木の前と月の後①
水の祠に到着すると、そこはなんともいえない神秘的な霊気に満ちた場所であった。周囲には透き通った川が流れ、背景には幾筋もの滝が白い糸のように崖を滑り落ちている。鮮やかな緑に囲まれた中に、ぽつんと石造りの祠が佇む光景は、どこか浮世離れした美しさがあった。
「……ふぅ。綺麗な場所だけど……意外と普通に来れる場所なんだ。もっと険しいところにあるかと思ってた」
ようやく呼吸を整え、アリスが周囲を見渡しながら呟く。顔の赤みは引ききっていないが、戦士としての冷静さを少しずつ取り戻しているようだ。
「そうだね。でも、ほのかに霊気が祠から漏れ出てる感じがする……。ここに、きっと水の聖霊がいるはず」
真白が祠に手をかざし、目を閉じて魔力の流れを読み取る。彼女の銀髪が、祠から溢れる霊気にわずかに揺れた。
「あら。静かな景色に澄んだ空気……。これは、あたしたちのダブルデートを歓迎してくれてるって感じかしらぁ?」
シロミがクスクスと艶然たる笑みを浮かべ、剣一とアリス、そして自分と真白を交互に指差した。
「だっ、誰がっ!……っ、ダブルデートじゃない! 聖霊との契約っていう大事な任務のためにここに来てるんだからっ!」
アリスが即座に食ってかかるが、その声はどこか上ずっている。今朝の「メスの顔」宣告が脳裏をよぎり、頬が再び熱をを帯びていく。
「あらあら。任務とデートは両立できるものよ? 剣一も、こんなに可愛い子に肩を貸してたんだもの、悪い気はしなかったはずよねぇ?」
「……シロミ。お前、さっきから楽しそうだな」
剣一が冷ややかな視線を向けるが、シロミはどこ吹く風で「ええ、最高に」と満足げに微笑んだ。
「アリスがこんなに初々しい反応を返してくれるんですもの。からかい甲斐があるというものよぉ」
「シロミさん! ほら、アリスちゃんがもう限界ですから……!」
真白が苦笑しながら、顔から火が出そうなほど真っ赤になって震えているアリスの肩を叩く。このままではアリスがオーバーヒートしかねない。
「……真白、石盤に書いてある文字って読めるか? 無理なら聖霊たちにも聞いてみてほしい」
剣一が空気を変えるように促すと、真白は祠の傍らに佇む古びた石盤に近づいた。
「えーっと……私には読めないなぁ。シルフィーヌとノムラに聞いてみようかな。――召喚、シルフィーヌ、ノムラ!!」
淡い光の魔術回路から、軽やかな羽を纏ったシルフィーヌと、重厚な気配を持つノムラが姿を現した。
「あれ、ノムラじゃん! 久しぶりだね! 元気してた?」
「おう。お前も元気してたかシルフィーヌ。訓練では入れ違いだったからな」
再会を喜ぶ二人の聖霊。その傍らでは、アリスは深呼吸をして、火照った顔を手のひらで冷やしていた。剣一の機転によって、なんとか爆発は免れたようだ。
「……二人とも。この石盤に何て書いてあるか分かる?」
真白が尋ねると、ノムラが顎を擦り、シルフィーヌが文字を覗き込んだ。
「ふむ……これは聖霊語だな。シルフィーヌ、お前の羽で少し埃を払ってくれ」
「オッケー! えいっ!」
シルフィーヌが羽を振ると、柔らかな旋風が石盤の表面をなぞり、隠れていた細かな文字が浮かび上がった。
「「……なんだこれ(は)」」
二人の声が、驚きと呆れで見事に重なった。
「二人ともどうしたの? 何が書いてあったの?」
「……ここにはな。『眠りに入るので起こさないで下さい。本当に御用がある方は祠の扉の前で、[今から一線を超えます]と叫んで下さい』って書いてあるぞ」
「相変わらず変わったやつだよねー、ウルダイブ」
二人の答えに、背後から艶のある声が割り込んだ。
「あらあらあら。ここに一線にゆかりのある代表がいたわねぇ」
シロミがクスクスと肩を揺らし、獲物を見つけた狩人のような目でアリスを凝視する。
「…………っ!!」
アリスは絶句した。よりによって今朝弄り倒されたばかりの「一線」というフレーズ。運命が自分を嘲笑っているとしか思えない。
「……アリス。お前、さっきから顔が真っ赤だぞ。大丈夫か?」
彼にとっては純粋な体調への懸念に過ぎなかったが、今の彼女――普段の牙を剥く狂犬アリスから、完全に茹で上がった赤面アリスへと成り果てている彼女にとっては、その無自覚で天然な優しさこそが、何よりも破壊力抜群の追撃だった。
「だ、大丈夫じゃない!! なんなの、その合言葉! ふざけてんの!? 誰が言うかっての、そんな恥ずかしいこと!!」
「でもアリス、これを言わないと扉が開かないみたいだよぉ? ほら、代表なんだから、ビシッと言っちゃってちょうだい」
「言わない! 絶対言わないからね!!」
アリスが地団駄を踏んで拒絶する横で、シルフィーヌが「あはは、アリス頑張ってー!」と能天気に声援を送り、ノムラは「……まぁ頑張れよ」と同情的に消えていった。
「……仕方ない。俺が言おうか?」
「えっ、お兄ちゃんが!? それはそれで、なんだかすごく……語弊がある気がするけど……」
真白が頬に手を当てて困ったように笑う。
「ちょっ、ちょっと!流石に剣一が言うのはだめだって!……なんかあたし以外に……言っちゃう……のは……」
アリスは語尾を濁しながら、消え入るような声で訴えた。
「他の女に一線を超える」というフレーズを、たとえ合言葉であっても剣一の口から聞きたくない。羞恥心を乙女心が僅かに上回る。
「あらあら。一線はあなたにとって、とても大事な言葉だものねぇ……」
シロミが三日月のような目でアリスを眺め、楽しげに指先で唇をなぞる。
「ちなみに、私と真白ちゃんは後衛職でしょう? 祠の聖霊に対して、先陣を切れる人が覚悟を示すのは当然だと思うのだけど……。ねぇ、前衛のアリスちゃん?」
「……っ!!」
アリスは言葉に詰まった。
この場において、剣一を除けば前衛は自分しかいない。シロミの理屈は、嫌がらせに近いほど正論だった。
「わかったよ! 言えばいいんでしょ、言えば!!」
ついにアリスの理性が弾けた。
羞恥心で爆発する前に、怒りに任せてやり遂げる道を選んだのだ。彼女は気合いを入れて、仁王立ちになって祠の扉を見据えた。
「アリス、無理はしなくていいんだぞ」
「うるさい! 剣一は黙ってて!!」
心配して声をかける剣一を力いっぱい黙らせ、アリスは大きく息を吸い込んだ。顔はもはや、自身の放つ炎よりも赤く染まっている。
「い、いくよっ!! ……せ、せーのっ!!」
アリスは両目をぎゅっと閉じ、喉が張り裂けんばかりの声で叫んだ。
「――っ、今からっ!! あたしと剣一でっ、一線を超えますっっっ!!!」
静かな山道に、アリスの絶叫が響き渡る。
その言葉の響きは、合言葉というよりは、もはや公衆の面前での「大胆な愛の告白」にしか聞こえなかった。
数秒の沈黙。
背後でシロミが「あら、二人で越えちゃうのねぇ」とクスクス笑い、真白が「ア、アリスちゃん、大胆……」と顔を赤らめる。
ーーバンッ!
その声に応えるように扉は勢いよく開いた。




