ふぇ…①
サルバートの定食屋を後にした一行は祝杯をあげるお店を探していた。
「どこのお店もいっぱいだね!いい匂いもするし、お腹空いてきちゃった!」
「そうだな。とりあえずあまり待たなくていいところに入ろうか」
シロミは、前を歩く剣一と真白に聞こえないよう、いたずらっぽく声を潜めてアリスの耳元で囁いた。
「……アリス。あなた絶対に飲み過ぎちゃダメよぉ。今のあなたが酔うと剣一を食べちゃうかもしれないわぁ」
その言葉が投げかけられた瞬間、アリスの足がピタリと止まった。
「なっ……! たたた、食べないからっ!!」
アリスは沸騰したかのように顔を真っ赤にし、両手で自分の頬を抑えた。通りすがりの通行人が「なんだ?」と振り返るほどの声量だったが、今の彼女にはそれを気にする余裕さえない。
(……食べちゃうって、何!? 意味わかんないし、あたしがそんな……いや、でも……!)
脳裏をよぎるのは、昨夜のよしよしの感触や、先ほど背負われていた時の剣一の匂いだ。もしお酒の勢いで、自分でも制御できない熱が溢れ出したらどうなるのか。想像しただけで、心臓の鼓動が耳元までうるさく響いてくる。
一方、数歩前を歩いていた剣一は、突然背後で上がったアリスの叫び声に驚き、怪訝そうな顔で振り返った。
「……? どうしたんだ、アリス。急に大声を出して」
「ひゃいっ!? ……な、なんでもないっ! ただの独り言っ! ほら、早く行って!」
アリスは動揺を隠すように腕を振り回して、剣一を先へと促した。剣一は「……そうか?」と首を傾げながらも、再び歩き出す。
「……あそこのテラス席なら空いてるぞ。あそこにしよう」
剣一が指差した先には、賑やかな笑い声が漏れる開放的なテラス席があった。
「わぁ、あそこだねっ! お兄ちゃん、早く行こっ! お腹ペコペコだよっ!」
真白が剣一の手を引いて駆け出す。アリスは逃げるように歩き出した剣一の背中を、地団駄を踏みながら追いかけた。
賑やかな喧騒の中、四人はようやく見つけたテラス席に腰を下ろした。運ばれてきた冷えた飲み物と、香ばしく焼ける肉の匂いが鼻腔をくすぐる。
「さあ、それじゃあ……サルバートとの契約成立に。……乾杯だ」
剣一がグラスを掲げると、四人のグラスがカチンと小気味よい音を立てた。
祝杯の宴が始まる。だが、アリスはシロミの「食べちゃう」という言葉を意識するあまり、最初の一口を飲むのにも妙な緊張感を抱き、チラチラと剣一の様子を伺っていた。
「とりあえず、サルバートとも契約できたな。あとは天空に備え、ひたすら訓練だな」
運ばれてきた料理の湯気に包まれながら、真白が少し悔しそうに自分の掌を見つめる。
「私もまだまだ頑張らないとダメだね……このままじゃすぐに倒れちゃうし……。サルバートさんに魔力を与えるだけで、あんなに力が抜けていくなんて思わなかった……」
真白の殊勝な言葉に、剣一は表情を和らげ、彼女の小皿に肉を多めに取り分けた。
「……焦ることはない。サルバートほどの魔力消費に耐えられただけでも、十分な成果だ。今はしっかり食って、体力を戻せ」
「うんっ、お兄ちゃん! もぐもぐ……おいしいっ!」
真白が頬を膨らませて食べる様子を、剣一は満足げに見守る。
そんな温かい兄妹のやり取りの傍らで、アリスは一人、グラスの中の琥珀色の液体をじっと見守っていた。
(……天空、訓練、ひたすら……。剣一は、いつも通りよね……)
チラリ、と隣に座る剣一の横顔を盗み見る。
修行を経て、以前よりも少し引き締まった顎のライン。真白を見つめる時の、不器用ながらも深い慈愛に満ちた瞳。そして、先ほど自分を背負ってくれた、あの逞しい肩。
シロミの「食べちゃう」という言葉が、まるで呪文のようにアリスの脳内でリフレインする。
(……食べちゃうって、別に……物理的に噛み付くわけじゃないよね? ……いや、それともあたし、無意識にそういう……えっちなこと……とか……っ!?)
そこまで考えて、アリスは一気に顔を沸騰させた。
動揺を隠すように、手元のグラスを煽る。
「ぷはぁっ!! ……っ、訓練、うん! 訓練訓練! あたしも負けないから! 次の訓練では、剣一のその……分厚い胸板……じゃなくて、鼻柱をへし折ってやるからねっ!」
「……? なぜそこで言い直したんだ。それに、俺の胸板がどうした」
剣一が不思議そうに眉をひそめてアリスを直視する。至近距離で見つめられたアリスは、飲んだばかりの液体が変なところに入りそうになり、激しくむせた。
「ゲホッ、ゴホッ! ……な、なんでもないっ! 早く食べてよ、この修行バカ!」
そんな二人の様子を、シロミはワイングラスを優雅に揺らしながら、最高に愉悦に満ちた目で見つめていた。
「あらあら、アリスちゃん。そんなに勢いよく飲んだら、すぐにお腹が空いてきちゃうわよぉ?」
「だ、大丈夫だから!いつもと何も変わらないしっ!」
アリスは必死に顔の熱さを誤魔化そうと、グラスを置いてテーブルの上の肉料理に箸を伸ばした。しかし、手元がわずかに震え、せっかく摘んだ肉を落としそうになる。
「……アリス、無理をすると喉に詰まらせるぞ」
剣一は呆れたような、しかしどこか心配そうな眼差しをアリスに向けた。その真っ直ぐな視線が、アリスには以前よりもずっと重く感じられる。
(……なんでそんなに見るの……っ! ……さっきまであんなに優しく背負ってくれたくせに、今さらそんな他人行儀な顔しないで……っ!)
心の中で毒づきながらも、アリスは剣一の顔を直視できない。シロミの「食べちゃう」という言葉が、毒のようにアリスの理性を侵食し始めていた。視界の端で、剣一がナイフを使って肉を小さく切り分けている。その指先の動きすら、今の彼女には妙に艶かしく見えてしまう。
「あ、そうだ! 真白ちゃんももっと食べてっ! ほら、これ美味しいからっ!」
アリスは逃げるように、自分の皿の肉を真白の皿へと移した。
しかし、その拍子にアリスの指が、隣に座る剣一の手に軽く触れてしまう。
「っ……!」
剣一がナイフを止めた。アリスもまた、触れた場所が熱を帯びるのを感じて固まった。
二人の間に、テラス席の賑わいからは切り離されたような、妙な静寂が落ちる。
「……手、冷たいぞ。そんなに飲んでるのに、体は冷えてるのか?」
剣一が何気なくそう呟き、アリスの指先に自分の温かな手を重ねた。
アリスの思考が、真っ白に染まる。
(今……剣一が……っ!?)
「あらあら……お兄様もずいぶん大胆ねぇ。真白ちゃんの前でそんなことしちゃって、お姉さんはどう見ればいいのかしらぁ?」
シロミのからかいが追い打ちをかける。アリスは顔を真っ赤にしたまま、掴まれた手を引き抜き、茹で上がったタコのようになって固まっていた。
「……あっ!……ま、真白は……赤ちゃん……好き?」
突拍子もないアリスの質問に、賑やかなテラス席の空気が一瞬で凍りついた。
肉を頬張ろうとしていた真白は、箸を止めて目を丸くし、剣一は飲もうとしていたグラスを口元で静止させたまま固まっている。
「……はえ? あ、赤ちゃん……ですか?」
真白がポカンと口を開けて聞き返すと、アリスは自分の口から飛び出した言葉の破壊力に、今さらながら気づいて全身から湯気を吹いた。
(ち、ちがうっ! なんであたし、こんな……! シロミが食べちゃうなんて変なこと言うから、連想ゲームがとんでもない方向に飛んじゃったじゃんっ!!)
「……アリス、お前、いきなり何を言っているんだ?」
剣一が至極真っ当な、けれど困惑を隠しきれない声で問いかける。引き抜いたはずの指先には、まだ彼の熱い体温がこびりついているようで、心臓の鼓動が耳元まで響いてくる。
「ち、違う!違うのっ! ただの世間話! ほら、将来のこととか、真白も女の子だし、そういうの興味あるかなって……あーっ、もうっ!!」
アリスは耐えきれず、残っていた飲み物を一気に煽った。
「あらあら……アリス。それはもう食べちゃうどころか、その先まで予習済みってことかしらぁ? 気が早すぎてお姉さん、びっくりしちゃったわ」
シロミがクスクスと袖で口元を隠し、愉悦に満ちた追い打ちをかける。
「お兄様? 責任、取らなきゃいけないわねぇ。アリスの将来設計には、もうお兄様が組み込まれているみたいよ?」
「シロミ、頼むから黙っていろ。……アリス、お前、酔いすぎだ。少し水を飲め」
剣一は顔を赤く染めながらも、甲斐甲斐しくアリスのコップに水を注ぐ。だが、その手元はわずかに狂い、テーブルに数滴こぼれてしまった。彼自身、アリスの言葉を単なる酔っ払いの迷言として片付けられないほどに動揺していた。
「……あたし、もう知らないっ! 食べるから! 食べるからねっ!」
アリスはヤケクソ気味に肉を口に放り込んだ。シロミの食べちゃうが別の意味で現実になりそうな、危うい祝杯の夜が更けていく。




