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第三章 第七節

 この小さな小屋は、元々は人間の村のものだった。村そのものが廃村らしく、最初に仲間たちが来たときには放置されてからすでにしばらく経っていたらしい。

 どうしてここを捨ててしまったのだろうかと、思いを馳せる。周囲は森で囲まれ、けっして広くはないがまとまった平地がある。水量は少ないものの、村の一角を川が流れ、井戸の水に困ることもない。暮らしやすさでいえば、田舎の村としては一級品だった。

 自然と人がいなくなったのだろうか。それとも、戦にでも巻き込まれたか。どちらにしろ、あまり愉快な理由ではないような気がした。

「ネリー」

 みずからを呼ぶ声に振り返ると、背後に白い翼のナーゲルが陶器の瓶を片手に立っていた。

 ――今はもういないあの人と、同じ翼。

 ネリーの葛藤を知ってか知らずか、ナーゲルは明るい声で再び呼びかけた。

「なあ、フーゴの奴が面白い物、持ってきたんだ。葡萄酒だぞ、一緒に飲まないか」

「私は……」

 なんと答えるべきだろうかと迷ったせいで、不自然な間が空いてしまった。

 ネリーの細い眉がひそめられたのを見て、ナーゲルは思わず苦笑した。

「なんでも背負っちゃうんだな」

「え?」

「ネリーは、みんなの苦しみをひとりで抱え込もうとしてる」

「私はそんな……」

「いいんだ、俺たちが勝手にそう思ってるだけだから」

「ナーゲル……」

 飾らない彼のやさしさが温かかった。それとは裏腹に、彼のそれに応えられない自分が歯がゆい。

「みんなが心配してる」

「うん……」

「――やっぱり、人間の集落に帰りたいのか?」

「違う、そうじゃない」

 自分の気持ちをうまく伝えられないのがもどかしかった。人間が恋しくなったわけではない。それどころか、翼人の仲間への愛着はいや増していた。

「ここにいて、私に何ができるんだろうって思って」

「ネリーは、ここにいてくれるだけでいい」

「でも……」

「ネリーがいてくれるだけで、みんなは頑張れる。ネリーは、何もしてないわけじゃない。俺たちのこころをいつも支えてくれてるんだ」

 それは、嘘偽りのないことだった。

 マクシムがいなくなってから、ばらばらになりそうだったこの〝極光〟を支えたのは、まぎれもなくネリーだ。その慈愛に満ちたこころでみんなをまとめ上げ、今もそのそれぞれをやさしく包み込んでくれている。

「ネリー、お前には周りをやる気にさせる何かががあるんだ。もっと自信を持っていい」

「ご大層な言い分だな」

 近くには誰もいないと思い込んでいた二人は、低い女の声にはっとした。

「アーシェラ……」

「そんな饒舌なナーゲルは初めて見た」

「うるさいな」

 口の端にわずかな笑みを浮かべて歩み寄ってくるのは、(あか)い翼のアーシェラだった。狩りにでも出ていのか、抜き身の剣を右手に握っている。

「でもアーシェラ、お前だって同じ思いのはずだ」

「ああ。だが、そういう過度な期待がネリーを苦しませるんだ」

「あ……」

 アーシェラの一言が胸を突く。自分たちは知らず知らずのうちに、ネリーを頼りすぎていたのかもしれない。

「ナーゲル、お前を他の奴らが捜していたぞ。例のことで話があるとか」

「あ、ああ、そうか」

 肝心なことを忘れていたナーゲルは『しまった』と顔をしかめて、すぐに近くの広場のほうへ向かっていった。

 彼がいなくなると、急に静かになる。森の木々の間を抜けてきた清涼な風が音もなく行き過ぎ、あとに留まった二人の体をゆっくりと冷ましてゆく。

「相変わらず慕われているな、ネリーは」

「なんだか申し訳ないくらい」

 褒められているというのに、栗色の髪をしたネリーはうつむいた。

「アーシェラも、私のこと心配して来てくれたの?」

「そんなんじゃない。森のほうから姿が見えたから来ただけだ」

 それは、半分は本当で、半分は嘘だった。森へ行ったのは別の用事ではあったが、その後、気になってわざわざ遠回りをしてまでネリーの様子をうかがいに来たのだった。

 なぜか気にかけてしまう――それがこのネリーという女性だった。

「私は、どうも周りを心配させてしまう(たち)みたい」

「自分でそう思うのならそうなんだろうな」

「……アーシェラの意地悪」

「自分で言ったんじゃないか」

 二人は、たわいもなく笑い合った。その笑顔は、ネリーが今日初めて見せるものだった。

「ネリーはそうやって笑っていたほうがいい。眉が曲がっているとブスになるぞ」

「ひどい」

「まあ、あまり考えすぎないことだ。実際に何かをするのは、あいつらであってお前じゃない。考えたところでどうにもならないんだから、余計なことは気にせずにじっと構えていればいい」

「だから苦しいんじゃない、何もできないことが。アーシェラは、私の気持ちをわかってない」

「わかってるよ。わかってるから、気にするなと言っている。お前が私たちのように剣を取って戦えるのか? 最前線で指揮を執れるのか? できないだろう。だったら、自分のやれることに専念するべきだ」

「やれないことを無理にやるなってこと?」

「ああ。私にもお前にも得手不得手はある。だから、お前は――きっとただの旗振り役なんだ」

「ただのって」

「誰にでもできることじゃない。いや、それどころか、やりたくても努力してできることではないんだろうな。本人の資質という奴だ」

「…………」

 それは慰めでもなんでもなかった。他が努力しだいで真似できることならともかく、そうでないのならそのことを活かすほうがいいに決まっている。

 人は誰しも自身の可能性になかなか気づけないものだが、その花を開くことができるのは自覚と決断だけだ。

「お前はお前にしかやれないことをやれ。それが、結果的にみんなのためにもなる」

「うん」

 ごねていたネリーも、ようやく納得したようだった。顔に出ていた迷いがわずかばかりに消え、少しだけ表情がやわらかなものに変わっていった。

「ところで、ナーゲルは例のことで?」

「――ああ、たぶんな。私にとってはどうでもいいが」

「他の組織と接触するのは嫌なの?」

「嫌とは言ってないだろ。どうでもいいんだ、本当に。協力するといっても、部分的にだろうし」

「でも相手方が、本当に翼人と人間が一緒にいるなら――」

「どうかな。私からすれば有り得んと思っている。人間と翼人では価値観が違いすぎる。同じ種族でも考え方が大きく異なれば、互いの関係は成り立たないものだ。それを人間と翼人でなんて……」

「こうして私とアーシェラは一緒にいるのに?」

「…………」

 思わず、ぐっと詰まってしまう。こうしてネリーにやり込められるのは、もしかしたら初めてのことかもしれなかった。

「……気になるなら、ナーゲルたちのところへ行ったらどうだ。あいつらが協力をどう思っているにせよ、お前の意見を聞きたがっているだろう」

「そうね、行ってみる」

 ネリーは素直にきびすを返し、おそらくほとんどの仲間が集まっているであろう、広場のほうへ向かっていった。その背中はまだどこか弱々しいが、足取りだけはしっかりとしていた。

 自分もいったん村の中へ戻ろうかと考えたとき、遠くのほうから笛の音のようなかすれた甲高い音が聞こえてきた。

 アーシェラは一瞬嫌悪感をにじませながらも、さりげなく再び森の陰の中へと入っていく。

 ――わかっている、急かさないでくれ。

 彼女のこころの声は、ネリーにさえ聞こえない。

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