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第三章 人として在ること

 開け放たれた窓から、新緑の香りをのせた晩春の風がゆるやかに吹き込んでくる。晴れた日には肌が暑さを感じ、耳は野の生き物たちの息吹をとらえていた。

 あれからどれくらいの日数が経ったのだろう。日の高さ、月の形からして、少なくとも一週間は過ぎているはずだった。

 初めは、長居するつもりなど毛頭なかった。怪我が癒えるまで、あの女が出て行けと言うまで、と少しずつ先延ばしにしてきた。

 ――俺は、まだここにいたいと思っているのか?

 なぜだろう。自分の気持がよくわからない。

 相手は人間、自分は翼人。

 相手は女、自分は戦士。

 まったく相容れない存在同士のはずだった。

 自分は、彼女を必要としているのだろうか。そもそも、彼女のほうは何を考えているのだろう。さまざまな思いが頭を駆け巡り、答えの出ない迷宮に苛立ちを覚える。

 アセルスタンは一度、寝返りを打ってから億劫そうに起き上がった。

 傷はもう、ほとんど問題ない。しかし、まだ体を動かすと鈍い痛みが背中に残る。

 それに何より、

 ――剣の腕がなまってるな。

 成人儀礼を済ませ、己の剣を受け取ってからこの方、こんなにも剣の修練を休んだのは初めてのことだった。

 まともに起き上がれないくらいだったのだから仕方がないことではあるのだが、違和感と同時に、自身の力が落ちてしまったのではないかという怖さをも感じていた。

「そろそろ始めるか」

 つぶやき、薄汚れた壁に立てかけてあった剣を手に取る。

 レア・シルヴィア。

 元々は、自分のものではない剣。

 その事実に相変わらずのむず痒さを覚えながらも、それを肩にかけ、家と呼ぶより小屋というほうがふさわしいそこから、ゆっくりと外へと出た。

 その瞬間、乾いた風が全身を撫でていく。久方ぶりの空の下は空気が透き通り、木々の葉の緑が静かに輝いている。

 ――ここが俺のいるべき場所、過ごすべき世界。

 なかば反射的にそう思うがゆえに、これまでの生活の異質さを身をもって思い知る。

 ――なんだっていいさ。

 アセルスタンは雑念を振り払うかのように剣を正対に構え、ゆっくりと振りはじめた。

 情けないことに、少しよろめいてしまう。怪我の影響やブランクのせいだけではない、まだ片翼という事実(、、、、、、、)に慣れていないせいでもあった。

 だが裏を返せば、それだけのことでしかない。

 翼を失った悲しみも憎しみも、今はもうない。

 それどころか、これでよかったとさえ思っている。片方の紅い翼とともに、自分は傲慢さと愚かさの根をも一緒に捨て去ることができた。

 ――ヴァイク。

 あいつが今、自分の立場だったらどうするだろうか。ここに留まるだろうか、それともさっさと出て行くだろうか。

 ――何を考えているんだ、俺は。

 他者に判断を仰ごうとするとは、そんなにも自分は迷いが出ているのか。

 らしくない、と思いながら、アセルスタンは剣を振る腕を止め、息を整えた。

 全身が汗で濡れ、久しぶりの運動に右手の指先がわずかに震えている。

 不快ではなかった。

 むしろ心地よい疲れが、やさしい陽光のように体を覆っていた。

 周囲を大樹で囲まれているここは、翼人にとっても最高級の場所だった。人間の気配もなく、土、風、水のすべてが肌に合う。

 ――やはり、俺は――

 木々の枝葉に覆われた天蓋を見つめながらアセルスタンがひとつの決意を固めようとしたとき、この清浄な空気にそぐわない異音に気がついた。

 普通の人間ならばわからなかったであろう、わずかな物音。

 しかし、アセルスタンの耳は確実に〝それ〟をとらえていた。

 何か重いものを地面に落としたかのような鈍い音。

 聞き覚えがある。アセルスタンははっとして、すぐさま飛び上がろうとした。

 と、あからさまに体勢を崩し、片膝をついた。

 ――またやってしまった。

 まだ翼のあった頃の癖が抜けきっていない。その事実に、わずかに自嘲したアセルスタンであったが、気を取り直して音のするほうへ走りだした。

 同じ響きが断続的に届く。悪い予感はいや増し、不快な焦りが強引に背中を押す。

 予想外の、しかし、どこか予想どおりの光景が目に飛び込んできたのは、どうしようもなく息が切れてきた頃のことだった。

「エリーゼ!?」

 木々の天蓋の切れ間、初夏の陽光射し込むそこにいたのは、ひとりの男と女。前者は右手の得物を振りかざし、後者は左肩を押さえてうずくまっている。

 小太りの中年男はこちらの存在に気づいていないのか、足元の女を睨みすえたまま無言のうちに折檻をつづけた。

 エリーゼに抵抗する気配はまるでない。薄い上着が破れ、腕の皮膚が裂け、紅い滴がこぼれ落ちる。

 腹の底から突き上げてくる怒りに、今ばかりはあえて身を任せた。

 男が再び小振りの鞭を掲げ、エリーゼの顔に狙いを定めている。

 弾けるような甲高い音が、静かなはずの森を震わせた。

「な、なんだ、貴様は!」

 驚愕のあまり、男は一歩、二歩と後ずさった。

 右手に持つ鞭は、付け根の辺りから先端までがすっかりなくなっていた。支えを失ったそれは、遥か前方で地面を軽く叩いて転がった。

「いい加減にしろ。こいつを傷つけることは俺が許さん」

 アセルスタンは剣を立てた姿勢のまま、相手に烈火のごとき気迫をぶつけた。たったそれだけのことで相手はあからさまにたじろぎ、そして鞭の柄だったはずのものを下へと取り落とした。

「エリーゼ」

「……どうして」

 アセルスタンが半分だけ振り返ると、彼女が顔を上げた。口元から血が流れ、頬が腫れているものの、目にはまだ生気があった。

「安心しろ、俺が守ってやる」

「…………」

 聞こえているのかいないのか、なぜか反応らしい反応はなかった。それをあえて気にせず、アセルスタンは正面に向き直った。

「お前が元凶のようだな」

「て、てめえ、翼人か」

 一時の衝撃から立ち直った様子の男が、怯えの色を見せながらも目前の翼の男をねめつけた。

「だったら、なんだ」

「へ、へ……しかし、片方の翼をなくしたようだな。そんななりで、まともに戦えるのか?」

「少なくとも雑魚に心配してもらうほどじゃない」

「強がりにしか聞こえんがな。翼人は飛べなければまともに戦えんのだろう? 不具者が生きのびられるほど、翼人の世界は甘くないはずだ」

「だから、それがどうしたと聞いている」

「たとえ戦いの権化といわれる翼人であっても、万全でないなら今この場でこの俺に倒されるということだよ!」

 言いざま、腰の剣を抜いて男は跳んだ。小太りの体型にしては眼を見張るほどに、その所作は素早かった。

 だが、アセルスタンに油断はなかった。

 甲高い音を上げて、剣と剣とが打ち合わされる。

「うわっ」

 弾かれたのは男のほうだった。押し返されて完全にバランスを失い、無様に尻もちをつく。

 しかし、アセルスタンが一歩間合いを詰めると、すぐさま跳ね起き、距離をとった。

 ――こいつ、意外と戦い慣れている。

 劣勢からの立て直しが早く、中途半端な動きはない。見た目とは裏腹に、隙らしい隙もなかった。どうやら、目の前の中年男に対する印象を改める必要があるようだった。

「おらっ」

 今度は大上段に剣を構え、無防備にも思える姿勢で襲いかかってくる。

 なんの工夫もなく振り下ろしてきたそれを軽くさばく。しかし男は怯まず、三度(みたび)踏み込んできた。

「!?」

 予想しない動きに、上体を揺さぶられる。体勢を整えたときにはもう、相手はさらに間合いを詰めていた。

 ――俺は、地上での戦い方にまだ慣れていない。

 その事実を思い知らされるかのように、わずかではあるが押される。

 対象の動きが読めない。基本的に翼人同士の戦いしか経験していないから、人間の戦い方がわからない。

 あたかも狩りをする虎と獅子が鉢合わせしたかのような場違いな空気。技、力、勝負勘のすべてで負けるつもりはなかったが、慣れないリズムに正確な対応ができなかった。

「やはり、翼がなくてはまともに戦えないようだな! 〝天性の剣士〟だかなんだか知らねえが、不具の野郎がいきがってんじゃねえよ!」

「うるさい犬だ」

 アセルスタンは力任せに剣を振ると、斬るというより押しつけるようにして相手を一気に後退させた。

 ――元から自分の戦いはこうだ。

 技で勝負する柄じゃない。圧倒的なパワーで敵を凌駕し、有無を言わさずねじ伏せる。それこそが、みずからの剣だった。

 こちらからわずかばかりに距離を置いた男は、やにわに嫌悪感を覚えさせる歪んだ笑みを浮かべた。

「そこのあばずれを痛めつけてやっていたら、まさか獲物が自分からひょっこり顔を出すとはな」

「何?」

 言葉の意味がわからない。こいつ流の挑発だろうか。

「お前のジェイド、もらい受ける」

「!」

「どうやら、翼人のくせにエリーゼの知り合いのようだからな。おとなしくジェイドを差し出せば、奴の借金をちゃらにしてやってもいい」

「…………」

 その条件はともかく、こちらの心臓(ジェイド)を狙っているのは本気らしかった。

 ――なぜ人間が?

「不思議そうな顔をしてるな。いいだろう、教えてやる。一部の人間は知ってるんだよ、飛翔石が翼人の心臓からできるってことをな」

 ――飛翔石、そうか。

 聞いたことがある。人間のつくった空を飛ぶ船〝飛行艇〟は、結晶化したジェイドを使っていると。

「……それが目的ということか」

「ああ、そうだよ。 高値で売れるんだ、これが。まあ、翼人に〝売る〟という概念があるかどうかは知らんがな」

 アセルスタンは一度、静かに目を閉じた。

 昔の自分なら、たとえ同族が人間にやられようと〝弱い奴が悪い〟と切って捨てていただろう。

 だが今は、純粋な怒りにこころの奥底から震えた。

 ――こいつらは、カネとかいうもののために翼人の心臓(ジェイド)を狩っている。

 同族が、どれほど苦痛と葛藤とを感じながら戦っているのかも知らずに。

 この男に、その困難を身をもって知らしめるべきなのか。

 ――ああ、そうするべきだ。

「お前に、本当の絶望を教えてやる。翼人が何か教えてやる。死ぬ気で(、、、、)来い」

「不具者が俺に勝つつもりか? そんな――」

「こんな戦いに意味などない。意味のない戦いに、勝った負けたもない」

 アセルスタンはゆっくりと剣を突き出しながら、その鋭すぎる視線を男に向けた。

「お前の心臓を生きたままえぐり出してやる」

 男が引きつった声を上げたとき、アセルスタンの背後でエリーゼもまた戦慄した。

 ――本気だ。

 その声、その瞳には、ただの恫喝ではすまされない鬼気迫るものがあった。アセルスタンの真の怒りに初めて触れ、彼の業の深さを知った。

「行くぞ」

 男が気持ちを立て直す前に、アセルスタンは裂帛の気合いとともに自分から突っ込んだ。

 防御の遅れた相手の左肩をしたたかに打ちつける。くぐもった悲鳴を上げた男が怯む隙に、剣を返し、今度は横薙ぎに振るって相手のがら空きの脇腹を狙った。

 くしゃり、と聞く者の背筋を凍らせる異音が鳴り響く。それは、剣を受けた男の肋骨が複数まとめて折れた音だった。

 悲鳴とも呼気ともつかないものが彼の口からもれ、体は勢いに負けて横へかしいだ。それでも膝をつかなかったのは、本格的な戦いの経験があることを如実に物語っていた。

 しかし、アセルスタンはいっさい容赦しない。つづけざまに剣撃を浴びせかけ、相手をいやおうもなく圧倒していく。

「さっきの威勢はどうした。これが、お前が虚仮にする不具の翼人の力だ!」

 ひとつ、ふたつと生傷が増え、一歩、二歩と後ろへ下がっていく。

 やがて、男は剣を取り落とした。

 アセルスタンはゆっくりと近づき、そして剣の切っ先を突きつけた。

「しまいか、口ほどにもない。人間の戦士など、所詮こんなものか」

 男からの返答はない。ただ、目の前の不遜な相手を空手(くうしゅ)のまま睨みつけるだけだ。

 戦いは終わった、そう思ったアセルスタンであったが、そのどこかに油断があったのかもしれない。

 一瞬の隙――

 突然走りだした男がエリーゼの真ん前にまで到達し、懐から取り出したナイフをおくげもなく彼女の首もとに突きつけた。

「なんのつもりだ?」

「この女をやられたくなかったら、お前のその剣を捨てろ」

「剣を捨てる?」

 アセルスタンは失笑した。

「翼人に脅迫など通用しない。ましてや、みずから剣を捨てるなど。脅しに屈することも、剣を離すことも、俺たちにとっては明確な恥だ。その女を殺したければ殺せ。人質にとられるなど、弱い証拠だ。弱者に生きる価値などない」

 今ばかりは昔に戻ったつもりで、辛辣な言葉を放った。

 だが、それに反応したのは、男よりもむしろエリーゼのほうだった。言われたとたん、絶望的な表情を浮かべてこちらに目を向けてくる。

 ――はったりに決まってるだろう。

 その態度に苛立ちを覚え、内心歯噛みした。はったりをはったりとして(さと)ってくれないということは、自分はまだ信用されていないのだろうか。

 アセルスタンが剣の柄を強く握りしめたのも知らず、男は声を荒らげた。

「ふざけるなよ。わざわざ助けに来たってことは、この女を知らんわけではないんだろう?」

「翼人が人間の女に執着すると思ってるのか? 笑わせるな。しょせん、人間と翼人は相入れぬ仲。俺自身がそいつのために犠牲になるはずがない」

 その言葉に、ますます傷ついた顔になったエリーゼを見て気が気ではなかったが、相手の指摘を認めるわけにもいかない。

 こちらのジレンマも知らずに、男は不遜な態度を崩さない相手にいきり立った。

「早く剣を離せ! こっちははったりじゃないんだよッ!」

 男が手を震わせると、鈍い輝きを放つナイフがエリーゼの首筋の白い肌をわずかに裂いた。彼女にそれを気にした様子はないが、相変わらず暗い瞳を翼人の男へ向けている。

 軽く舌打ちしながら、アセルスタンは諦念をにじませながらうつむいた。

「――わかった、剣を捨てよう」

 柄を逆手に持ち替え、それを胸の前に掲げてみせた。男が饐えたものを思わせる笑みを浮かべた直後、アセルスタンは柄から手を離した。

 剣を思い切り投げつけることによって。

「!」

 はっとしたときにはもう遅い。大弩弓(バリスタ)から放たれた矢もかくやという勢いで飛ぶ剣は、一瞬の後、男の左肩をものの見事に刺し貫いていた。

 悲鳴を上げることすらかなわず、仰向けに倒れ込んだ。しかし、血で汚れた剣がつっかえのようになって、激しい痛みに男は上体を無理やり起こした。

 だが、激痛はまだつづいた。

 いつの間にか、片翼の男が真横に立っている。無表情のまま片足を男の胸に当て、刺さった剣を強引にひき抜いていった。

 耳をつんざくような悲鳴が、静かだったはずの森の中に響き渡っていく。異音に周囲はざわめき、森の生き物たちの怯えが波動となって伝わってくる。

 剣を手元に奪い返したアセルスタンはそれを一振りし、紅い雫を弾き飛ばした。

「立場が逆転したな。己の命が惜しいなら、二度と彼女には手を出さないでもらおう。借金とやらも、すべてなしにしてもらう。いいな?」

「おのれ、翼人の分際で……」

「言葉に気をつけろ」

 目を鋭くして、エリーゼにしたのと同じようにして首筋に切っ先で浅く傷をつける。男は無様に声を上げるようなことはしなかったが、唇の震えがすべてを物語っていた。

「行け、もう貴様に用はない。目障りだ、失せろ」

 アセルスタンの物言いに容赦はない。その必要もなかった。

 男は、視線にだけは憎しみの力を込め、よろよろと立ち上がった。睨んだところでたいしたことができるはずもない、アセルスタンはそう思っていた。

 だが、思わぬことが起きたのはその直後だった。

 そのまますごすごと立ち去るかに思われた男が突然きびすを返し、左の肩口を押さえたまま走りだした。

 ――エリーゼのほうへ向かって。

「くっ!」

 まさか、この期に及んで彼女を狙うとは思わなかった。しかも、走る速度を落とす様子がない!

 ――こいつ!

 最悪の予測が、混乱した頭の中をよぎった。奴は、もう一度エリーゼを人質にしようとしているのではない。これは、ひょっとすると――

 悠長に考えている場合ではなかった。すぐに動かなければ、何もかも間に合わなくなる。

 とっさに反転し、追いかけようとした。しかし、三度予想だにしないことが起きた。

 一歩を踏み出し、前傾姿勢になった目前に、複数の鈍く輝く〝何か〟が飛び(きた)る。

「!?」

 アセルスタンは気づくより早く体を反応させ、剣を前方に持ち上げた。

 キン、キン、と乾いた音がつづけて響き、勢いを失った何かが足元に落ちる。

 それは、細長い針だった。

 ――しまった……!

 両足を走る痛みに顔をしかめた。

 太ももに、いくつかの針が完全に突き刺さっている。男がどこに隠し持っていたのか、小型の弩弓(ボウガン)で振り向きざまに放ったものだ。

 しかも、どれだけ力を入れてみても、まるで根が張ったかのように動かせない!

 基本的に一対一の剣の戦いに慣れたアセルスタンには、針にしびれ薬が塗られていたことなど知る由もなかった。

 ――なぜだ!?

 焦りが焦りを呼び、冷静な思考を奪い、さらに状況が見えなくなっていく。

 男はすでに、エリーゼの近くに達しようとしていた。

 あの異常なまでにいきり立った様子からして、彼女を害しようとしているのはもはや明白だった。おそらくこのまま逃げるついでに、女に一撃見舞ってやろうというのだろう。

 相手との相対距離、走る勢い……このままでは間に合わない。

 ――また剣を投げるか!?

 それもできない。男との射線上にエリーゼがいる。万が一外したとき、剣が彼女に当たってしまう。

 ――許しを請うか。

 声をかけたところで相手が止まるはずもないし、その意志もないだろう。

 八方塞がりだった。まともに動くことさえかなわず、ただただ見ていることしかできない。

 少し太った男の一挙手一投足が、いやにゆっくりに見える。

 エリーゼまであと三歩、二歩――到達した。

 袖の内側から新たなナイフを取り出し――そして振り上げる。

 なぜか、いつもの彼女の顔。

 そう、諦念に支配されたあの顔。

 後ろからも、男の顔が歪んだ喜びに満ちているのがわかる。

 エリーゼが失われる。俺を今まで包んでくれていたエリーゼが。

「――嫌だッ!」

 それまでたまりにたまった想いがその瞬間、すべての闘気となって爆発的にふくれ上がり、そして弾けた。

 ――俺はエリーゼを失いたくない、彼女の顔を見ていたい。

 男を呪殺せんばかりに伸ばした右手が、ぐんぐんと、ぐんぐんと、ナイフを振り下ろす男に伸びていく。

 景色が後ろへ飛んでいく、空気を切り裂く音が耳を震わす。

 アセルスタンは、飛んでいた。

 自身の驚愕に気づかぬままに、剣を突き出し、雄叫びを上げて突っ込んだ。

 一瞬だけ、男の目が見えた。それは驚くというより、唖然としたものだった。

 男の胸を、閃光と化した女神(レア・シルヴィア)が刺し貫く。

 血は、それほど出なかった。刀身が動脈を塞ぎ、血液を運ぶはずだった心臓を破壊する。男には、絶命のうめきを上げる慈悲さえ与えられなかった。

 だが、余裕がなかったのはアセルスタンも同じだ。

 まさか再び飛べるとは思っていなかった驚愕、それに片方の翼がないという厳然とした事実――結果的にアセルスタンは男の体を弾き飛ばし、まともに受け身をとることもできずにもんどり打って倒れ込んだ。

「…………」

 尋常ではない勢いだっただけに、全身が軋んでいるはずだった。だが、そんな痛みなどすべて打ち消すほどに、今は身もこころも高揚感が支配していた。

 再び飛べた、そしてエリーゼを救うことができた。

 しばらく地に伏せっていたアセルスタンは、息を整えながら両の手をついて身を起こした。さすがに一時の興奮が収ると、体のあちこちが悲鳴を上げはじめる。それを無理やりねじ伏せ、座り込んだままのエリーゼの元へ歩み寄った。

 彼女はこちらを見てはいなかった。倒れ伏した男に目をやり、ただ打ち震えている。

「どうして……」

 さっと、揺れる瞳を向けてきた。

「どうして殺したの!」

 エリーゼの言葉は、アセルスタンの期待したものではなかった。

 感謝でも、安堵でも、いつもの無感情でもなかった。

 そこには、非難だけがあった。

「……殺さなければ、お前がやられていた。それはわかってるだろう」

 反論の声に険がこもる。だが、エリーゼは引かなかった。

「でも、こんな……」

「やらなければやられる。それが戦いというものだ」

「――人を殺さなければ生きられないの?」

「そうじゃない。強ければ、相手を殺さずに無力化することもできる。弱いから、相手を殺すしか他に方法がなくなる」

 アセルスタンは、エリーゼをキッと見すえた。

「こいつが死んだのは――お前が弱いせいだ」

 そのたった一言の衝撃にエリーゼは身を揺らし、深く深くうつむいた。

 ――こんなこと、言うつもりじゃなかったのに。

 助けたはずの相手に糾弾され、子供のようにかっとなっていらぬことを口走ってしまった。

 殺らなければ殺られる。

 そんなのは、昔の自分のつまらない考えにすぎない。

 今は違う。

 ――そう、違うんだ。あいつらと、あの少女と出会ったことで自分は変われたはずだった。

 今の言葉を撤回しよう、そう思ったとき、おもむろにエリーゼのほうが先に口を開いた。

「私はそれでも……」

 ゆっくりと顔を上げた。

「私はそれでも、人を殺してまで自分が生きたいとは思わない」

 瞳は濡れていたが、そこには強い意志の輝きがあった。

 アセルスタンは、つまらない言い訳の言葉など失っていた。

 ――ここにも、いた。

 ここにもいたのだ。あの少女と同じ、気高いやさしさをもった人が。

 ああ、そうか。自分は彼女の魅力に単純に惹かれていたのではない、この、人としての誇りにこそ惹かれていたのだ。

 ――俺は、こいつを守ろう。

 あの少女は、翼人の残酷な運命のせいでその命が守られることはなかった。だがこの女は、エリーゼという存在は、自分が守り抜こう。

 アセルスタンは、傷の多い体でエリーゼをそっと抱き寄せようとした。

 と、その背後に影があった。

「――――」

 言葉を発する(いとま)もなく、剣を胸に刺したままの男が濁った目でナイフを振り上げていた。

 防御は間に合わない。アセルスタンは、致命的となるかもしれない一撃を覚悟した。

 だが、その凶器が標的に達することはなかった。

 男の腹部に、小降りの剣が突き立っている。

 その柄を握っているのは、息を止めたエリーゼだった。

「あ……あ……」

 震えだした彼女の手から剣を奪い取り、アセルスタンはすぐさま男の喉元を迷わずかっ切った。

 今度こそ血を噴き出しながらゆっくりと倒れていく無様な男を、アセルスタンは見届けもしなかった。

「こいつを殺したのは俺だ。俺がすべてやったんだ」

 荒い息をつき、独白でありながら誰かに聞かせるようにはっきりと言い放った。

 だが、それに対する反応は意外なものだった。

 エリーゼの冷たい繊手が、柄を握りしめる男の手をそっと包み込んだ。

「もういい……もう戦わなくていいから……」

 涙の声に、すべてが救われたような気がした。

 そっと彼女の手に、自分のそれを重ねた。

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