イチャコラッシュ
昨夜の惨劇が嘘のように、森には穏やかな朝日が差し込み、小鳥のさえずりが響いていた。
全身の筋肉痛と魔力欠乏によるダルさを引きずりながら、テントから這い出してきた三人を待ち受けていたのは、魔具で持ってきていた、鼻をくすぐる香ばしいバターの匂いと、何食わぬ顔でフライパンを振るシロミの姿だった。
「みんな、おはよう。オムライス出来てるわよ。ちゃんとケチャップでメッセージ書いたから見てくれるかしら」
シロミが極上の微笑みと共に差し出した三つの皿。そこには、黄金色の卵の上に真っ赤なケチャップで、彼女なりの「愛」が綴られていた。
『私の真白ちゃん♡』
「あ、ありがとうございます、シロミさん……。なんだか、愛が重い気がしますけど……嬉しいですっ!」
真白は苦笑しつつも、シロミの変わらぬ様子に、昨夜の恐怖が少しだけ和らぐのを感じていた。
『剣一♡アリス』
「なっ、ななな……何これぇぇぇ!!!」
アリスの絶叫がこだまする。皿の上には、昨夜の抱っこ合流を祝福するかのような巨大なハートマークと二人の名前。
「あら、アリスちゃん。あんなに熱烈に抱き合って帰ってきたんですもの、もう隠さなくていいのよぉ?」
「抱き合ってない! 運ばれてただけ! そもそも、こんなメッセージ書くなんて……バカっ!!」
『ハレンチ』
「………………。」
一方、剣一は己の皿に刻まれた四文字を無言で見つめていた。昨夜、アリスの口元を指で拭ったことへの報いか、はたまた妹の前での失態への制裁か。
「どうしたの、剣一? あなたにはその称号が一番お似合いだと思って。……さあ、冷めないうちに召し上がれ?」
「……食べるぞ。身体を治すのが先だ」
剣一は感情を抹殺したような無表情で、自分を断罪する四文字をスプーンで無慈悲に崩し、口に運んだ。
「……美味いな」
「……でしょう? 隠し味に、可愛い真白ちゃんのお兄ちゃんということで、愛情をたっぷり込めておいたわぁ」
シロミはクスクスと笑いながら、自分の分のコーヒーを口にする。
アリスは真っ赤な顔で『剣一♡アリス』の文字をぐちゃぐちゃにかき混ぜながら、ヤケクソ気味にオムライスを頬張った。
三人は空腹に任せて食事を平らげていく。しかし、誰の頭の中にも、昨夜の生気のない白い刺客の不気味な感触が消えずに残っていた。
「……シロミ。あいつらについて、何か分かったことはあるか」
剣一が皿を置き、静かに切り出した。
「……いいえ。ただ人間ではないということは確かね」
シロミが淡々と答えると、アリスもフォークを置いて同意するように頷いた。
「あたしもそれは感じた。ただ、本気でやりすぎちゃって……あいつ、消し炭になっちゃったから」
「私も感じました! でも、不気味なくらい澄んだ魔力は持っていたみたいなんです……。まるで、誰かに注ぎ込まれたエネルギーで動いているみたいに」
真白の言葉に、剣一は腕を組み、わずかに眉間に皺を寄せた。
「詳しいことは分からない……か。敵の目的も正体も不明な以上、これ以上ここで立ち止まるのは危険だな。とりあえず、用心して家まで帰ろう。訓練中も、移動中も、できる限り単独行動は避けて一緒に行動するようにしよう」
剣一の護衛としての冷静な判断に、シロミが「あら、名案ねぇ」と、いたずらっぽく唇の端を吊り上げた。
「そうね。私は真白ちゃんと一緒にいるようにするから、アリスは剣一とイチャコラするようにした方がいいわね……。背中を覆うように、ひと時も離れずに。……ねぇ、破廉恥一線さん?」
「……っ!イチャコラなんてしないからっ! 護衛! あくまで護衛の一環でしょ!!」
アリスが顔を真っ赤にして叫ぶが、剣一は相変わらずの石像のような無表情で頷いた。
「ああ。アリス、遅れるなよ。俺の近くから離れるな」
「……っ、そんな真っ直ぐ言わなくても 分かってるからっ!」
アリスはヤケクソ気味に立ち上がり、荷物をまとめ始めた。
シロミのからかいによって少しだけ和らいだものの、四人の間には、見えない「何者か」に狙われているという静かな緊張感が、霧のように漂い続けていた。
「さあ、出発しましょうか。……家まではまだ距離があるわ。真白ちゃん、私の隣にいなさいね?」
「はいっ、シロミさん!」
シロミは真白の手を引き、優雅に歩き出す。
その背後で、少しでも距離を取ろうとするアリスに近づいていく剣一の姿があった。
一週間の間、剣一は「護衛」という名目のもと、少しでも距離を取ろうとするアリスとの間詰めを徹底していた。アリスが恥ずかしさのあまり一歩遠ざかれば、剣一は無言で二歩近づく。その石像のような執念に、アリスは結局家に着くまで、彼の体温を感じるほどの至近距離で歩き続ける羽目になった。
そしてようやく辿り着いた、住み慣れた家。玄関をくぐり、四人は大きく息を吐き出した。
「とりあえず、無事に辿り着いたな。アリス、シロミ。しばらくここに泊まっていくといい。離れていると、何かあってからでは手遅れになるかもしれないしな」
剣一が防衛的な観点から至極真っ当に、かつ淡々と提案する。しかし、その言葉の裏にある「一緒にいてほしい」という勝手に脳内変換された響きに、アリスの心臓は再び跳ね上がった。
「そ、そんな……。急に泊まれって言われても、あたしにも心の準備とか、その……」
「あらあら、そんな……悪いわねぇ」
アリスが言い淀むのを遮るように、シロミがこれ以上ないほど艶やかな笑みを浮かべた。
「真白ちゃんのことは私に任せて。きちんとイチャコラ……護衛するから安心していいわよ。アリスはあまり大きな声出さないようにね? 真白ちゃんに悪影響が及ぶかもしれないし」
「だ、誰がそんな声出すかっての!! 風評被害もいいとこなんだからっ!」
アリスが顔を真っ赤にして反論するが、シロミは「あら、元気ねぇ」と楽しげに笑うだけだった。彼女はそのまま、まだ状況がよく掴めていない真白の背中を押し、寝室へと消えていった。
パタン、と扉が閉まる。
リビングに残されたのは、バチバチとはぜる暖炉の音と、不自然なほどの静寂。
「……アリス」
「ひゃいっ!!」
剣一に名前を呼ばれただけで、アリスは跳ね上がるように返事をしてしまった。
「……何を驚いているんだ。とりあえず、座れ。少し温かいものでも淹れる」
剣一はそう言うと、手慣れた手つきでケトルに火をかけ、二つ分のマグカップを用意し始めた。そのあまりに日常的な、そして「二人きり」を当然のように受け入れている姿に、アリスは毒気を抜かれたようにソファの端へ腰を下ろした。
「……あたしたち、狙われてるんだよね。……あいつらに」
アリスは膝を抱え、暖炉の火を見つめながら呟いた。
「ああ。家に戻れば少しは状況が掴めるかと思ったが、まだ霧の中だ。……だが、俺が守る。お前も、真白も、シロミもな」
剣一は、淹れたてのハーブティーが入ったマグカップをアリスの前に置いた。そして、あえて少し距離を詰めて隣に座る。
「……なっ、近いよ……」
「護衛だ。シロミも言っていただろう」
真面目な顔で、シロミの護衛理論を盾にする剣一。アリスは「あの女の言葉を真に受けるな!」と言いかけて、結局飲み込んだ。剣一の手が、そっとアリスの頭に乗せられる。
「アリス、お前がいなければ……あの時の敵を一人で相手にするのは厳しかった。感謝している、ありがとう」
「……っ、そんなの、お互い様でしょ……」
アリスは顔を伏せ、熱いハーブティーを一口すすった。ケチャップの文字やシロミの言葉を思い出して、心臓がうるさく鳴っている。シロミに言われた通り大きな声を出さないように、彼女はただ、剣一の体温を隣に感じながら、静かな夜の時間をやり過ごそうとしていた。
すると、剣一がマグカップをテーブルに置き、当然のことのように告げた。
「寝る時は俺のベッドを使うといい。流石に客人を椅子や床でなんて寝させられないしな。……俺は椅子で仮眠を取るか、床に毛布を敷けばいい」
「な……っ!? べ、ベッドって……あんたの部屋の!? 男のベッドに、女を寝かせようっての!?」
「護衛の対象を、一番安全で快適な場所に配置するのは当然だ。それに、もしまた夜中に刺客が来たら……」
剣一は至近距離でアリスの瞳を真っ直ぐに見つめた。
「一番近くで守れる場所にいてほしいんだ」
「……っ!!」
アリスは言葉に詰まった。その言葉に下心がないことは、彼の澄み切った瞳を見れば分かってしまう。分かってしまうからこそ、余計に逃げ場がない。
「……わ、分かったから! 寝ればいいんでしょ、寝れば! でも、絶対に入ってこないで! 変なことしたら、最大出力でこの家ごと吹き飛ばしてやるからっ!」
「ああ。分かっている」
剣一が短く頷き、部屋の扉を開けてアリスを案内する。
アリスは薄い掛け布団を顎のあたりまで引き上げ、シーツに顔を半分埋めるようにして小さく丸まった。
「……け、剣一の匂いがする。」
剣一に包まれているようで落ち着きそうになるが突如違う感情が割り込んでくる。
「……だ、ダメ。何これ……剣一の……匂い……すき……スキスキスキスキスキスキ……!!」
一瞬前まで落ち着くなんて思っていた自分はどこへやら。脳内に直接、好きという感情が洪水のように溢れ出し、アリスの理性は完全に決壊した。
(待って、何これ!? なんでこんなに止まらないの!? スキスキスキ……って、あたしバカみたいじゃん!?)
一度認めてしまった想いは、堰を切ったようにアリスの全身を駆け巡る。
顔が熱い。どころではない。魔装を展開した時よりも体温が急上昇し、布団の中はもはやサウナ状態だ。枕に顔を押し付け、シロミに言われた通り大きな声を出さないよう、必死に枕を噛み締めて悶絶する。
(落ち着け、あたし! 理性を最大出力で維持しなさいっ!……でも、でもっ、この匂い、やっぱり剣一で……あああもう、好きすぎて死ぬ!!)
バタバタと脚を動かして暴れたい衝動を必死に抑え、アリスは体をエビのように丸めた。暗闇の中で、自分の心臓の音が「スッキ、スッキ」とリズムを刻んでいるようにさえ聞こえてくる。
一方、扉一枚を隔てたリビング。
剣一は椅子に座り、壁の向こうから伝わってくるガサガサ、モゾモゾという、ただならぬ衣擦れの音に眉を寄せていた。
「……アリス? 寝付けないのか?」
剣一の低い声が扉越しに届いた瞬間、アリスの心臓は今日一番の爆発を起こした。
「なっ、なんでもないっ!! 寝てるよ、爆睡中っ!!」
裏返った叫び声が響く。アリスは即座に口を塞いだが、時すでに遅し。
リビングの剣一は、「あんな大声で爆睡中とはどういう理屈だ……?」と本気で首を傾げたが、これ以上踏み込むのはハレンチに該当するかもしれないと考え、静かに目を閉じた。
さらにその奥の寝室。
シロミは壁越しに伝わってくるアリスの心の叫びと、剣一の困惑を完璧に受信していた。
「あらあら……あの子、あんなにスキを連呼して……ふふっ、これじゃあ明日の朝が楽しみだわぁ。ねぇ、真白ちゃん? お兄様が食べられちゃわないか、心配になっちゃうわねぇ」
シロミは真っ暗な部屋の中で、真白の頭を撫でながら最高に楽しげに目を細めた。




