木の前と月の後②
扉から溢れ出した水が瞬時に形を成し、水の聖霊ウルダイブが激しい水飛沫と共に姿を現した。
彼女は、水滴が魔法のように繋がってできた、知的な印象を与える眼鏡をかけている。水で形成されたその瞳は、眼鏡の奥で冷徹な光を宿し、凛とした淑女の佇まいを見せていた。
「……用があるから起こされたと思えば愛の告白なんて……一体どこのどいつですかっ!!」
ウルダイブは水でできた人差し指で、眼鏡のブリッジをくい、と押し上げた。その声は、冷たく透き通った水の底から響くような、知的で理知的な女性のものだった。
「……あ、あたしは、愛の告白なんてしてなくて……指示に従っただけで……ねぇ?」
アリスが顔を真っ赤にしたまま、助けを求めるように振り返った。
しかし、そこにいたのは頼れる仲間ではなく、全力を挙げて他人のふりをする三人だった。
シロミはあらぬ方向の空を見上げて「あら、あそこの雲、綿あめみたいで美味しそうだわぁ」と独り言をこぼし、真白は足元の石ころを熱心に見つめて「わぁ、この石……すごく丸いね……」と不自然なほど感銘を受けている。
極めつけは剣一で、腕を組みながら遠くの山並みを険しい表情で見据え、「……風向きが変わったな」と、歴史の転換点に立ち会っている武人のような静かさで佇んでいた。
「……っ!! あんたたちぃ!!!」
「しらばっくれても無駄ですよ! 私の安眠を妨げ、あんな破廉恥な叫びを轟かせたのは……そこの、金髪のあなたですねっ!」
ウルダイブが冷ややかな視線をアリスに向け、再び眼鏡の位置を直す。その動作は優雅だが、怒りで眼鏡のレンズ部分の水が僅かに波打っている。
「違うってば! 石盤に書いてある通りに言っただけ! 一線を超えますって言えば扉が開くって書いてあったから……!」
「私が書いたのは『今から一線を超えます』です! あなたが付け加えた『あたしと剣一で』なんて文言、一文字も書いてませんっ! 」
ウルダイブの声音が、急に鋭さを帯びた。知的だったはずの彼女が、眼鏡を少しずらし、呆れと怒りが混ざったような表情でアリスを睨みつける。
「それはもう、ただの公然わいせつ……ではなくて、公然告白ですっ! 私の静寂を、そのような破廉恥な叫びで汚すとは、一体どのような教育を受ければそうなるのですかっ!!」
「ーーーーっ!!!」
知的な淑女に完膚なきまで論破されたアリスは、もはや声にならない悲鳴を上げ、その場に崩れ落ちて顔を覆った。
「あ、あのっ!私、天城真白です!私たち天空を目指しててシルフィーヌとノムラさんにも力を貸してもらっていて、ウルダイブさんにも力を貸していただきたくて会いに来たんです!」
真白が真っ直ぐな瞳で訴えると、水の聖霊ウルダイブは波打つような動作で彼女を凝視した。
「シルフィーヌとノムラが力を……? あなたは一体……いえ、今はいいですね。あの二人が力を貸しているのであれば、私も貸しましょう」
先ほどまでの激しい水飛沫が収まり、ウルダイブは凛とした声音で言葉を継ぐ。
「ノムラまで認める人間なら、相応の価値があるのでしょう。それに……ふふ、あんなに熱烈な告白を聞かされては、女性として無下にするのも無粋というものですしね」
「……う、ううう……まだ言うか……」
顔を覆ったまま、アリスの指の間から消え入りそうな呻きが漏れる。
「ですが、タダでという訳にはいきません!真白さん!あちらにいる、剣一という男と、金髪の……いえ、私と剣一で一線を越えますさんをこちらに連れてきて下さい!」
「だーかーら! アリスだってば!!」
涙目で叫ぶアリスだったが、ウルダイブはそれを優雅に聞き流し、水の衣を翻して祭壇の前へと導いた。
「では二人とも、向かい合って目を瞑って下さい……。そう、心の中の不純な雑念を消すのです」
ウルダイブは水の衣を翻し、知的な教師のような口調で指示を飛ばす。
「そしてアリスさんは剣一さんに背を向けるように後ろを向いて下さい」
「え、え……? こう……?」
言われるがまま、アリスは剣一に背を向けて直立不動になる。心臓の鼓動が、祠に響く滝の音よりも大きく跳ね上がっていた。
ウルダイブは水の眼鏡を指先で弄り、少し楽しげに微笑む。
「剣一さん、両手を開いて一歩前へ……。そう、そのまま。剣一さん、そこに何かがあれば抱きしめて下さい」
「……こうか?」
真面目な顔で剣一が腕を広げ、一歩踏み出した。すぐ目の前には、震えるアリスの肩がある。
「ちょっ、ちょっと!? ウルダイブ、これ何の儀式なの!?」
「黙りなさい剣一と一線超えますさん! これから心の汚れを払うための魂の同調を行うのです! ほら剣一さん、遠慮はいりませんよっ!」
「わ、わああああああ!!」
絶叫するアリスの抵抗も虚しく、指示に忠実な剣一の腕が、ゆっくりと、けれど確実な力強さでアリスの肩越しに回された。
「……失礼するぞ、アリス」
「……っあ」
剣一の低い声が耳元で響き、彼の体温が背中から伝わってくる。
がっしりと、それでいて優しく包み込むような腕。アリスはあまりの衝撃に、叫ぶことすら忘れて全身を硬直させた。
その背後では、シロミが「あらあら、聖霊様自ら特等席を用意してくれるなんて。粋な計らいねぇ」と、酒の代わりに祠の聖水を飲み干さんばかりの笑顔で眺めている。
「ア、アリスちゃん……が、頑張って……!」
真白も真っ赤になって両手で顔を覆っているが、その指の間からは好奇心が隠しきれず、じーっと二人の様子を見守っていた。
「……ふむ。二人の心拍数が合わさり、魔力が共鳴し始めましたね」
ウルダイブが満足げに頷き、水でできた杖を高く掲げる。
「さあ! そのまま一線を超……いえ、心の深淵を見つめなさい! 穢れを焼き払うのは、その熱き情熱ですっ!」
「(……もう、どうにでもなれえええええ!!)」
アリスは心の中で叫び、羞恥心でショート寸前の意識を、心の穢れをぶっ飛ばすためのエネルギーに無理やり変換し始めた。
「……ふぅっ。これでスッキリ……終わりでいいでしょう。私も力になります。何かあれば呼んでいただいて大丈夫ですっ!破廉恥一線さんも色々と頑張って下さいね」
ウルダイブが満足げに言い放つと、祠の中へと戻っていった。
「――っ、はぁ、はぁ……っ!!」
解放された瞬間、アリスは膝から崩れ落ちた。背中に残る感触と、「破廉恥一線さん」という不名誉な呼び名が脳内で大渋滞を起こしている。
「……アリス、大丈夫か? 顔がさっきより赤いぞ」
「だ、ダメ!今は近づかないでっ!」
首を傾げる剣一。その背後では、シロミが腹を抱えて笑いを堪えていた。
「くふふ……破廉恥一線さん。いいわねぇ、アリスにぴったりじゃない。今度から酒場でもそう呼んであげましょうか?」
「やめて! 絶対言わないで!?」
「アリスちゃん……本当にお疲れ様。でも、これでウルダイブさんの力も借りられるようになったんだね」
真白が安堵と少しの羨望が混ざったような複雑な笑顔でアリスを労わった。
「……とりあえず、契約は完了したみたいだな。一度家まで帰るか」
剣一が事も無げに告げると、アリスは魂が抜けた顔で固まった。
「……えっ? 帰るの? ……あんな思いをさせておいて、いきなり帰るかの一言で終わりなの……っ!?」
「さあ、帰りましょうか。今日の晩御飯は、アリスのお祝いね。一線越え記念日ということで、とびきり豪華なものを作ってあげるわ」
「記念日にしないで! 忘れてってば!!」
アリスの叫びが木霊する中、剣一は既にスタスタと出口へ向かっている。真白は申し訳なさそうに寄り添い、一行は家へと向かい始めた。アリスの顔は、夕陽のせいか羞恥心のせいか、真っ赤に染まったままだった。




