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事故物件に泊まって4日目、床下の日記に俺の名前があった

作者: 熾星
掲載日:2026/10/09



 俺の仕事は、事故物件に泊まることだ。


 幽霊を祓うわけでも、霊感があるわけでもない。不動産会社や投資家から依頼を受け、数日間そこで暮らし、夜間の騒音や臭い、設備の状態を確認して報告書を出す。


 今回の依頼主は蒼栄不動産だった。報酬は10万円。場所は海凪県(みなぎけん)霧浜市(きりはまし)にあるマンションの一室で、少し前に人が死んだばかりだという。


 担当の坂口剛から聞かされた話では、前の住人は主寝室で首を吊ったらしい。3か月ほど空室になっていたが、購入を検討している客が現れ、契約前に実際の居住状況を確かめたいと言い出したそうだ。


 3晩泊まったが、何も起きなかった。


 4日目の朝。荷物をまとめようとして、ベッドの下に1枚だけ色の違う床材があることに気づいた。


 バールを差し込み、板を持ち上げる。


 下から出てきたのは、黒い表紙の日記帳だった。


 最後のページだけ、文字がひどく乱れている。


「この調査員は人間じゃない! 毎晩、俺のベッドのそばに立って、寝ているところを見ている!」


 日付は10月14日。


 俺が1404号室へ入った日だった。


 最後の感嘆符を指でなぞると、指先が黒く染まった。


 インクが乾いていない。


 そのとき、玄関の鍵が回った。


 坂口が書類の束を抱えて入ってくる。客を相手にするときの、あの愛想のいい笑みを浮かべていた。


「相沢さん、どうでした? 3晩泊まって、別に何もなかったでしょう。前にいた人、精神的にかなり参ってたらしいんですよ。誰かに見られてるとか言って。報告書、できました?」


 日記帳をテーブルに置き、坂口の方へ押した。


「坂口さん。あなたが言ってた、ここで首を吊った前の住人」


 坂口の目が日記へ落ちる。


「この部屋では死んでないんじゃないですか?」


 口元の笑みが止まった。


 その時点では、まだ日記の方ばかり気にしていた。


 1404号室から、本来あるはずの空間が消えていることには、もう気づいていた。



1



 霧浜レジデンスは、霧浜市北部の白潮町(しらしおちょう)にある築20年ほどの高層マンションだ。俺が泊まっていた1404号室は、14階の東側にある。


 俺は相沢修司。36歳。


 以前は建築構造の設計をしていた。今は事故物件に泊まり込む調査を個人で請け負っている。


 3年前、久世都市開発に勤めていた頃、いくつかの改修工事で構造材の差し替えと耐震計算の改ざんを見つけた。社内で問題にした結果、工事は止まったが、俺の仕事もほとんどそこで止まった。


 誰かに面と向かって「業界から干す」と言われたわけじゃない。


 ただ、求人に応募しても返事が来なくなった。昔の知り合いも、会えば普通に挨拶はするが、仕事の話になると妙に歯切れが悪くなる。


 それで、自分で仕事を取るようになった。


 事故物件の調査は稼ぎがいいとは言えない。ただ、依頼主が気にするのは経歴より、数晩そこに一人で泊まれるかどうかだった。


 4日目の朝、腕時計の心拍数は62。睡眠時間は7時間23分。3晩のあいだで気になったのは、壁の奥から時々、小さな擦過音がしたことくらいだった。


 古い建物なら珍しくもない。


 昼の12時までに居住状況の報告書を提出すれば、残りの5万円が振り込まれることになっていた。


 工具バッグからレーザー距離計と水平器を取り出した。


 職業病みたいなものだ。


 普通の人間がホテルでシーツの汚れを確認するなら、俺は壁の傾きや床の沈み、建具の歪みを見る。


 ベッド脇まで来たところで、靴裏の感触が変わった。しゃがんで床を指の関節で叩くと、その一角だけ音が軽い。


 ベッド下の壁際に、周囲よりわずかに色の薄いフローリング材があった。継ぎ目も新しい。小さなバールを差し込んで持ち上げると、浅い空洞が現れた。


 中に入っていたのが、あの日記だった。


 前半は、ごく普通の生活記録だった。


 コンビニの弁当が値引きされていたこと。下の階の工事がうるさいこと。眠れなかったこと。それから、隣の部屋で何かを動かしているような音。


 後ろへ進むほど、文字は崩れていく。


「10月12日。壁の中を誰かが歩いている」


「10月13日。また音がした。寝室の壁の向こうに誰かいる」


 そして最後。


「この調査員は人間じゃない! 毎晩、俺のベッドのそばに立って、寝ているところを見ている!」


 10月14日。


 俺が入った日だ。


 文字に触れると、指先にインクがついた。


 直後、玄関の鍵が開いた。


 坂口は少し大きめの灰色のスーツを着て、ネクタイを緩めていた。片手にはコンビニのコーヒーを持っている。


「相沢さん、早いですね。どうでした? 3晩何もなかったでしょう。買主さん、結果を待ってますよ」


 日記を見せた。


「これ、何ですか?」


 坂口は一度目を落としただけだった。


「前に住んでた人のじゃないですか。後半はかなり精神的に不安定だったみたいで。警察も何度か来てますよ」


「3日前に書かれた遺品ですか?」


 黒く汚れた指先を見せる。


 坂口の表情がわずかに固まった。


「相沢さん、最近ちゃんと寝てます?」


「もう1つあります」


 レーザー距離計を起動し、主寝室の反対側へ向けた。


「入る前に竣工図を見ました。ここ、本来は3.6メートルあるはずなんです」


 赤い光点がクローゼット脇の壁に止まる。


「実測は3.05。55センチ足りません」


 坂口は黙った。


 壁際を数か所測り直す。


「1404と1405の間もおかしい。室内寸法と共用部の通り芯から計算すると、この部分だけ壁が異常に厚い」


 コーヒーがテーブルに置かれた。


「もう構造設計の仕事じゃないでしょう」


「寸法は俺の職業を知らないので」


 坂口がこちらを見た。


「10万円ですよ。3晩住んで何もなかった。そのまま書けば終わりでしょう?」


「何もなければ、そう書きます」


 会話が途切れた。


 静かな部屋で、クローゼットの奥から小さな音がした。


 俺と坂口が同時に振り向く。


 片方の扉が数センチ開いた。吊るされた服の隙間から、白い腕が1本垂れてくる。


 次いで、男の上半身がゆっくりと前へ傾いた。


 首にはナイロンロープ。


 反対側はクローゼットのハンガーパイプに固定されていた。


 坂口は椅子を倒し、そのまま部屋を飛び出した。



2



 追いかける気にはならなかった。俺の脚も、まともに走れる状態じゃなかったからだ。


 遺体にはすでに硬直が見られ、顔や首には窒息を思わせる痕跡がある。作業着のズボンには石膏や充填材が付着していた。


 ロープにも遺体にも触れず、玄関の外まで下がって警察へ通報した。


 最初に霧浜警察署の警察官が到着し、その後、海凪県警刑事部捜査第一課と鑑識が現場へ入った。


 担当は黒川慎吾警部補だった。


 地方ニュースで何度か見たことがある。40代半ばくらい。痩せていて、目の下には慢性的な寝不足みたいな影がある。


 現場でも愛想はなかった。


「相沢修司さんですね。通報したのも、遺体を見つけたのもあなたで間違いないですか」


「はい」


 身元を確認すると、黒川はすぐ鑑識へ視線を向けた。


 検視官と立ち会った医師が遺体を確認したが、その場では死亡時刻を絞りきれなかった。遺体の状態に不自然な点があり、司法解剖へ回すことになった。


 坂口も間もなく連れ戻された。


 14階まで上がってくるなり、こちらを指差す。


「刑事さん、この人です! 入ってからずっと、壁の中に人がいるとか言ってたんですよ。俺にも、壁に何か隠してるんじゃないかって――」


「続ければいいですよ」


 そう言うと、坂口は眉をひそめた。


「日記にだって、この人の指紋があるはずです!」


 鑑識の1人が部屋から出てきた。


「日記の表紙とクローゼットの取っ手から、照合に使える指紋が採れています。ロープを固定していた樹脂部品からも痕跡があります。詳しい照合はこれからです」


 黒川がこちらを見る。


「日記には触りました?」


「最後のページだけ。インクが乾いてなかったので、指で確かめました」


 黒川はメモから顔を上げた。


「クローゼットは?」


「そこは手袋をしてました」


 返事はない。


 別の警察官がバッグを確認していた。


「黒川警部補、これを」


 黒い財布だった。


 中には運転免許証が入っている。


 写真の男は、今しがたクローゼットから下ろされた遺体と同じ顔をしていた。


 中村健司。


 透明な証拠袋を見つめた。


 3日間、バッグはほとんど手元に置いていた。寝るときもベッドの横だ。


 財布が入れられた場面が思い浮かばない。


 坂口が口を挟む。


「殺した相手の財布まで持ってるんですよ。もう分かるでしょう」


 黒川は坂口を一瞥したあと、こちらへ向き直った。


「相沢さん。署まで来てもらいます」


「俺は殺してない」


「まず話を聞きます」


 手首に手錠がかかった。


 日記。遺体。財布。指紋。


 どれか1つなら偶然と言えたかもしれない。


 まとめて置かれると、最初から俺のために用意されていたようにしか見えなかった。



3



 取調室には、白い天井灯と机と椅子があるだけだった。


 黒川は向かいに座り、冷めた缶コーヒーの横へ資料を置いた。その中に日記のコピーがある。


「まず、これを見てください」


 前半の文字は整っていた。


「10月12日。壁の中を誰かが歩いている」


「10月13日。新しく来た調査員が、ずっとこちらを見ている」


 後半は別人のように崩れている。


「殺される」


「ロープはクローゼットにある」


 黒川が別の資料を開いた。


「科捜研で筆跡を見ています。書き方自体はかなり違う。ただ、止めや払いの癖が、あなたの過去の書類と似ている部分があるそうです。まだ確定ではありません」


「俺の字じゃない」


「日記にはあなたの指紋があり、中村の財布はバッグから出た」


 防犯カメラの静止画が差し出される。


「1404号室の前は、この3日間ずっと撮れていました。玄関から他人が普通に出入りした記録はない。窓に破損もなく、ベランダにも侵入の形跡は見当たりません」


 写真を見た。


「あなたは久世都市開発を辞めたあと、定職についていない。中村は現場に入っていた電気工事の作業員です。過去に接点がなかったかどうかは確認中です」


「仕事がないから、たまたま来た作業員を殺したと?」


「俺がどう思うかは関係ない」


 黒川は平然と言った。


「今ある証拠が、あなたを指している」


 聞いていた評判通りの男だった。


 目を閉じ、3日間の行動を順番に思い返す。


 初日の夜、夕食を買いに1度外へ出た。2日目の午後は40分ほど印刷のために離れている。あとはほとんど1404号室にいた。


 遺体が玄関から入ったのなら、防犯カメラに映る。


 映っていないのなら、別の経路がある。


「1404号室の竣工図と、この階全体の平面図を見せてください」


 黒川の眉間に皺が寄った。


「今はあなたが捜査する時間じゃない」


「遺体は、どこかから部屋へ入ってる」


 黒川を見る。


「図面があれば、別の経路があるかどうかは分かります」


 すぐには返事がなかった。


 20分後、机いっぱいにコピーされた竣工図が広げられた。


 1404、1405、共用廊下。


 寸法を取り直す。


 やはり合わない。


「ここです」


 2戸の間を赤ペンで囲む。


「図面より1メートル近く余計な空間がある」


「どういう意味です?」


「竣工後に改造されたか、今見ている図面と現況が違う」


 主寝室側も示した。


「1404号室の実測は図面より55センチ狭い。その分が、壁の向こうにあります」


 黒川は図面を見たまま動かなかった。


 クローゼットの遺体を思い出す。


「もう1つ、遺体も変です」


「あなたは構造屋でしょう。法医学は専門外だ」


「分かってます」


 だから、見た事実だけを言う。


「あの部屋は20度を超えてた。もし遺体が長時間あのクローゼットにあったなら、臭いも状態ももっと違っているはずです。服には結露みたいな水分も残っていた」


 黒川が顔を上げた。


「何が言いたい?」


「司法解剖を待った方がいい」


 図面を戻す。


「クローゼットに入れられる前、どこかで冷やされていた可能性があります」



4



 司法解剖の結果は、違和感を裏づけた。


 中村の組織には凍結後に解凍された痕跡があり、遺体は死亡後、一定時間かなり低い温度で保存されていた。


 黒川は再び向かいに座った。


「低温保存の件は、当たってました」


「少なくとも、1404号室の冷蔵庫に人間は入りません」


「別の場所で殺した可能性は残る」


「なら、そこを調べればいい」


 黒川が空になった缶を指先でへこませた。


 その後の鑑識でも、いくつか不自然な点が出た。


 ロープの固定部品に残った指紋は輪郭の出方が不自然で、二次転写の可能性があるという。俺と中村のあいだには、通話記録も送金も、私的な接触を示すものも見つからなかった。


 さらに、中村の生存が最後に確認されたのは、俺が1404号室へ入る前日の夜だった。


 その時間、俺は別の住宅で構造調査をしている。交通系ICカードの利用履歴、駐車場の映像、客先で記入した書類の時刻が一致した。


 検察は勾留請求をしなかった。


 翌日の午後、釈放された。


 弁護士が警察署の外で待っている。


 黒川は少し離れた自動販売機の横に立ち、また缶コーヒーを持っていた。


「相沢」


 呼ばれて足を止める。


「外に出たからって、疑いが全部消えたわけじゃない。次に手錠をかける理由を作るなよ」


「例えば?」


「現場へ戻らない。証拠に触らない。坂口にも勝手に接触しない」


「分かりました」


 その日の夜。


 霧浜レジデンスへ戻った。


 1404号室に入るつもりはない。


 14階の共用廊下に立ち、エレベーターホールから両端の防火扉まで距離を測る。


 24.5メートル。


 竣工図は25.7。


 1.2メートル足りない。


 場所はやはり、1404と1405の間だった。


 1405号室はカーテンが閉じたままで、郵便受けにも名札がない。玄関に耳を近づけると、最初は静かだった。


 2分ほどして、低い機械音が聞こえた。


 続いて、金属同士がゆっくり擦れる音。


 1405号室は、普通の住戸として使われていない。



5



 1405号室の玄関は施錠されていた。


 消防階段側の設備スペースを確認すると、1405寄りに細い金属扉がある。色あせた「設備点検」の表示が貼られていたが、竣工図には存在しない。


 床には、何度も人が通ったような擦れが残っていた。


 あの装置を維持するなら、こちらから出入りする方が自然だ。


 後付けの簡易錠を外し、扉を開ける。


 最初に現れたのは、幅60センチにも満たない設備用の空間だった。その奥が1405号室へつながっている。


 中はもう住宅と呼べる状態じゃなかった。ソファもベッドもなく、監視用モニター、油圧装置の制御盤、低周波スピーカーが並んでいる。


 1404号室で測った55センチの差は、ほぼこの固定された設備空間だった。


 さらに1404側には、もう1枚の偽装壁がある。


 油圧装置を動かしても、壁が移動するのは1度に3センチから5センチ程度。目で見てすぐ気づくほどではない。


 それでも、毎晩少しずつ床と壁の距離や反響が変われば、室内にいる人間は理由の分からない違和感を覚える。


 低周波スピーカーと振動装置まで組み込まれていた。


 壁の中を歩くような音。夜中のノック。家具の近くで鳴る擦過音。


 全部、ここから作れる。


 換気口やコンセントのプレートには、小型のピンホールカメラが仕込まれていた。


 モニターには、1404号室のベッドが映っている。


 あの日記に書かれていた「誰かに見られている」という感覚だけは、作り話じゃなかった。


 部屋の奥へ進む。


 大型の冷凍ストッカーが1台置かれ、今も電源が入っていた。


 蓋を上げると、冷気が顔に当たる。


 中は空だったが、壁面には厚い霜が残っている。


 中村の遺体がここに入っていた可能性は高い。


 底に、凍りついた紙が1枚挟まっていた。


 取り出して広げる。


「対象:相沢修司」


 名前の下に、短い文字が続いていた。


「予定どおり次へ」


 紙を見つめた。


 俺が事故物件の仕事を受ける前から、向こうは対象を決めていた。


 定職がない。前の会社と揉めている。人間関係も広くない。


 事件を押しつけるには都合がいい。


 外で電子錠を押す音がした。


 紙を握り込む。


 足音がすぐそこまで来ていた。



6



 扉が開き、坂口が入ってきた。


 後ろには作業用ベストを着た男が2人。どちらも鉄パイプを持っている。


 坂口は俺を見ても驚かなかった。


「相沢さんなら、また来ると思ってました」


 油圧制御盤の近くまで下がる。


「ずっと見張ってたのか」


「技術屋って面倒なんですよ。2センチ違うだけで調べる。まして部屋が半メートルも減ってたら、放っておかないでしょう」


 偽装壁を軽く叩く。


「どうです? よくできてるでしょう」


「前の住人も、これで追い出した?」


「最初は立ち退きに応じてもらうだけのつもりでした」


 坂口が笑った。


「この一帯は再開発の話が進んでた。でも、あの人だけ売らなかった。夜中に音がする。壁が変わる。誰かに見られてる気がする。何か月も続けば、大抵の人間は参ります」


「今どこにいる?」


「連れて行ったときは生きてましたよ」


 それ以上は答える気がないらしい。


「中村は?」


 坂口の笑みが消えた。


「あいつは、この部屋に入るべきじゃなかった」


 中村は電気工事のために1405号室へ入り、装置を見つけた。図面の一部までコピーし、それを材料に坂口へ金を要求した。


 坂口は1度、支払いに応じた。


 それでも中村は警察へ行くと言った。


「だから殺した」


「そこまで行ったら、誰かが片づけないと」


 修繕費の話でもしているような口調だった。


 坂口は少し笑う。


「そこへ、あなたが来た。久世さんに嫌われてる人間なら、なおさら都合がいい」


「日記を書いたのは誰だ?」


「あなたの字をよく知ってる人ですよ」


 頭の中に、1人だけ顔が浮かんだ。


 坂口は名前を聞かせてくれなかった。


 背後の2人へ顎をしゃくる。


「もういい。14階から落ちれば、あとは事故で処理されるでしょう」


 2人が動いた。


 正面から殴り合うつもりはない。


 背中のすぐ後ろには油圧装置の制御盤がある。


 非常停止ボタンの保護カバーを叩き割り、赤いボタンを押し込んだ。


 警報が鳴る。


 可動壁が緊急停止し、制御盤の警告灯が一斉に点滅した。


「押さえろ!」


 鉄パイプが飛んでくる。


 身体をかわすと、パイプは制御盤へ当たり、傷んだ配線から火花が散った。


 もう1人が横から回り込む。


 足元にあった太い銅線ケーブルを拾い、脚へ向けて振る。男は体勢を崩し、工具棚にぶつかった。


 立て直される前に、施工用の粉末パテの袋を破った。


 白い粉塵が部屋に広がる。


 視界が消えた隙に、壁を伝って点検通路へ飛び込み、消防階段へ出た。


 廊下の手動火災報知器を押す。


 館内に警報が響き、避難放送が流れ始めた。


 周辺の住戸から人が出てくる。


 坂口たちは追ってこなかった。


 設備階まで駆け上がり、防火扉を閉めてからスマートフォンを取り出す。


 画面は蜘蛛の巣みたいに割れていた。


 それでも動く。


 黒川へ電話をかけようとして、指が止まった。


 俺の名前が書かれた紙だけでは、坂口を追い詰めるには弱い。


 さっき、あいつは言った。


 俺の字をよく知る人間。


 心当たりは1人しかない。


 森田だ。


 森田明人は、久世都市開発にいた頃、4年間俺の下についていた。新人時代の構造計算書は、ほとんど俺が1枚ずつ直している。


 俺が会社のデータ改ざんを告発したあと、森田とは連絡が切れた。


 しばらくして、蒼栄不動産で改修案件を担当していると聞いた。


 坂口の会社だった。



7



 森田本人には連絡しなかった。


 今どちら側にいるのか分からない。下手に動けば、坂口に勘づかれるだけだ。


 その夜、蒼栄不動産の霧浜営業本部へ向かった。


 古い商店街の一角にある8階建てのビルだ。22時を過ぎると、ほとんどの窓が暗くなったが、坂口の部屋だけは明かりが残っていた。


 裏路地で1時間ほど待つ。


 22時40分。


 坂口が従業員用の出入口から出てきた。黒いレクサスに乗り込み、霧浜レジデンスの方角へ走っていく。


 残された時間は多くなさそうだった。


 裏口は閉まっていたが、1階倉庫の設備窓は後付けらしく、固定が甘い。


 枠の緩んだ部分を外して中へ入った。


 坂口の部屋は煙草臭かった。


 引き出し、書棚、キャビネット。


 普通の契約書は大量にある。


 欲しいものはない。


 壁際に古い業務用金庫があった。


 鍵を開ける技術はない。


 ただ、この金庫は据え付けがひどかった。背面はアンカーボルトが2本だけ。右側の蝶番付近には、壁の不陸をごまかすための金属板まで挟んである。


 鍵には触れず、弱い取り付け部分から崩した。


 15分ほどで扉が外れた。


 中には現金と、2つの書類袋がある。


 1つ目は、1404号室と1405号室の改修資料だった。


 蒼栄不動産はマンションの管理組合へ、防音工事と設備工事の申請を出している。ただし、理事長名義の承認書は偽造だった。


 添付図面には、設備用の空間と可動壁の概略まで残っている。


 2つ目は、中村健司名義の団体傷害保険の書類だった。


 死亡保険金は5,000万円。


 受取人は、蒼栄不動産の傘下にある施工会社。


 中村本人の加入同意書にも、署名を偽造した形跡がある。


 さらに下に、数枚の手書き書類があった。


 1行目を見ただけで分かった。


 森田の字だ。


 坂口宛てに書かされた念書だった。


 俺の筆跡を長期間練習し、日記を偽造したこと。使ったコップや工具から指紋を採取し、フィルムで別の物へ移したことまで記されている。


 中村の財布を俺のバッグへ入れたのも、坂口たちだった。


 森田が自分からこんな紙を残すとは思えない。


 坂口が弱みを握るために書かせたのだろう。


 そのとき、部屋の照明がついた。


「動くな」


 振り返る。


 入口に黒川が立っていた。


 拳銃をこちらへ向けている。


「相沢。手に持ってるものを置け」



8



 書類をゆっくり机に戻した。


「黒川さん、どうしてここに?」


「こっちは令状を取って来てる。お前は何してるんだ」


 黒川の視線が、壊れた金庫へ移る。


「外に出したとき、何て言った?」


「勝手に関係者を調べるな」


「覚えてるじゃないか」


 後ろから捜査員が次々と入ってきた。


 1405号室で火災報知器が作動したあと、駆けつけた消防が不自然な設備通路を見つけ、警察へ連絡したらしい。


「あの警報のおかげで通路が見つかった。こっちはその後すぐ令状を取った」


 黒川たちは、俺が話していた寸法のずれもすでに洗っていたようだ。


 手袋をはめ、机の書類を確認する。


 保険関係の資料を見たところで目が変わった。


 森田の念書まで読み終えると、ようやく拳銃を下ろした。


「これがここにあるって、どうして分かった?」


「分かってません。坂口なら、自分用の材料をどこかに残すと思っただけです」


 黒川は壊れた金庫を見た。


「なかったら?」


「不法侵入だけ残りますね」


「よく分かってるな」


 捜査員が書類を証拠袋へ収めていく。


 黒川たちは半年前から坂口と蒼栄不動産を追っていた。異常に安く買い取られた事故物件が何件もあり、その多くに坂口が関わっていたという。


「そこまで疑ってたのに、俺は捕まえたんですね」


「1404号室の証拠は、あの時点じゃ全部お前を指してた」


 黒川の声は淡々としている。


「坂口を疑ってることと、お前が中村を殺してないか確認することは別だ」


 反論はできなかった。


 証拠袋を部下へ渡し、黒川が出口へ向かう。


「行くぞ。霧浜レジデンスでも動いてる」


「1405?」


「そっちは鑑識が入ってる」


 スマートフォンの画面を確認する。


「地下2階にも妙な壁がある。3か月前に補強工事が申請されてて、担当したのは中村だ。工事が終わってすぐ、本人が行方不明になった」


「壁の中に何かある?」


「開ければ分かる」



9



 警察車両で霧浜レジデンスの地下駐車場へ入る。


 坂口の黒いレクサスが地下2階に停まっていた。


 数人の男が、新しい補強壁の前で作業している。1人は工具箱を運び、別の1人は充電式ドリルを持っていた。


 黒川が車を降りた。


「海凪県警! その場で止まれ! 手を見える位置に出せ!」


 反対側から応援の警察官も入る。


 逃げようとした男たちは、すぐに取り押さえられた。


 坂口は壁際で立ち尽くしていた。床には、外された化粧板と工具が転がっている。


 黒川が壁へ近づいた。


「中を確認しろ」


 見た目は新しいコンクリート補強壁だったが、実際には表面をコンクリート調に仕上げただけだった。


 内部には点検用の空間があり、隠し扉まで設けられている。


 外装を外すと、黒い防水ケースが出てきた。


 中に入っていたのは、複数のハードディスクと小型のストレージサーバーだった。


 それを見た坂口から力が抜けた。


 その夜、県警の解析担当がデータの復旧に入った。


 中身は予想以上だった。


 坂口は、関係者の弱みを握るために犯行の記録を残していた。


 違法改修に参加した人間。金を受け取った人間。誰をどこへ運んだか。


 ほとんど全部、映像や資料で残っている。


 1404号室に関係する最初の映像には、長く行方不明になっていた元住人が映っていた。


 彼は1404号室で死んでいなかった。


 坂口たちは可動壁、低周波音、監視装置を使い、何か月もかけて住人を追い込んでいた。


 精神的に参っても、本人は安値での売却に応じなかった。


 最後には薬で意識を失わせ、引っ越し業者が使う大型の搬送箱へ入れ、地下駐車場から運び出している。


 車が向かったのは、霧浜市郊外にある無届けの民間施設だった。表向きは療養施設を名乗っている。


 映像の時点では、まだ生きていた。


 坂口が俺に話した「1404号室で前の住人が首を吊った」という話自体が、事故物件に仕立てるための作り話だった。


 その次に出てきたのが中村だ。


 1405号室の設備を見つけ、内部資料をコピーし、それを使って坂口から金を取ろうとした。


 坂口は支払いに応じるふりをした。


 中村が現金を確認している後ろから、ナイロンロープを首にかける。


 1405号室の隠しカメラが、その一部始終を記録していた。


 遺体はそのまま大型の冷凍ストッカーへ入れられた。


 さらに映像は続く。


 森田が机に向かい、俺の筆跡を何度も真似していた。失敗した紙が足元へ積み上がっている。


 別の映像では、俺がシャワーを浴びているあいだに、設備通路から人間が1404号室へ入ってきた。


 中村の財布をバッグへ入れる。


 日記やクローゼット周辺に、用意しておいた俺の指紋を移していく。


 モニターを見つめた。


 1404号室が密室に見えたのは、誰も壁が開くとは考えなかったからだ。



10



 映像はさらに続いた。


 坂口の事務所で撮影されたものがある。


 誰かと電話していた。


「社長、相沢が受けました。予定どおり進めます。1404も、このままなら相場の3割まで落とせます」


 少し間があった。


 電話の向こうから男の声がする。


「今度は証拠を残すな」


 すぐに分かった。


 久世だ。


 久世征一。久世都市開発の社長で、俺の元上司。


 3年前、俺が告発した耐震データの改ざんも、最終的には久世の判断で進められていた。


 黒川がこちらを見る。


「知ってるのか」


「元上司です」


 久世なら、俺が今どういう状況かも知っている。


 坂口たちが俺を選んだ理由も、それでつながった。


 押収された内部資料とハードディスクのデータから、過去数年の取引が次々と浮かび上がった。


 久世都市開発は、老朽化した建物や再開発予定地、売れ残った物件を多く抱えていた。


 安値での売却や立ち退きに応じない住人がいると、蒼栄不動産のような関連会社が動く。


 違法改修、夜間の騒音、監視、事故物件の噂。


 値が落ちたところで関連会社が買い取り、改修して名義を変え、告知すべき事実まで伏せて転売していた。


 中村のような臨時作業員については、本人の同意書まで偽造し、死亡時に会社側へ保険金が入る契約が組まれていた。


 ハードディスクには、中村以前の関係者についても記録が残っている。


 脅された人間。


 違法に拘束された人間。


 問題を知ったあと、そのまま連絡が途絶えた人間。


 そして俺。


 久世は、俺が昔の構造データ改ざんをまだ調べていることを知っていた。


 中村の死を俺に被せれば、死体を処理できる。そのうえ、昔から邪魔だった人間も消せる。


 黒川が電話を取った。


「久世都市開発と蒼栄不動産、関係者の逮捕状を請求する。両方同時に動け」


 その夜、海凪県警は一斉に捜索へ入った。


 坂口は映像と書類を突きつけられると、やがて供述を始めた。


 久世征一も逮捕された。


 違法な不動産取引、殺人、証拠偽造、保険金詐欺に関わった人間が次々と捜査対象になった。


 森田も県警へ連れて行かれた。



11



 森田を見たのは、追加の事情聴取で県警へ行った日だった。


 廊下の向こうを、2人の捜査員に挟まれて歩いていた。


 以前よりかなり痩せている。


 顔は上がらず、両手だけが落ち着きなく動いていた。


 その後、報道や弁護士を通じて事情を知った。


 久世都市開発を辞めたあと、森田は多額の借金を抱えていた。坂口がその一部を処理し、蒼栄不動産へ入れたらしい。


 最初にやらされたのは、俺の筆跡を真似ることだった。


 そのうち、指紋の転写や監視装置、偽造書類にも関わるようになった。


 関わる犯罪が増えるほど、坂口に握られるものも増えていった。


 森田の自宅からは、俺の字を練習した大量の紙と、指紋を移すために使った材料も見つかった。


 俺と中村の死を結びつけていた証拠は、そこで完全に崩れた。


 警察署を出る頃には、空が白み始めていた。


 黒川が入口の手すりにもたれ、缶コーヒーを2本持っている。


 1本をこちらへ投げた。


「俺、あまりコーヒー飲まないんですけど」


「じゃあ手でも温めろ」


 受け取った缶はまだ熱い。


 黒川が外を見たまま言う。


「あんたが部屋の寸法に気づかなかったら、こっちもまだ遠回りしてた」


「黒川さんが図面を見せてくれなかったら、俺も取調室から出られなかったでしょうね」


 黒川はそこで、手元の缶を指した。


「だからって、蒼栄の事務所に不法侵入した件が消えるわけじゃないぞ」


「今から捕まえます?」


「次は先に電話しろって言ってる」


 プルタブを開ける。


「警察の仕事を取るつもりはないです」


「で、これからどうする」


「事故物件の調査を続けます」


 黒川がこちらを向いた。


「まだやるのか?」


「普通の部屋は、あまり調べることがないので」


 小さく笑う声がした。


 1405号室と蒼栄不動産へ無断で入った件については、その後も何度か事情を聞かれた。壊した設備や金庫のことも含め、弁護士からは相当きつく叱られた。


 それでも、その朝はそこで話が終わった。


 霧浜市のビルの隙間から朝日が差している。


 飲むつもりのなかった缶コーヒーを持ったまま、警察署の階段を下りた。



12



 1か月後。


 坂口剛、久世征一をはじめ、複数の関係者が起訴された。


 森田にも罪は残った。捜査に協力したことがどこまで考慮されるのかは、裁判所が決めることだった。


 1404号室から連れ出され、そのまま行方不明になっていた元住人も発見された。


 生きていた。


 長期間の拘束に加え、1404号室で受けた心理的な圧迫の影響も大きく、今も治療を続けているらしい。


 海凪県警からは、事件解決への協力ということで感謝状が届いた。


 飾る気にはならなかったので、机の引き出しに入れた。


 霧浜レジデンスの1404号室は、まだ事件後の処理と修復工事の途中だった。


 最後に1度だけ戻った。


 置いたままになっていた荷物を取りに行くためだ。


 クローゼットは撤去され、床下の空間も塞がれていた。1404号室と1405号室の間にあった違法設備も取り外され、壁と設備スペースは本来の状態へ戻す工事が進んでいる。


 油圧装置の音もしないし、壁の奥から足音も聞こえない。


 窓から陽が入ると、築年数相応に少し古びた、ごく普通のマンションの一室に見えた。


 バッグから、提出できないまま残っていた調査報告書を取り出した。


 元の買主はとっくに撤退している。


 蒼栄不動産がこれを受け取ることもない。


 書く意味はない。


 ただ、途中で放り出すのが嫌いだった。


 最後の欄を埋める。


「夜間騒音:低。違法設備撤去後、異常なし」


「採光:良好。遮光カーテンは交換推奨」


「建物・設備:違法改修部は撤去済み。使用再開前に構造および設備の再確認が必要」


「超常現象:確認できず」


 総合所見。


「刑事事件に関する調査および修復工事が完了するまで、居住は推奨しない」


 署名を入れ、報告書を窓際へ置いた。


 マンションを出ると、新しく入った管理人が宅配便を整理していた。


「相沢さん、荷物はもう全部?」


「だいたい」


「もう来ることもないですかね」


 エレベーターの方を振り返った。


「その方がいいですね」


 外へ出ると、スマートフォンが震えた。


 新しい依頼だった。


【所在地:霧浜市西部・閉鎖中のビジネスホテル】


【調査期間:7泊】


【報酬:30万円】


【備考:毎晩午前0時頃、無人の3階宴会場から女性の歌声が聞こえる】


 歩道の端で、資料を数ページめくる。


 古いホテルなら換気ダクトもある。金属製の外装も、使われなくなった音響設備もある。


 夜になれば、どれも人の声に聞こえるくらい妙な音を出す。


 「受諾」を押した。


【依頼を受け付けました】


 霧浜の商店街に、夜の明かりが1つずつ灯っていく。


 スマートフォンをポケットへ入れ、レーザー距離計と水平器の入ったバッグを背負った。


 駅へ向かって歩き出す。


 バッグの中で、距離計と水平器が小さくぶつかった。


 幽霊がいるかどうかは、今も分からない。


 ただ、図面と寸法が合わないなら、調べればいい。


 俺には、その方が性に合っている。





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