第1話 秘密結社は納屋から始まる
エンデ領は、地図の端に申し訳程度に書き添えられるような土地だった。
山と森に囲まれ、街道からも外れ、戦争にも商売にも縁がない。災厄も英雄も訪れず、代わりに「何も起こらない」という事実だけが、毎年きちんと更新されていく。
その何もなさこそが、クロード・エンデを育てた。
下級貴族の嫡男。
畑を管理し、税を集め、時折村人の揉め事を裁く――それだけの家。
剣を学ぶことも、魔法をかじることもできたが、どちらも「期待されるほど」ではなかった。
才能がないわけではない。
ただ、集中力がなかった。
なぜならクロードは、別のことに忙しかったからだ。
――秘密結社。
それは子供の頃、旅芸人が語った物語から始まった。
世界の裏で暗躍する組織。意味深な言葉を交わし、名もなき者たちを操る存在。
英雄よりも、王よりも、ずっと“それらしい”。
エンデには何もなかった。
だからクロードは、何かを作るしかなかった。
夕暮れ時。
屋敷の裏手にある古い納屋の扉を、クロードは内側から閉めた。
干し草の匂い。
木材の軋む音。
隙間風に揺れるランタンの火。
地面には、白い粉で描かれた歪な円。
意味はない。ただ雰囲気がそれっぽいから描いただけだ。
クロードは黒い外套を羽織り、円の中央に立った。
姿勢を正し、低く息を吸う。
「――集え」
当然、誰もいない。
それでもクロードは続けた。
「我は薔薇十字団が王、クロード・エンデ。
沈黙の中に真理を求め、影に生きる者をここに迎え入れる」
言葉は納屋に吸い込まれ、反響することもなく消えた。
それでいい。秘密結社とは、そういうものだ。
彼は満足そうに頷き、円の外へ出る。
この儀式に、魔術的な意味は一切ない。
だがクロードにとって重要なのは、意味ではなく形式だった。
形から入る。
形が整えば、いつか中身も追いつく。
――そう信じていた。
その夜、クロードは眠れなかった。
頭の中で、まだ見ぬ団員たちの姿が勝手に動き回っていたからだ。
翌朝。
森へ出たのは、ただの気晴らしだった。
エンデ領の森は深く、古い。
人の手が入らない場所が多く、昔から「何かが出る」と噂されている。
だが実際に出るのは、せいぜい野生動物か、道に迷った旅人くらいだ。
クロードは、崩れた石壁を見つけて足を止めた。
蔦に覆われた、半ば地面に沈んだ遺構。
かつて何かが建っていたのだろうが、今は原型も分からない。
「……それっぽいな」
それだけの理由で、彼は中に入った。
瓦礫の奥、倒れた石柱の影に、木箱があった。
鍵は錆び、簡単に外れた。
中にあったのは、一冊の本だった。
黒い表紙。
金属製の留め具。
中央に刻まれた、十字と薔薇の意匠。
クロードは、しばらく動けなかった。
偶然にしては出来すぎている。
だが、だからこそ。
「……秘密結社の象徴に、ちょうどいい」
本を抱えた瞬間、背筋にぞくりとした感覚が走った。
重さは普通だ。
だが、触れてはいけないものに触れたような、根拠のない確信だけがあった。
クロードはその本を、胸に抱きしめた。
このとき彼は、まだ知らない。
それが世界に十三しか存在しない魔導書の一冊であることを。
そして――
この一冊が、彼の秘密結社を「遊び」から「現実」へと引きずり出すことを。
納屋の奥で、白い円が、静かに剥がれ落ちていた。




