃない。俺は……たぶん、誰かが誰かを犠牲にせずにすむ世界を望んでいると思う」
「それは可能か」
「今のままじゃ無理だ。だから、みんな苦しんでいる」
「ならば、どうする」
「それを、俺は誰かに聞きたいのかもしれない」
自分自身では答えを見出せていない。ここまでがむしゃらにやってきたが、本当に自分のしていることは正しいのか、常に不安があった。
老人は、目を閉じたまま黙っている。先を促しているようだった。
「なあ、翼人が心臓を必要とするのは罪なのか?」
「己の刃に同朋をかけねばならん、それは、罪ゆえの罰か――否だ」
「翼人は、誰もそんなことをしたいなんて考えてはいない。それなのに、やらなければならない。だったら、その原因はなんだ?」
「物事の原因の大半は内にある。翼人に何かあるのだとしたら、翼人の中にこそ核がある」
「それじゃあ、翼人の存在そのものが悪ということじゃないか!」
「そうではない。ひとりひとり、そのこころのうちにこそ、すべての根因があるものだ」
「俺は、年寄りの戯れ言を聞きに来たんじゃない! 俺たち翼人が生きていくうえでは、どうしてもジェイドが必要なんだ。こころの問題なんかじゃない。俺が聞きたいのは、どうやったらジェイドを喰わずに生きていけるようになれるかだ」
「答えはそこにある」
「何?」
「お主はもう、答えを見出している」
「答えなんかどこにもないッ! 俺だってみんなだって、ジェイドなんかを食べたくはないんだ!」
「ならば、ジェイドを喰うことを拒否すればいい」
「!」
ずっと立ったままだったヴァイクが、一歩後ずさった。
「……だがっ、それでは生きて――」
「人はいずれ死ぬものだ、翼人も人間もな。たとえ生が短くなろうとも己の信念を貫くならば、それは幸せな人生ではないのか、ヴァイクよ」
「…………」
「少なくともリゼロッテは不幸ではない、わしはそう思っておる」
老爺は静かな声で、しかし厳しく畳みかけた。
「お主は、決断することを恐れているだけだ」
「お、俺はリゼロッテとは別の形で生きる道を探しているだけだ!」
「人を殺しながら、か」
「…………」
ヴァイクは、強く唇を噛みしめた。震える歯が下唇を噛み破り、血を滴らせる。
「――じゃあ、あんたはすべての翼人に死ぬ覚悟をしろというのか!?」
「そうだ」
「だが、それでは翼人が滅んでしまうッ!」
「滅べばいい。他人の命を常に必要とする種族など滅んでしまえばいい――お主もそう思ったことが何度もあるはずだ」
「し、しかし……」
「ヴァイクよ」
そう言って、わずかに顔を起こした。
「お主はなんと正直で、なんとまっすぐな男か。わしのこの涸れ果てた目に、忘れたものが戻ってきそうだ」
老爺はわずかに目頭を押さえてから、初めて目を開いた。
その目は、思いのほか明るくみずみずしく輝いていた。
「想像せよ、ヴァイク。すべての翼人が他者のジェイドを奪わない覚悟を決めた世界を」
「…………」
「確かに、翼人という種は滅びてしまうのかもしれぬ。だが、その滅びゆく過程は、その間こそが真の楽園ではないのか」
「――――」
「誰もジェイドを必要としない、誰も他者を犠牲としない、誰も人を殺さない、誰も部族にとらわれない――たとえ短い間であろうとも、そこに理想郷が築かれる」
老爺は木のカップを手に取り、ゆっくりと喉を湿らせた。
「〝黒翼の大鴉〟の生きた時代、すべての翼人は他人の心臓など必要としなかったといわれておる。ヴァイクよ、いつから翼人の世は狂ってしまったのだろうな」
「……そんな伝説は嘘だ。翼人は初めから狂ってる」
「お主がそう思いたいだけだ。己の罪を背負いきれず、仕方がないのだと自身を許したいのだ」
「否定はしない。だが、『昔はよかった』なんていう老人の愚痴を素直に聞き入れるほど、俺は愚かじゃない。俺が聞きたいのはこれからの話だ」
「昔は今につながっておる。今は先につながっておる。ならば、先を知るには昔を知らねばならぬのではないか」
「信憑性のない話に付き合っていてもしょうがないと言っている! ジェイドを必要とせずに生きてきた翼人なんて存在しない!」
「ここにおる」
老爺の声は静かだった。
だが、激昂したヴァイクは一瞬言葉を失った。
「ジェイドを喰わずとも生きておる翼人はここにおる」
「嘘だ……」
「わしはあるときからずっと、ジェイドなど口にしておらん」
「嘘だッ!」
「そう思いたければ思えばいい。だが、私はここに存在している」
「だが――」
「私はここに存在している」
「そんな……ばかな……」
衝撃を受けたヴァイクをなだめるように、老爺は焚き火に新たな薪をくべた。
「わしは遥か北方の部族の出身でな。この地で生きてきた者は名さえ知らぬだろう」
何も考えず、何も見えていなかったあの頃。
いつものように狩りに出た先で、いつもとは違うことが起きた。
敵部族の翼人などいるはずのないその地で、待ち伏せを食らったのだ。仲間のひとりが裏切ったせいだった。
「この地の翼人はヴォルグ族などで騒いでおるが、連中などかわいく思えるほど北の地では蛮行が横行しておった。だが、まさか――親友が裏切るとは考えておらなかった」
完全に囲まれた自分たちには、もはやどうすることもできなかった。仲間が一人、二人と狩られていく中、とにかく必死に逃げるしかなかった。
最後に、仲間の助けを求める声が聞こえた気がする。だが、それに振り返ることすらできないほど、自分は追いつめられていた。
どれくらい飛んだのだろう。気がついたときにはもう外は暗くなり、程なく吹雪となった。
すぐ隠れなければ、とは思うが、疲れでどうすることもできず、いつの間にか冷たい風にさらされるままになっていた。
「わしは恐怖した。生まれて初めてこころの底から恐怖した。だが、その次に訪れたのは――諦念だ」
もういいとあきらめたそのとき、ふっとすべてが軽くなった。
今まで自分は何を悩んでいたのだろう、何を恐れていたのだろう。
すべてがばかばかしくなってきた。
「生と死は常に隣り合わせ、そんなことは理屈ではわかっていた。だが、死が間近に迫り、ひとつのことに思い至った」
「……それは?」
「生と死は表裏一体。ならば、生きるとは死ぬこと。よく生きるとは、よい死に方をすること。死ぬとは生きた証。よい死に様は、よく生きた証。死は恐れるものではないのだ、死は生を支える尊いもの」
「――――」
「雪の中、すべてを覚悟し、己の死さえも受け入れたとき、わしはあらゆる軛から逃れることができた」
自身の中で光と闇が渾然一体となる中、意識を失った。
次に目が覚めたときには、元の集落に戻っていた。奇跡的に他の仲間が見つけてくれたらしかった。
「そのとき患った病のせいで、わしは飛ぶ力を失った。だが、そのかわりに新たなこころの光を得ることができた――ヴァイクよ、それがわしのすべてだ」
老師が話し終えても、ヴァイクは微動だにしなかった。
「俺にはわからない。自分がどうしたらいいのか、何を目指せばいいのか……」
「迷うがいい、〝天空の大鷹〟よ。迷い、思い悩むことは、それそのものが心臓の鼓動のようなもの。恐れることも、恥じることもない」
「……それに、あんたの言っていることが正しいとは限らないしな」
少し皮肉を込めて言ってやると、別のところから声が上がった。
「いや、老師の言っていることは本当だよ」
幕を開けて入ってきたのは、最初に追っていた萌葱色の翼人だった。
「老師アオクは、ずっとジェイドを必要としていない、気の遠くなるような年月の間、ね。実際、老師に戦う力はないからね、それを得たくても得られない」
「ちょうどいい、ナータン」
「なんです?」
「その者の剣を直してやってくれ。完全に壊れてしまっておる」
「なぜ、それを……」
「音でわかる。刀身を柄に固定できておらんな」
「見せて」
ナータンに請われ、ヴァイクは渋々剣を渡した。
「これは……立派な剣だね。どうもこの辺のとは違うから、南方で打たれたのかな?」
「どうだ?」
「ああ、留め金が壊れただけだからね。それにしても、よく完全に壊したなぁ。かなり荒く使っても、こんな風にはならないのに」
「俺だけが使ってたわけじゃない」
「剣違えしたのか。まあ、いいよ。ちょっと直してくる」
と言って、ヴァイクの了解もとらないまま出ていってしまった。
しばらく、沈黙の帳が降りた。
ヴァイクも老爺も無言のままだった。
「アオク、だったか」
「なんだ?」
「あんたの言っていることは、正しいのかもしれない。でも、だったらリゼロッテはなぜ死ななければならなかったんだ」
「…………」
「それに、あんたの言っていることは理想だが、それは大半の翼人にとって厳しすぎる実現不可能なものだ。だったら、俺は別の道を探る」
「――昔、お主と同じことを言う少女がおったよ」
「何?」
「わしは最初、彼女にこう言った、瞑想の世界へ落ちよ、と」
「…………」
「可能なかぎり欲を捨て、大地に身を預けよ。さすれば、翼を持つ者は解放されるだろう――とな」
「俺には無理だ。俺は欲を捨てきれない」
「白翼の戦士よ、その素直さを誇るがいい。その人間の少女も同じ答えだった」
アオクが新たな薪をくべると、中でぱちりと何かがはぜた。
「己を解放することは、多くの者にとっては不可能なことだと。ならば、別の策を考えなければならない――そのとおりかもしれん」
老爺が顔を上げた。ヴァイクは、その澄み切った目に内側まですべてを見通されているかのような不思議な感覚がした。
「みずからの道を探し、みずからの道を進め、戦士よ。その先に安住の地があると、わしは信じておるよ」
「……ありがとう」
なぜか気持ちが楽になった。
平原は、今宵も静かなままだった。




