第1章 記憶を失った王太子妃
「いい加減に目を覚ませ」
激しく体を揺さぶられてミモザリが目を覚ますと、金髪碧眼の若い男が自分を見下ろしていたので仰天した。
「外人? フゥーアーユー?」
「何言っているのだ? まだ寝ぼけているのか?」
「あら、ニッポン語が話せるのね? もしかしてハーフ?」
「おい、いい加減にしろ、ミモザリ!
何をわけの分からないことを言っているのだ」
「ミモザリ?」
誰? 私の名前はモナミよ。ハルカゼ=モナミ。
いくらドキュンネーム流行りとはいえ、純ニッポン人でミモザリはないわぁ。
「おい、誰か早く侍医を呼んでこい! 王太子妃が目覚めた。だがおかしいと」
王太子妃? 何言っているの?
やがてバタバタという足音とともに現れた白衣の男性を見て、彼女は再び驚いた。
銀髪に赤い瞳……。白髪じゃなくて銀髪よ。アニメの主人公のようなイケメン。
「王太子妃殿下、目を覚されましたか!」
やはりニッポン語を話している。
「目は覚ましたのだがおかしなことばかり言っているのだ」
「王太子妃殿下、お気分はいかがですか?」
「……」
「私がわかりますか?」
「分かりません」
「では、こちらがどなたかわかりますか?」
「わかりません」
「なんだと! 私のことを愚弄しているのか? 夫のことがわからないなんて、ふざけているのか?」
「夫? そちらこそふざけるのはやめてください。あなたの目は愛する妻を心配する目ではありません」
あまりにも的確な彼女の言葉に、王太子や医師、その場にいた使用人達が絶句した。
「失礼ですが、貴女のお名前を教えて頂いてもかまいませんか?」
侍医がイケメンボイスで優しくそう訊ねると、彼女は少し頬を染めて答えた。
「ハルカゼ=モナミと言います。二十七歳、会社員です」
「「二十七歳!!」」
その場にいる全員が喫驚した。
なぜなら、彼女は元マートリス侯爵令嬢。現在はキャノット王国の王太子妃であったからだ。しかも年はまだ十七歳だった。
✽✽✽
近頃宮内はざわついていた。
ミモザリ王太子妃が倒れて頭を打ったせいで、なんと記憶喪失になってしまったからだ。
自分が誰なのかを忘れてしまった上に、奇行だと思えるような行動ばかりしていた。
そのせいで王太子殿下を始めとして、お付の者達が振り回されて右往左往していたのだ。
とはいえ、挙式をしてからこの半年、王太子妃はずっと執務室にこもっていたために、彼女の姿を見た者はあまりいなかった。それ故に王太子妃殿下の奇行と言われても多くの者達は正直ピンとこなかった。
もっとも、実際は王宮で働いている者達の多くが、王太子妃の姿をよく目にしていたのだ。しかし、その人物がその尊い方だと気付いていなかっただけなのだが。
王太子妃が記憶喪失になったことで一番迷惑を被ったのは、王太子妃付き侍女リルカだった。
彼女に公務をしてもらえなくなった王太子やその側近達は自業自得。
彼女の護衛やリルカ以外の侍女、そしてメイド達は配置換えになっただけなので、問題無しだった。いや
「王太子妃付き侍女のリルカがこのレベルなら、それ以下だと思われる侍女やメイドなんていらないわ。守ってくれそうもない護衛はもっと不要」
役立たずと罵られて実質クビになったようなものだから、それなりのダメージは受けたかもしれない。
それでも、ただ一人残されたリルカよりはましだったろう。
リルカは王太子妃が目覚めたその日から、主の奇行を目にするたび、この一月ずっと同じ台詞を吐き続ける羽目になったのだから。
「王太子妃殿下、どうかおやめください……」
しかし、最初のうちは悲鳴を上げ、ヒステリックに叫んでいた彼女も、精神的にかなり疲弊してしまったせいなのだろう。今では弱々しく、まるで譫言のようにそう呟いていた。
侍女リルカは、五日ぶりに目を覚ました王太子妃のミモザリがその日のうちにベッドから出て歩こうとしたので、慌ててそれを止めようとした。
「何をなさるのですか?」
「トイレに行くのよ」
「トイレとは?」
「ああ、ウーブリエット」
ウーブリエットとは排泄物を落とすための穴だ。囚人を地下に落とす穴のことも指す場合もあるが。
「オマルをすぐにご用意致しますからお待ちください」
「オマル? 冗談じゃないわ。赤ん坊じゃあるまいし。自分でご不浄まで歩いていくわ」
「いけません。ベッドから出てはだめです。安静にしていないと」
王太子妃に何かあったら大変だ。責任を取らされてはたまらないと、侍女リルカは必死にそれを止めようとした。
しかし、ミモザリはそんな彼女を睨みつけて、ドスのきいた声でこう訊ねた。
「あなた、私を寝たきりの病人にしたいの?」
「滅相もありません。ただ、まだ体調が不十分ですので、安静にと申し上げているだけです」
「ねぇ? 私が意識を取り戻すまでの五日間、あなたは私の身体をマッサージしてくれていた? 手足の曲げ伸ばしは?」
「はっ? 何ですか、それは。そんなご無礼なことはしておりません」
「こっちがはっ?だわ。
五日も身体を動かさなかったら血の巡りが悪くなるし、筋肉も落ちて、歩けなってしまうじゃないの。
今も腰が痛くてたまらないわ。体位も変えてくれなかったのでしょ?
もし床擦れができてしまったらどうするつもりだったの? そこから化膿してバイ菌が入ったら体の一部が腐ることもあるわ。そして最悪死んでしまうかもしれなかったのよ。
そんなこともわからないくらい質が悪い侍女でも、この国では王太子妃付きになれるものなの?」
「なっ!」
「しかもさっき持ってきた食事は何?
五日も何も口にしていなかった人間に、脂っこいこってりした料理を大量に持ってくるなんて、虐めなの?
胃が驚いて痙攣するわ。私の命を縮めたいの?
水だって先生に言われるまで持ってこなかったし。三日以上水分を摂取しないと人は死ぬ場合もあるのよ」
「お水のことは申し訳ありませんでした。でもお食事は料理長が作ったものを運んで来ただけです」
最初は王太子妃を見下すような目で見ていた侍女リルカは、真っ青な顔をして震えながらそう言った。
そんな彼女にミモザリはこう言った。
「使えない専属侍女ね。スープとかおかゆみたいな胃に優しいものを作り直すように料理長に命じることもできないなんて。
まあ、料理長も病人に対してそんな配慮もできないのだから、同じくらい役立たずだけれど」
「そんな! 彼はこの国一番の料理人です。殿下はそのことをお忘れになっているだけで」
リルカがムキになってそう言ったので、ミモザリは二人の関係を察した。
「美味しい料理を作れることだけが最高の料理人というわけじゃないわ。
とにかく、私が直接厨房へ行って料理人達に要望を伝えるわ。もちろんご不浄へ行った後でね。
あっ、至急服を用意して。ドレスは重くて弱った体には負担がかかるから、女官かメイドの制服を借りてきてね。ぼやっとしないで早くして!」
リルカはミモザリの発する一言一句に驚いていた。しかし、もし王太子妃殿下にお漏らしなどさせてしまったら、本当に首が飛んでしまう。
彼女は王宮の侍女とは思えない速さで備品室へと向かった。
倒れる以前の王太子妃は、絶えずおどおどして自信なげだった。
夫である王太子だけでなく、彼の側近や侍女達に蔑ろにされても、何一つ言い返すことはなく、文句も言うこともなかった。
そんな気弱だった王太子妃のあまりの変わりように、侍女は頭が混乱してどう対処していいのかさっぱり分からなかった。
何か悪霊にでも取り憑かれたのかもしれない。
そう考えたリルカは、その後はただただ彼女の命令に盲目的に従うようになった。




