序章 黒き翼
何も見えなかったあの頃。
自分は闇の中をさまよい、ただひたすらに剣を振るっていた。
その手応えに暗い喜びを覚え、己が悲鳴に耳を塞いだ。
目に見えるものも見えず、肌に感じるものも感じない。
傲慢という名の男神と甘受という名の女神が手を結び、やがて己が身を滅ぼしていく。
代償は、〝翼〟と名付けられた我が命。その喪失は、同時に故郷からの永遠の別れを意味していた。
――ヴァイク。
奴はそう名乗った。
仇、復讐の標的、究極の憎悪を生み出す源。
しかし、自分はどこかで求めていた。奴をこころの中で欲していた。
墜ちるところまで墜ちた落伍の者は、そこに光明を見た。
剣と剣とが互いを語らい、己が叫びを意志へと換える。
思いは火花と化し、救いは血の波濤のなかに消えた。
その虚しき漢どもの目を覚ましたのは、偉大にしてちっぽけな存在。
――リゼロッテ。
あの優しい光に、どれだけ救われただろう。あの気高い志に、どれだけ打たれただろう。
かつての自分は道化でしかなかった。道化でありながら道化であることに気がつかない、究極の愚者であった。
そのことを思い知るまでにあまりにも多くの時間がかかり、あまりにも多くの存在を犠牲にしてきた。
今ならわかる、それはもはや取り返しのつかないことであることを。どんなにこの罪を贖おうとも贖いきれるものではなく、失われた大切なものは永遠に帰ってこない。
しかし、それでも生きつづけよとある女は言った。たとえ償えない罪でも、償いつづけよ、と。
それは、いっそ死んでしまったほうが楽なくらいの苦難の道。だが、あの少女の気高き決断に比べれば何するものぞ。
あの時、あの瞬間、自分は確かにひとつの殻を打ち破った。
下卑た皮を脱ぎ捨て、本当の自由を得た。
翼は失ったが、新たなこころの翼を得たのだ。
それからは、見るもの、感じるものすべてが違ってきた。同じものを見、同じことを感じているのに、もはやかつてと同じではない。
――こころが変われば、ここまで世界が変わるものなのか。
世界はひとつではなかった。
みずからのこころが変われば、世界も変わる。すなわち、世界はここに生きる存在の数だけ在るというということであった。
そのことに気付くと、自然と他者を尊重できるようになった。
世界は無数にある。ということは、同じものを見ているようでも人によって違うということ。だから、その人の世界に思いを馳せる。
〝俺はこう思う、だからあいつも同じ思いのはずだ〟
そうした他者と自己の一方的な同一化こそ傲慢の種であった、無知蒙昧の源であった。
――俺は、やはり愚かだったのだな。
それを気付かせてもらえたのは幸福であった。あのまま部族に留まっていたら、永遠に自分の本当の姿を知らないままだったろう。
――あいつらは今、どうしているんだろうな。
ひとりの翼人とふたりの人間。妙な組み合わせではあるが、不思議としっくりしていた。
北へ向かうと言っていた気がする。こちらには、西のノイシュタットとかいうところへ行ったらどうかと勧めてきた。
あいにく、特に西を目指すというのでもなく、足の向くまま気の向くまま歩いてきた。
太陽と月の方角、そして昨夜見た星の位置からして、彼らと別れたところからやや西寄りには来ているようであったが。
空は、寒気がしそうなほど青い。
晩春の強い日の光を浴びて輝く雲の白さと、澄み切った空の青さの対照があまりに強烈で、まるで人間の描いた絵画のように非現実的だ。
風はほとんどなく、敏感な新芽が眠るように揺れているにすぎない。
平和だった。
生まれてこの方、これ以上ないというほどにゆったりとした生を満喫していた。
「もっとも、殺意を常にはらんだ生ではあるがな」
自嘲的に笑う。
今だからこそわかる。あの少女の決断がいかに尊く、いかに根源的なものであったか。
――翼人は、他者の命を奪わなければ生きていけない。
そこで自分たちは決定的な選択を迫られている。
――それゆえに他者を殺すか。
――それゆえに自らを捨てるか。
いや、違う。あの少女は、自らを捨ててなどいない。
他者を尊重した。それだけだ。
だが、現実は厳しい。実際の思いはどうあれ、あの少女は逝ってしまった、逝かざるをえなかった。
――俗にまみれた生か。
――高貴なる死か。
この二者択一は究極のものだ。翼人、人間に限らず、大半の者が決断することはできずに、怠惰なる生を貪っている。
――惰性にすぎない生に何の意味がある。
それは、自らへの叱咤でもあった。己は、未だ自らの進むべき道を決めきれていない。
目標は見えている。しかし、そこに至るための道程が見えない。そんな歯がゆさがあった。
――だから、俺はあっちこっち歩いているわけだ。
もう、あきらめてもいい人生だった。多くの罪を背負い、翼は失われた。
しかし、ここで立ち止まってはならぬと己がこころが叱咤する。あの少女の残影が、自らを駆り立てる。
――俺は、あの男がうらやましいのかもしれない。
ヴァイクは、何か明確な目的を持っているようだった。少なくとも、それに向かって邁進していた。
だが今の自分には、当面の目標さえない。さまよい歩くしかなく、求めるものは雲のように儚い。
とはいうものの、変化は、いつも、突然に訪れる。
日の光が一瞬遮られた。
――上からの殺意。
来たか。
彼らと別れたあとでも、いったい何度戦ってきただろう。もっとも、それによって自分は生きる糧を得ることができたのだが。
しかし、今回は勝手が違うようだった。
――速い!
こちらが剣を抜こうとしたときには、すでに目前にまで迫っている。
――黒い……翼?
目に飛び込んできた漆黒の影。後方に飛び退きながらも、目に映るそれに一瞬だけこころを奪われる。
真後ろに強烈な殺気を感じたのは、次の刹那だった。
――しまった!
敵は複数だった。正面の黒翼の男は単純なおとりで、後ろに別の男が控えていた。
防御が間に合わない。
油断があったわけではないが、あまりにも突然の襲撃に対応がすべて後手に回った。自分は、相手が罠を張っていたところへまんまと入り込んでしまったのだ。
――今度は白い翼。
それを認識した瞬間、全身に鈍い衝撃が伝わる。意識があっという間に遠のき、手に握った剣の感触が薄らいでいく。
倒れていく間、誰かの声を聞いた気がする。
不思議と、体は浮遊感に包まれていた。
あの、懐かしい感触に。