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第二章 第五節

 今日も今日とて、ノイシュタットは平和だった。もこもことした雲がぽつりぽつりと浮かぶ青空に、のんきな鳥が数羽舞っている。風もほとんどなく、呆れるほどに穏やかな日常だった。

 こんな日は、どうしても見張り役が退屈でしょうがなくなる。このノイシュタットに限って何かが起こるはずもなく、ましてや鉄壁の守りを誇るシュラインシュタット城に攻め込む愚か者がいようはずもなかった。

 いけない、と思いつつも大きなあくびをしてしまう。他の見張り番にまるで動きがないことからして、たぶん他のみんなも極度の退屈さに(さいな)まれているのだろう。

「はあ、なんでこんな日に仕事があるんだ」

 言っても無駄だと知りつつ、それでも愚痴がこぼれてしまう。せめて天気に変化があれば気がまぎれるというのに、今日に限って笑ってしまうほどの快晴だった。

「おい……おい!」

「――は?」

 隣からの声に、はっとして顔を上げる。横を向くと、同僚が怒ったような顔でこちらを睨みつけていた。

「見張り番のときに居眠りするやつがあるか。しゃきっとしろ」

「寝てなんているもんか」

 むっとするが、妙に体がふわふわしている感覚がある。もしかしたら自分でも気がつかないうちに、うつらうつらとしてしまっていたのかもしれない。

 さすがにこれではいかんと気を取り直して、再び城の外のほうへ目を向ける。珍しいものを見つけたのは、ふと塔のほうに目を向けたときだった。

 大きな鳥が城の近くを飛んでいる。鷹はときおり山のほうに見かけるが、それより大きいかもしれない。

 ――いや、違う。

 何かが違う。鳥のようではあるが、鳥ではない何か。あれは――

「!」

 それに気付いた瞬間、見張り番の男は椅子を蹴立てて立ち上がった。

「どうした?」

 同僚が驚いた様子で駆け寄ってきた。

 男のほうはあわてるあまり、言葉をうまく発せられないでいた。

「よ、よ、よ……」

「よ?」

「翼人だよッ! 翼人が塔の中に入っていった!」

 ようやく言うべきことを言えたものの、同僚のほうは疑わしげに眉をひそめた。

「翼人? こんなところに翼人が来るわけないだろう。見まちがいじゃないのか」

「いや、あれは確かに翼人だった。鳥ではなかったんだよ。俺を信じてくれ!」

「しかしなぁ……」

 煮え切らない同僚の態度に、男は食ってかかった。

「その翼人が入っていったのは、第一塔の五階だ」

 同僚は、ぽかんと口を開けた。しかし、一瞬ののちには目をむいて叫んでいた。

「なんだって!? 姫の部屋じゃないか」

「ああ、だからもし本当に翼人だったら姫が大変なことになるぞ!」

「そ、それもそうだな……」

 ことの重大さがようやくわかったようで、今さらながらに同僚もあわてはじめた。

「じゃあ、とりあえずオトマル卿に報告しよう。ここの見張りを外すわけにはいかないから、お前が行ってきてくれ。俺は、しばらく塔のほうを見ているよ」

「ああ!」

 すぐさま男は駆け出した。そもそも、自分は目に自信がある。確信を持てるほどはっきりと見たわけではないが、あれはどう考えても翼人としか思えなかった。

 階段を駆け上がり、廊下を疾走し、(あた)うかぎり早くオトマルの執務室へと向かう。唖然とした様子で城の者たちが見てくるが、そんなことに構ってなどいられなかった。

 回廊をひとつ抜けると、目的の場所が見えてきた。その扉の前で警備していた近衛騎士が、さすがに表情を険しくて前に立ちはだかった。

「何事か」

「恐れ入ります、火急の要件です。城の付近で翼人の姿を発見いたしました。至急、オトマル卿に報告いたしたく……」

 息も絶え絶えにそれだけをやっと言う。騎士の男も驚いたようだったが、それに対する声は意外なところから上がった。

「なんだと!? どういうことか!」

 部屋の中からだ。その直後、扉が内側から激しく開けられた。

「翼人を見たというのか!?」

「は、はい。しかも城のすぐ近くを飛び、私の見まちがいでなければ第一棟の五階の部屋に入っていきました」

 それを聞いたオトマルと近衛騎士の驚愕は、尋常ならざるものがあった。しかし、そこは百戦錬磨の男たち。すぐさま自分たちの為すべきことを悟った。

「すぐに姫の元へ向かうぞ! お前は兵をまとめてあとから参れ!」

「はっ!」

 騎士にそう命じてから、すぐさま走り出した。あわてて見張り番の男もそのあとに従うが、オトマルの速さは圧倒的だった。

 ぐんぐん後ろを引き離していく。回廊を抜けたときにはすでに、老騎士の後ろ姿はほとんど見えなくなっていた。

 ――アーデ様……

 こころの底から焦燥感が込み上げてくる。主君から留守を任されたというのに、よりによって翼人に、しかも姫の部屋に侵入を許すとは。久しぶりに己の迂闊さに歯噛みする思いだった。

 第一塔までの距離が永遠に長いものに感じられる。こういったときばかりは、この城の広さが恨めしい。

 そこに着いても、今度は長い階段を上りつづけなければならない。その一段一段が妙に大きなものに感じられ、体よりもむしろこころが悲鳴を上げそうになる。

 ようやく姫の部屋の前に着いたときにはもう、すでに随分と時間が経っているような気がした。焦る気持ちを抑えきれないままに、かまわず扉を勢いよく開け放った。

「殿下! ご無事ですか!?」

 部屋の中には二人いた(、、、、)

「あ」

 と言ったきり、なぜか当のアーデはぽかんとしている。

 その前には、赤い翼の翼人。

「おのれ、翼人め! このフェリクス様が居城に侵入するとは不届き千万! この〝鉄壁の騎士〟オトマルが成敗してくれる!」

 と見事に啖呵を切ったものの、なぜか翼人のほうまでアーデと同じように唖然としていた。

 しかも、よく見ると若い女だ。場の不思議な空気と予想外の事態に、オトマルは次に打つべき手がわからず硬直するしかなかった。

「あ」

 と、アーデはもう一度言ってから、急いで扉のところへ駆け寄った。剣を構えているオトマルことなどまったく意に介さず、あわてて扉を閉めた。

 廊下の奥からは無数の足音が聞こえてくる。先ほどの近衛騎士が、指示どおり兵を引き連れてやってきたのだ。

「殿下、ご無事ですか!?」

「なんでもないわ。オトマルが勘違いしただけ。驚かせてしまってごめんなさい」

「殿下!?」

 文句を言いたげなオトマルに黙っていろと身振りで示して、アーデは扉の向こうの相手に告げた。

「みんな持ち場に戻って、侵入者なんていないから。オトマルには話があるから残ってもらうけど」

「そ、そうですか」

 声の調子からして半分納得していない様子で、それでも言われたとおり騎士や兵士たちはぞろぞろと来た道を戻っていった。

「さて――」

 とりあえず一息ついてから、アーデはゆっくりと振り返った。なぜかあぶら汗をかいている老騎士を困ったように見やってから、何事もなかったように椅子に座った。

「剣を収めたら? オトマル。さすがにその格好のままじゃ間抜けよ」

「…………」

 言われてようやく構えを解き、刀身を鞘に入れた。しかし、混乱が消えたわけではもちろんない。

「まず、何からお尋ねしたらいいものか……」

「ああ、こちらはレベッカ。私の親友よ」

「アーデにはいつも世話になっている。あなたがオトマル卿だろう? その勇名は、アーデやユーグからたびたび聞いている」

「は、はあ。どうも」

 そんな、おざなりな返答しか出てこない。どうにも調子がおかしかった。

「私の中にわずかに残った冷静さをもって推察いたしますと……殿下は以前から翼人とつながりがあったということでしょうか」

「当然じゃない。さっき紹介したでしょ」

 確かにそうだが、その事実はあまりにも衝撃的すぎる。ほとんど二の句が継げなかった。

「な、なぜ……?」

「なぜって逆に聞くけど、人間が翼人と仲良くしちゃいけないの?」

「いや、それは……。しかし、普通は有り得ないでしょう、特に帝国の侯妹(こうまい)が」

「私は普通じゃないから」

「…………」

 あっさりとそう言われては、もはや天を仰ぐしかなかった。

 そこへ、意外なところから助け船が出された。

「アーデ、年輩の方をからかうもんじゃないと思う」

「ふふふ、年寄りには刺激が強すぎたかしら」

 いたずらっぽく笑い、舌をぺろっと出した。オトマルは、急激な脱力感に苛まれていた。

「殿下、わたくしはもう限界でございます。どうか順を追ってご説明ください」

「オトマル、大丈夫? 顔色が悪いわよ」

 いったい誰のせいなのかと小一時間問いつめたい気分に駆られたが、今はそれさえもどうでもいい。早く事情を聞きだしたかった。

「そうねえ、まず何から話したものか――。とにかく、あるとき私がある翼人たちと出会ったのよ。私も初めは驚いたし、警戒するところもあったんだけど、実際にいろいろ話したり一緒に行動したりしているうちにあることに気がついて」

「なんです、それは」

「翼人も人間も変わらないってこと。人間は翼人を特別視してるし、それは逆もまたしかり。だけどね、けっきょく変わらないのよ。翼のあるなしは大きいかもしれないけど、どちらも弱さを抱えていて完璧には程遠い存在。どちらにも欠点があって、どちらにも長所がある。今こうして普通に話せてるんだし、姿形もほとんど一緒。無理に分けて考えるほうがおかしいと思わない?」

「――――」

 オトマルは、すぐには言葉を返せなかった。

 言われてみれば、その通りかもしれないという思いはある。これまでは翼人という種族のことがよくわからず、自分の中で勝手な虚像を作り上げ、変に意識していたという面は確かにあったろう。

 しかし、ひとりの戦士として二度に渡って彼らの戦いぶりを見て、いろいろと考えを改めるしかなくなった。人間の世界一般で流布している野蛮な印象とは裏腹に、非常に洗練された戦いをくり広げていた。悔しいが、同じ戦い方を自分たちにはできないと感じるほどに。

「翼人は、遠いようで近い存在だったのですな」

「その通りよ。お互いに遠いと思い込んでしまっているだけ。本当は同じ世界を共有し、同じ空気を吸っている同朋よ」

 レベッカのほうをちらりと見る。いつもの落ち着いた表情で頷きを返してきた。

「現に、こうして同じ場で一緒にいるじゃない。オトマルは初めてだから驚くのも無理はないけど、慣れれば本当に翼人も人間も関係なくなるのよ」

「しかし……」

「じゃあ、何が問題だというの? 許せないと感じるところを私に教えて」

「――――」

 再び答えに窮してしまう。具体的なことを問われると、案外思いつくところがない。

 翼があるから?

 だが、それは空が飛べるか飛べないかという違いがあるだけだ。内面の問題ではけっしてない。

 住む世界が違うから?

 いや、文化が異なるだけであって、実際には同じところに存在し、同じように生きている。普段の生活のなかで接点がないというだけだ。

 となると結局、何が問題なのかがわからなくなってくる。自分でも不思議に思えてきた。

「〝遠き存在は遠き世界に。近き存在は近き世界に。されど遠くは近く、近くは遠い。すべては(いつ)なるところに含有する〟」

「聞いたことのある詩ですな。誰のものでしたか」

「誰だったっけ?」

「ショウ、だ。『世界篇』という書物にあった」

 答えたのはレベッカだった。なぜ人間のくせにそれを知らない、と呆れているような調子だった。

「――まあ、そういうことよ。人間以上に人間らしい翼人もいることだし」

「ううむ、種族の垣根というのは意外に低いようですな」

 垣根が低いのではなく、それぞれが自分たちで勝手にそれをつくり上げてしまっていた。そして、そういった障害物にみずからがつまづいていたのだ。

 滑稽な話であった。

「レベッカはどう思うの? 翼人と人間の関係について」

「人それぞれということだと思う」

「え?」

「私たちのように、同族同士よりもずっとこころを通わせている人もいる。逆に、同族同士でも敵対していることもある。人によりけりだ。一概には言えない」

「そうね。種族そのものが関係ないか」

 かつて父ジークヴァルトが、〝近くの人ほど遠い〟と嘆いていたことを今でも覚えている。翼人、人間にかかわりなく、自分以外の存在をどう思うかは本人の内面しだいだ。

 親子でも兄弟でもわかり合えないことがある。逆に、遠く離れた人同士であってもこころを通わせることもある。

 そこにあるのは種族の問題ではなく、それぞれの関係性と内面の有り様であった。

「どう? オトマル。まだ何か文句ある?」

「文句はありませんが……なんと言いますか、理性的にはわかっても感情的には混乱しております」

「正直ね、オトマル」

 くすくすと笑う。オトマルからすれば笑いごとではないのだが、無邪気な妹姫はいたってお気楽な様子だった。

「とにかく、翼人も人間も変わりはないの、いい意味でも悪い意味でもね。もちろん、区別はつけなきゃいけないかもしれない。でもね、必要以上に分けて考えなきゃいけない理由なんてどこにもないわ」

「ですが、アーデ様。殿下は、このノイシュタットの侯妹ですぞ。やはり、いくらなんでも翼人と関係を持ったり、あまつさえ城の中に勝手に入れるのは――」

「オトマル」

 静かではあるが有無を言わせぬ迫力のある声で、アーデが老騎士の言葉を遮った。

「何度も言わせないで。翼人も人間も変わりがない。それは、侯妹だろうと庶民だろうと変わりがないということでもあるはずよ」

「――――」

 なんということを、と反論しようとも思ったのだがやめておいた。そもそも、反論できそうなところがないようにも思えた。

「私に既存の枠組みや身分なんて関係ないわ。自分が正しいと思ったことを迷わずやっていくだけよ」

「しかしですな、殿下が責任あるお立場であることも事実なのです。そのことを失念していただいては困ります」

 うっとアーデが詰まる。さすがに年の功か、痛いところを鋭く突いてくる。

 レベッカは、軽く笑っていた。

「アーデの負けだな。オトマル卿の言ったことは正論だ。身分にとらわれないことと、自分の役目を放棄することはまったく別問題だ」

「お黙りなさい、言われなくたってわかってるわ。ただ、私は余計なことに執着なんてしないということが言いたかっただけよ」

 つん、と()ねたようにそっぽを向く。その子供じみた仕草を見て、レベッカとオトマルの二人は苦笑していた。

「とにかく! オトマルも、これからは翼人も仲間だと思うこと。もしレベッカたちを敵扱いしたら、今度は許さないんだから」

「――――」

 オトマルは押し黙った。しかしその沈黙は、これまでのものと意を異にしていた。

 彼の心中を察したのは、アーデではなくレベッカだった。

「あなたの気持ちはわかる。帝都やアルスフェルトを襲撃した連中のことが気になるんだろう? 彼らもまぎれもなく翼人だ。それに対して、私たちは言い訳できない」

「でも、それを言ったら人間の側だって同じじゃない。帝都を襲ったのは翼人だけじゃなくて、よりによってカセル侯軍や聖堂騎士団でもあったんだから」

 いい者もいれば悪い者もいる。それこそ、人間も翼人も変わりがなかった。

 オトマルもその意見にうなずいた。

「殿下、よいご友人を得られたようですな。このような実直で怜悧なお方はなかなかいるものではないですぞ」

「ふふ、オトマルもようやくわかってきたようね」

 何様のつもりか、姫は老騎士を褒め称えた。なぜか褒められたほうより褒めたほうが得意げな顔をしているが。

「私はね、オトマル。翼人とか人間とかそんな尺度ではなくて、もっと大きなこころですべてをとらえたいの。小さい尺度では小さいことしか測れないし、それに合わせて自分まで小さくなっちゃう。そうじゃなくて、この広い世界を見渡したいの。何ものにもとらわれず、自分の目でありのままを見たいのよ」

 この世界は、自分たちが思っている以上に深く広い。そのすべてを見、すべてを知ることは力弱き人の子にはどれあけ足掻(あが)いたところで無理だろう。

 それでも――いや、だからこそ、余計なことにとらわれて真実を見誤るようなことだけはしたくなかった。それでは、あまりにもったいないではないか。

 こんなに素晴らしい世界で、自分は今まさに生きているというのに。

「人にはそれぞれの世界があるのかもしれない。同じ絵を見ていてもまったく違う印象を持つように、ね。でも、共通する部分もかならずあると思う。たぶん、それが〝共感する〟っていうことなんじゃないかな」

 レベッカも頷いた。

「世界を感じることに、翼人も人間もたいした差はない。実は、感じていることや考えていることは大半が同じなんだ」

「だから、私たちはともにいる」

「ああ、その意義をオトマル卿にもわかってほしい」

 二人のうら若き女性が老騎士のほうを見る。

 オトマルは、ため息をつきつつ首肯した。

「どうやら、理はそちらにあるようですな。まだ驚きはありますが、私ごときがどうこう言えることではありますまい。殿下は殿下の信じる道を進みなさいませ」

「ありがとう、オトマル」

 しかし言葉とは裏腹に、オトマルの表情は硬いままだった。

「ただ――」

「何?」

「フェリクス閣下にはどう伝えるおつもりなのです。まさか、このまま隠し通すわけではないでしょうな」

「なぜ『まさか』なの。〝当然〟じゃない」

「…………」

 なかば予想していたこととはいえ、オトマルは頭を抱えたくなった。

「では、(わたくし)にはどうしろと?」

「当然黙っていてもらうわ。もし侯妹が翼人と付き合いがあるなんてわかったら、大変なことになるでしょう。時期が時期なだけに、ね」

「ご自分でおっしゃらないでください」

「自覚はあるってことなんだからいいじゃない。ともかく、お兄様には内密にしておくように。いいわね、オトマル」

「――それでは、主君を裏切ることになってしまうのですが」

「いいえ、そういうことにはならないわ。ただでさえお兄様はやらなきゃいけないことが多いのよ。だから、黙っておくことがお兄様のためにもなるの。わかった?」

 あまりにも独りよがりなことをいけしゃあしゃあと見事に言ってのける。これが、アーデのアーデたる所以であった。

 オトマルは一言申し上げたいことがないでもなかったが、アーデの言い分には一理あることもわかっていた。

 だが、ひとりの騎士として譲れない思いもあった。

「しかしですな、殿下のことを誰よりも心配しているのは他ならぬフェリクス閣下なのですぞ。兄君の思いをご勘案くださいませ」

「そんなこと、言われるまでもないわ。だいたい、私の活動はもうすでにお兄様の〝お墨付き〟なんだから!」

「なんですと?」

「ふふ、驚いたでしょう? この前、お兄様が私の部屋に来てお話をしてくれたの。それでね、私がある程度独自に活動することを認めてくれたというわけ」

「本当でございますか」

「ええ、そうよ。こんなことをさすがに嘘では言えないわ」

「…………」

 しばらくの間。

 直後、レベッカが思わず吹き出した。

「オトマル卿は、アーデなら有り得ると思ってるようだぞ」

「失礼ね。私にだって、言っていいことと悪いことの分別はついているわ。見くびらないでちょうだい」

 心外だとばかりにアーデが頬をふくらませる。

 ただ、オトマルにはどうしても釈然としない思いがあった。

「それなら、フェリクス様は姫の行動を知ったうえで認められたということですか」

「そうなる。寛大なお兄様に感謝ね」

「ううむ、ならば(わたくし)めがとやかく言うことはできませんな」

「言ってくれていいのよ。でも、私がやろうとすることを止めないでほしいというだけ」

「ううむ」

 もう一度うなったきり、オトマルは黙りこくってしまった。

 奇妙な沈黙が下りた。不快なわけではないが、心地よくもない静寂。それは部屋中に染み渡り、それぞれのこころをわずかに揺らした。

 オトマルは、姫の目を見た。

 いったい裏で何をやっているというのか。けっしてノイシュタットに仇なすことをしているわけではないというのはわかるが、かといって全面的に信じ切れるほどでもない。どこかに引っかかりを覚えた。

「殿下」

「うん?」

「具体的に何をなさっておいでなのです? それをはっきりと教えてくだされば、こちらとしても安心できるのですが」

 アーデはレベッカの顔を見た。彼女は、困ったように肩をすくめている。

 しかし、姫のほうはあっけらかんとしたものだった。

「別に教えてあげてもいいんだけどね。でも、それだとオトマルはさらに良心の呵責に苛まれることになるわよ」

「……聞かないでおきます」

 強烈に嫌な予感を覚えて、オトマルはあわててそっぽを向いた。天敵から逃れようとするか小鹿のように。

「ごめんなさい、オトマル。今だけは私の好きにさせて。心配する気持ちはわかるけど、私にも私なりの信念があるの。それが合っているか間違っているかはまだわからないけど、ともかく自分なりに前へ進むことだけはやめたくない」

「――わかりました、殿下の望むようになさいませ。万が一のときは、このオトマルが身を挺してお守りしましょう」

「ありがとう、オトマル」

 お互いのすべてがわかり合えているわけではない。しかしそれでも、互いを思いやる気持ちだけは本物だった。

 オトマルには、アーデがけっしてわがままを言っているわけではないことはわかっている。

 アーデには、オトマルがこちらのことを思いやってくれているからこそ厳しく接しているのだとわかっている。

 それさえわきまえていれば、すべてを知らなくとも十分だった。

 ――アーデには、常に支えてくれる存在がいる。

 そのことは、レベッカが以前からずっと感じていることだった。

 新部族の仲間はもちろん、ノイシュタットの側でもそれは同じだ。それは恵まれたことに違いないが、けっして運だけでそうなったのではない。

 アーデには、人を惹きつける何かがある。それは人柄のためかもしれないし、彼女の偽りのない真っ直ぐな生き様のためかもしれない。

 アーデには嘘がないのだ。行動にも思想にもごまかしがない。常に自分に正直で、くだらない理由で考えを曲げるということは皆無に近かった。

 そんなアーデだからこそ、みんな無条件で彼女を信じられる。どこかに嘘のある人物を、誰もこころの底から愛することなんてできない。自分を偽ることは、同時に他人(ひと)を欺くことでもあった。

 だが、誰しもそのことをなかなか理解できない。

 ――昔の私もそうだった。

 自分の殻に閉じこもり、ずっとみずからの本当の思いに気付かない振りをしていた。それが、周りの大切な人たちのこころを傷つけることになるとも知らずに。

 本人が考えているよりも、人と人とは密接につながり合っている。それはすなわち、自身を傷つければ他者を傷つけることにつながりかねないということだ。

 水面の波紋が次々と重なり合っていくように、互いが互いに影響し合う。

 ひとりひとりの存在はけっして孤立しておらず、むしろどこかで必ず結びついている。

 その結びつきの強さを、人は〝絆〟と呼ぶのかもしれない。その絆が深まれば深まるほど、両者は別々の存在でありながらひとつとなり、自身が驚くほどのかつてない力を発揮するようになる。

 ――アーデ、私たちにはそれができる。

 新部族の仲間たちとなら、新しい時代を切り開ける。そして、いつかノイシュタットの人々とも協力関係を築ける日が訪れるかもしれない。

 すべての人々、すべての存在が本当の意味でつながり合えたら、この世界の何かが変わるのだろう。

 オトマルと無邪気に談笑するアーデの姿を見て、レベッカはまばゆいばかりの希望を胸に抱いていた。

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